朝まえの主照会卓
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
西一番の白い棟は、夜のほうが感じが悪い。
昼はただのきれいな壁に見えるのに、暗くなると、きれいにしておきたいものの中身まで透けてくる。粉っぽい風の向こうで、窓の少ない外壁が鈍く光っていた。上の階の影に沿って歩くと、靴の裏へ細かい砂がたまる。腹はまだ空いている。空腹は終わってくれないくせに、だんだん軽くなるのが困る。軽くなったあとの人間は、無茶を手順みたいに考え始める。
「くま」
「はい」
「Bの孔、ほんとに西一番まで繋がってる?」
袋の中で布が少し鳴った。
「上送停止時の手動搬入路です」
「かなり、いやな正確さで」
「その正確さ、食べられたら助かるんだけど」
返事のかわりに、胸の星形が一度だけ布を押した。残量が少ないときの、短い不機嫌だ。
白い棟の横腹には、外から見るとただの換気格子にしか見えない口がいくつもあった。控え紙に書かれていたのは「空調整備孔B」だけで、どれがそのBかまでは親切に書いていない。こういう町は、必要なところだけ不親切で、余計なところだけよく喋る。
わたしは壁の低い位置を順に見ていく。格子の枠。擦れた塗料。青い丸。青い丸。ひとつだけ、丸の下に薄く番号が残っていた。
B-主補。
「補」
「主照会補助です」
「略し方まで嫌だな」
しゃがんで触る。留め具は昨日のB孔より新しい。指だけでは無理だ。金属片を差しこみ、角度を変えて、もう一度。動かない。三度目で、かち、と嫌なほど小さな音がした。
格子を少し浮かせた瞬間、奥のどこかで青い線が走った。
照合待機
同行端末を接続してください
「勝手に起きるの早い」
「眠りが浅い建物です」
わたしは袋の口を開け、くまの胸の星形を格子の内側の薄い端子へ押し当てた。冷たい。すぐに、古い機械どうしの遠慮がちな共鳴が返ってくる。
KM系列 仮認証
受入者応答を確認します
その下に、小さな丸い穴が光った。会話孔だ。壁の中の昔の声が、砂をかんだみたいに鳴る。
『おかえりなさい。こたえてください』
わたしは一瞬だけ、くまを見る。昨日の通路で聞いた声と同じ調子だった。
「ただいま」
言うと、格子の奥で留め具がもうひとつ外れた。
「便利」
「便利というか、だいたい趣味が悪いです」
格子を押し上げ、先に袋を滑らせる。自分も体を横にして入る。中は冷えていて、ほこりが少ない。ちゃんと掃除されている空気は、終末ではだいたい敵の領分だ。膝と肘で進むたび、細い風が首筋を撫でる。下を覗く隙間があって、そのたびに白い床と低い机の角が見えた。
少し進んだ先で、搬入口は急に広くなった。格子越しに見えたのは、西一番主照会卓の裏だった。
夜間仮統合庫は裏方の顔をしていたけど、こっちは表の顔だ。表の顔のくせに、人に見せるための顔じゃない。待たせるための顔だった。照会窓が低くずらりと並び、その上に小さな番号灯が浮いている。窓の下には、足をぶらつかせる高さの椅子。壁にはやわらかい色の丸と動物の絵。床の線は矢印じゃなく、足あとになっていて、どれも同じ方向を向いていた。
名前はどこにもない。
かわりに、窓ごとにこう書いてある。
受入確認
再引渡判定
同行端末補助
原簿照会待機
「元気に最悪だね」
「かなり整っています」
「整ってるのが腹立つんだよ」
職員の姿はまだない。朝まえの時間で、機械だけが先に起きている。窓の上の番号灯がときどき入れ替わり、待機番号が静かに増減していた。人がいないのに、待たされる仕組みだけがもう働いている。
わたしは裏側の保守床へ降りた。靴底が白い樹脂を鳴らす。すぐに止まる。ここは音が響く場所じゃない。吸われる。だから余計に、見つかったときは終わりが早そうだった。
いちばん近い補助卓の裏に、小さな保守窓がある。くまが低く言う。
「右から二つ目」
「KM系列は、そこに近いです」
「近いってだけで開く?」
「慰めとしては可能です」
慰めが無だから助かる。
窓の下の蓋を開ける。配線。薄い表示板。感熱紙の短い切れ端。埃はない。指の跡もほとんどない。こういう場所は、忘れられてるんじゃなくて、ちゃんと使われ続けている。
表示板へ、今の待機一覧が流れていた。
待機番号 1183
受入者番号 E4-206-1
再引渡判定 六時十分
同行端末 KM系列
個別応答鍵 未添付
中央育成原簿照会 待機中
「これだ」
喉の奥が少しだけ熱くなる。紙の向こうで、誰かがまだ消されきっていない。
でも、嫌な字はちゃんと続いていた。
未添付状態での判定時
標準再引渡手順へ移行
受入枠空順を優先
「未添付だと、そのまま流すんだ」
「泣いても答えられない状態を、標準扱いしていました」
「言い方がひどい」
「仕様も、だいたいそうです」
表示板の端に、もっと小さな項目があった。
同行端末補助照合
保護者欄未設定時 自動判定制限あり
そこだけ、わたしは二回読んだ。
「くま」
「はい」
「これ、穴?」
「欠陥、とも言います」
「好きな種類の欠陥だな」
自動判定制限。つまり、保護者欄が空の相手は、機械だけで朝の判定へ流しきれない。人の手か、別の照合が要る。たぶん昔は安全のためだったんだろうけど、今のわたしにはただの足止め装置だ。
