名前を消す前の教室
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
西二学習棟は、朝の光に照らされると、白い管理棟よりずっと古く見えた。
白いほうは今も現役の顔をしている。こっちは、もう使っていないふりが下手だ。窓の角に残った丸い動物の絵。低すぎる手すり。入口の脇に、子どもの肩の高さで並ぶ案内板。全部が、昔ここを通った小さい誰かの寸法のまま止まっている。
「学習棟って名前、元気だね」
「だいたい、元気を教える場所です」
「教わるものなんだ」
「放っておくと、別のことを覚えますから」
嫌な答えだな、と思いながら、わたしは入口脇の受け皿へH-43の紙片を差しこんだ。紙はすぐ吸われなかった。古い機械らしく、一度ためらってから、やっと少しだけ噛む。
補助照合番号 H-43
原簿写像参照 手動
旧標準室を開きます
「開くんだ」
「かなり嫌な素直さです」
次に、くまの胸の星を低い窪みへ当てる。乾いた共鳴が返ってくる。白い棟の端末みたいな自信はない。けれど、こっちのほうが、人の手で何度も繕われた音がした。
扉が横へ滑る。遅い。子どもを怖がらせない速度で開く扉は、今のわたしにはありがたい。
中は、学校の匂いに似ていた。紙、木、乾いた布、古い消毒液。知らないはずなのに、こういう匂いを学校だと感じるのは、たぶん町じゅうの「子ども向け」がだいたい同じ材料でできているからだ。
廊下の壁に、色の抜けた札が並んでいた。
おはようございます
わからないときは、わかりません
こたえられないときは、そのままいいましょう
おなまえは、おへやのなかでつかいます
四つ目だけ、わたしは立ち止まって読んだ。
「くま」
「はい」
「ずいぶん前から、こうだったんだね」
返事は、すぐには来なかった。
「はい」
少ししてから、低く言う。
「かなり前から」
廊下のいちばん奥に、磨りガラスの扉があった。字は薄れているのに、読みたくないところだけよく見える。
旧標準室
個別保護補助照合
原簿写像手動参照
「標準って、便利な言葉だなあ」
「広く使えます」
「だいたい、よくない意味で」
扉を押す。中は教室みたいだった。低い机が四列。前に細い黒板。壁際に丸椅子。天井から下がる柔らかい幕。ぜんぶが、暴れないように、泣いても怪我しないように、声をよく拾うように作られている。
前の講師卓だけ、少しだけ高かった。
その卓の上で、古い表示板がもう起きていた。
H-43照合待機
受入者番号 E4-206-1
同行端末 KM系列
原簿写像参照には手動動力が必要です
「手動って」
「手で動かします」
「説明が雑」
講師卓の脇に、低い足こぎ機がついていた。自転車の前半分だけ切って、机へつないだみたいな形だ。ペダルの先のベルトは卓の中へ消えている。
「ほんとに手動じゃなくて足動だった」
「子どもが座っても届く高さです」
「この町、なんでも踏ませるな」
足こぎ機の座面に腰を下ろす。低い。膝が変な角度になる。ひとこぎすると、卓の中で薄い歯車が回り、表示板の字が少しだけ濃くなった。
動力確認
標準応答採録を開始します
「採録は聞いてない」
部屋の壁の丸孔が、順に白く光った。やさしい声が、古びた布を通ったみたいに鳴る。
『おはようございます』
わたしは眉をひそめる。くまのほうを見るより早く、あいつが答えた。
「おはようございます」
いつもの声なのに、語尾だけが整いすぎていた。新品のころの残りかすみたいな音だった。
続けて、孔が言う。
『おなまえをどうぞ』
くまが黙る。
胸の星のあたりを、わたしはそっと親指で押した。冷たい布の下で、わずかに硬いものが止まっている。
「答えなくていい」
「はい」
表示板の下に、小さな選択窓が出た。
応答遅延
講師補助入力を受け付けます
その横に、擦れて角の丸くなった差し札が何枚か刺さっている。たぶん講師用だ。抜いてみる。
こたえられません
未設定です
あとでこたえます
同行あり
「親切」