問題は、その制限を起こすには「個別応答鍵」を付けに行く必要があることだった。補助卓の中央に、丸い会話孔と、薄い入力面がある。下に説明が出ている。
同行端末は受入者の応答を補助してください
会話一致率が低い場合は保護補助照合へ移行します
「一致率、低くしたい」
「私は得意です」
「そこだけ胸張るな」
くまを会話孔の近くへ置く。胸の星を入力面へ押し当てると、補助卓が静かに起きた。
KM系列接続
受入者個別応答を開始します
丸い穴が、やさしい声を出す。
『おかえりなさい』
くまが、ほとんど反射みたいに答えた。
「ただいま」
その声はいつものくまの声なのに、少しだけ古かった。新しい傷がつく前の、整った音だ。続けて、卓が問う。
『おなまえをどうぞ』
袋の布がわずかに動く。くまは答えない。答えられないんだと思った。名前を外で使わない。使わせない。その仕様に、こいつ自身も縫いこまれている。
卓の表示が点滅する。
応答遅延
補助入力を受け付けます
わたしは指先を入力面へ乗せた。
「未設定」
少し迷ってから、もう一度、はっきり押す。
未設定。
卓が一瞬だけ止まる。内部で古い歯車が考え直したみたいな間があった。
『保護者欄未設定を確認しました』
『個別保護補助照合へ移行します』
下の欄の字が変わる。
再引渡判定 保留
補助照合待機 発行
主照会手動確認 必要
「通った」
「かなり、雑に正しいです」
「制度が雑な穴を残してるのが悪い」
感熱紙が小さく吐き出される。細い切れ端だ。そこに新しい待機番号と、補助照合先が印字されていた。
補助照合番号 H-43
照合先 西二学習棟旧標準室
原簿写像参照 手動
「西二」
「学習棟」
くまが低く言う。
「かなり、嫌な記憶があります」
「嫌でも行くしかないね」
そのとき、奥の大きな窓の番号灯が一斉に明るくなった。朝の準備だ。白い床の下で、どこかの送管が動き始める。遠くで扉が開く音がして、人の靴音まで混じった。機械じゃない。軽いけど、機械よりためらいがある。
職員だ。
わたしは紙片をつかみ、補助卓の下へ潜りこむ。くまも一緒に引き寄せる。白い床に、細い影が二本伸びた。ひとの足だ。ひとり。窓の前をゆっくり通る。止まる。表示を読む気配。喉がひゅっと細くなる。
でも、その人は小さく息をついただけだった。
「また保留」
知らない声がぼそっと言う。
「朝から増やさないでほしいんだけど」
増やしたんだよ、と思う。心の中でだけ。
靴音が離れていく。番号灯がまた切り替わる。窓の上で、1183の行が下へ沈み、そのかわりにH-43が別枠で浮いた。
保留になった。完全じゃない。でも、六時十分のベルトコンベアからは外れた。
わたしは息を戻す。戻すだけで腹が減る。生きるのは燃費が悪い。
「くま」
「はい」
「今の声、覚えてたの」
少し間があった。
「覚えていた、というより」
「出てきました」
「出てきて、あまり好きではありません」
わたしは袋の上から胸の星を押す。冷たい。けど、さっきの返事は冷たくなかった。
「わたしも好きじゃない」
「でも、使えるなら使う」
「はい」
「あとで、ちゃんと嫌がろう」
星の下で、ほんの少しだけ布がゆるんだ。了承の形に見えた。
来た道を戻る。保守床。格子。細い風。這って進むあいだに、東の空が少しだけ薄くなっていくのが隙間から見えた。朝はいつも勝手だ。こっちの都合を聞かないで始まる。でも今日は、少しだけ遅らせた気分がある。
外へ出ると、白い棟の角が夜よりさらに白かった。きれいな顔で、人をまだ番号のまま待たせている。わたしは感熱紙を服の内側へ入れ、控え紙と重ねた。二枚とも軽い。軽いのに、腹の減り方が少し変わる。
「西二学習棟旧標準室」
わたしは読み上げる。
「名前からして行きたくない」
「かなり、私向きではあります」
「じゃあ、連れてく」
「ひとりで思い出すの、だいたい体に悪そうだし」
くまはすぐには答えなかった。風だけが、白い壁の角を乾いた音で舐めていく。
それから、小さく言う。
「はい」
「同行します」
同行。制度の言葉なのに、あいつが言うと少しだけ違う意味になる。そういうのは、たぶん悪くない。
下の搬入口では、朝の便がもう動き始めていた。予定どおりの顔をした台車が、静かに列を作っている。だから、その予定の横を歩いて、わたしは西二の方角を見る。
標準室。原簿写像。保護補助照合。
名前を消す前の部屋が、まだどこかに残っている。
なら、先にそっちへ行く。朝のほうじゃなく、待たされていたほうの紙を見に行く。そう決めると、足が少しだけまともな重さを取り戻した。
「くま」
「はい」
「次は、もっと嫌なとこかも」
「順調です」
「そういう順調は、ほんとに嬉しくないな」
言いながら、わたしは白い棟から目を切る。朝に返すための建物は、朝に任せておけばいい。こっちは返される前のほうを拾いに行く。粉っぽい風の中で、そっちのほうが少しだけ、人の仕事に見えた。
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