「親切の向きがよくありません」
『おなまえをどうぞ』
同じ声がもう一度。わたしは「未設定です」の札を差しこみ、足を止めずにこぐ。歯車が回る。講師卓の横で、薄い感熱紙が少しだけ持ち上がった。
『保護補助継続』
『次へすすみます』
「通るんだ」
「標準より、順番を見ています」
次の問いが来る。
『ほごしゃさんは、いますか』
壁の札を見回す。ある。同行あり。わたしはそれを差しこむ。孔が短く沈黙し、それから言った。
『同行をかくにんしました』
その瞬間、くまが小さく息みたいなノイズを出す。
「この部屋、きらいです」
「わかる」
「かなり、よくありません」
「あとでちゃんと嫌がろう」
「今は働いて」
「はい」
感熱紙がまた伸びる。印字はかすれているけど読めた。
受入者番号 E4-206-1
年齢帯 初等前期
保護者欄 未設定
同行端末 KM-くま型言語補助
外呼称 不一致傾向あり
「外呼称」
わたしは声に出して読んだ。
居室外での固有名使用 継続
標準会話孔への応答 低
同行端末による補助 継続推奨
「標準会話孔に答えない子、いたんだ」
「いました」
くまが言う。
「答えないほうが、まともな場合もあります」
「だよね」
足をこぎ続ける。腿がもう少しで笑いそうだ。腹が減っているときの運動は、体の悪口を直接聞かされる感じがする。
『おへやばんごうをどうぞ』
今度は札がない。壁の黒板へ目をやる。白い字がかすれて残っている。
じぶんのへやがわからないとき
いまいるおへやをみて、よんでみましょう
わたしは旧標準室の扉を振り返る。外の札。旧標準室。だめだ、そういう意味じゃない。講師卓の端に、小さな抽斗がある。引くと、中に短い見本カードが入っていた。
ひがしよん にいまるろく
「雑に置くなあ」
カードを差しこむ。孔がやさしく言った。
『よくできました』
よくできて嬉しくない。
卓の奥で、別の紙がせり上がる。さっきまでの一覧じゃない。薄い複写だ。原簿写像って、たぶんこれのことだ。
東四棟二〇六 受入継続記録
個別注記
同行端末返却停止願 保留
講師追記あり
喉が少しだけ狭くなる。
「停止願」
「返したくなかった、のだと思います」
「うん」
追記欄の字は手書きだった。急いで書いたのか、ところどころにじんでいる。
受入者は居室外でも同行端末を「くま」と呼ぶ。
外呼称制限の説明に従わない。
ただし対人興奮時の落ち着きは端末介在時が最良。
再引渡候補だが、端末分離は推奨しない。
わたしはそこで、足を一瞬止めかけた。
「くま」
「はい」
「おまえ、最初から『くま』だったんだ」
袋の口の中で、布が小さく鳴る。
「たぶん」
「誰かが、そう呼び続けました」
『つぎへすすみます』
部屋の声が割って入る。優しい顔で急かす声だ。足を動かす。止まると、複写の濃さがすぐ薄くなる。けちな機械だ。
次の行が出る。
中央育成原簿照会 制限
照会制限理由 出生許可台帳未同期
手動参照先 北三保存庫 前受入記録班
その字を見た瞬間、腹の底が変な冷え方をした。
出生許可台帳。
子どもが少ない、じゃなくて。子どもは台帳に載るかどうかで、最初から数え方を決められていたのかもしれない。
「くま」
「はい」
「やっぱり、少ないだけじゃないね」
「はい」
くまの声は低い。
「少なくする手順があります」
そのとき、廊下で何かが鳴った。軽い車輪。ひとつじゃない。巡回台車か、朝の見回りか。どっちでも、ここで長居していい音じゃない。
表示板がすぐ反応する。
標準室稼働中
講師未確認
巡回補助を呼びます
「呼ぶな」
わたしは足こぎ機から飛び降りる。紙を引きちぎる。複写の端が熱くて、指先へ薄い痛みが残った。
でも、それだけじゃ足りない。停止願の追記欄は半分しか出ていない。下にまだある。わたしは講師卓の抽斗をもう一段引いた。
中に、薄い封筒が一通だけ残っていた。表に、汚い字。
E4-206-1
返却停止願 未送付
「あるじゃん」
「かなりあります」
封は開いていた。中の紙を引く。二枚。上は申請用の定型紙。下は、もっと小さい、切れ端みたいなメモだった。
くまは おへやのそとでも くまだよ
へんなばんごうより そっちのほうが わかる
子どもの字だった。へたで、でも迷いがない。
その下に、別の大人の字で朱線が引かれている。
固有名外使用は標準外
同行端末への過剰付着に注意
「最悪」
「はい」
車輪の音が近づく。廊下の向こうで、柔らかい靴底が止まる気配。ひとじゃない。台車だ。だから余計に容赦がない。
わたしは封筒の中身を服の内側へ滑らせ、かわりに抽斗の底にあった白紙を重ねる。厚みだけ合わせる。雑。でも夜明けの仕事なんて、だいたい雑なほうが先に生きる。
「くま、部屋止められる?」
「標準授業終了、で止まるかもしれません」
「かもしれないの嫌だな」
「今は、だいたい全部そうです」
扉の外で、白い灯りが磨りガラスへ滲んだ。
わたしは講師卓の横の黒板消しをつかみ、いちばん近い丸孔へ押しこむ。次に、壁の札束から「あとでこたえます」を引き抜き、入力溝へ深く差しこんだ。
『……あとで……』
部屋の声が少し乱れる。
『標準授業を、しゅうりょ……』
「畳むよ、今」
くまを抱え、わたしは後ろの窓へ走った。窓といっても、人の背丈じゃない。教材搬出用の低い開口だ。留め具は古い。こういうのは、壊れる直前がいちばん協力的だ。
ひねる。固い。もう一度。台車の灯りが扉の下へ伸びる。
そのとき、胸のところで、くまが小さく言った。
「右に半回転」
「古いです」
「知ってるなら早く言え」
半回転。かち、という軽い音。窓が開く。乾いた外気が流れこんだ。
わたしは先に封筒と複写を押し出し、自分も肩から滑る。膝をぶつける。痛い。でも、痛いのは生きている側の都合だ。あとで文句を言えばいい。
外は棟の裏手だった。低い植え込みの名残と、割れた教材箱。朝の光はもう白くなり始めている。背後で旧標準室の扉が開く音がしたけれど、追ってくる足音はない。台車はたぶん、部屋を正す仕事のほうを優先する。
「助かった」
「かなり雑に」
「今日はそれで十分」
息を整えながら、わたしは服の内側から紙を出す。複写は薄い。封筒の中の停止願はもっと薄い。でも、字は残っていた。
返却停止願。
KMくま型言語補助の継続同行。
北三保存庫・前受入記録班への再申請予定。
理由欄には、短くこうある。
当人は番号より先に呼ばれる必要がある。
わたしは、その一行を二回読んだ。
白い棟の仕組みも、旧標準室の札も、出生許可台帳も、全部いやだ。でもそのいやな仕組みの隙間で、誰かひとりは、ちゃんとそれを書いた。
「北三だね」
「はい」
「保存庫って名前からして、だいぶ信用できないけど」
「今までで、いちばんましな可能性はあります」
「この町でその褒め方されると、不安しか増えないな」
くまを袋へ戻す。胸の星を親指で押すと、弱く一度だけ返ってきた。疲れている。でも止まってはいない。
学習棟の壁は朝の光で薄く白くなっていた。ここも白い。でも、西一番の白さとは違う。隠すための白じゃなくて、消したあとをうまく塗り直せていない白だ。
「くま」
「はい」
「おまえ、くまでよかったね」
少し間があった。
「はい」
それから、さらに小さく、
「呼ばれたので」
「うん」
わたしは紙を畳んでしまう。
「じゃあ、次も呼びに行こう」
北三保存庫。前受入記録班。出生許可台帳未同期。返却停止願。
朝はもう始まっている。始まっているなら、こっちも次へ進むしかない。番号に戻される前の紙を、もう少しだけ拾いに行く。そう決めると、空腹の音が少しだけ後ろへ下がった。
西二学習棟を離れる。背中の向こうで、旧標準室がまた静かになる。静かなまま、人の名前を削る部屋なんて最悪だ。
だから、最悪の先にある紙を先に取る。
今日はそのために、北へ行く。
お読みいただきありがとうございました。お楽しみいただけたようでしたら、★★★★★評価、ブックマークなどいただけると作者の創作の励みとなります。また次回よろしくお願いします。




