西一番の低い棚
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
夜まで待つあいだに、空腹は三回くらい性格を変えた。
最初は、ただうるさい。次に、足を少し雑にする。最後は、考えを短くする。西管理線の白い壁に寄りかかっていると、その最後がいちばん困る。短い考えは役に立つこともあるけど、見張りの多い場所ではだいたい早死に寄りだ。
わたしは白い棟から少し離れた、壊れた冷却槽の陰へ潜りこんでいた。上の配管はもう水を流していないのに、金属だけが夜の準備をしているみたいに冷たい。粉っぽい風が西から来て、足もとの埃へ細い筋を作る。
「くま」
「はい」
「裏面保守路、ほんとに静か?」
袋の口を少し開けると、くまの片目だけが暗がりを向いた。
「人の声は少ないです」
少し間を置いて、
「機械の仕事は、あります」
「その言い方、あとで腹立つやつだな」
返事はない。かわりに、胸の星形が袋の布をひとつ押した。残量が少ないときの、機嫌の悪い動きだ。
日が傾くにつれて、西一番の建物は白から灰へ変わった。角の欠けた箱みたいな外壁の下を、低い保守台車が何度か通る。どれも人を乗せる顔じゃない。箱。布の束。細いケース。そういう、泣かないものばかりを運ぶ速さで動いている。
そのうちの一台が、裏側の細い搬入口へ入るときだけ、扉の上に青い線が一本走った。
搬入票。端末。荷量。
見えたのは、その三つだけだった。
「荷量」
わたしは言う。
「あるんだ」
「軽すぎると、いたずら扱いされます」
「親切だねえ」
「かなり嫌です」
待つ。二台。三台。四台。どれも同じ線が走る。搬入票。端末。荷量。青。開く。閉まる。間隔はだいたい七分。夜間保守便は、子どもを待たせないための仕組みだったくせに、今は荷物の時間だけきっちり守っているらしい。
七分なら、試す価値がある。
暗くなりきる少し前に、わたしは冷却槽の陰を出た。昼のあいだに拾っておいたものを抱える。壊れた案内板の足。外れた引き出しの底板。乾いた布束。見た目はごみだけど、機械にとってはたぶん「何か入っている荷」だ。
「それで行くの」
「見た目の説得力って大事でしょ」
「内容の説得力が無です」
「無のほうが軽いから助かる」
裏面保守路の搬入口は、地面の低いところへ口を開けていた。人が出入りする高さじゃない。荷物と、荷物に付き添う小さい誰かのための高さだ。横の受皿へ、保守移行票を差しこむ。青い線が走る。次に、くまの胸を星形の窪みへ押し当てる。薄い共鳴。ここまではいい。
その下に、新しい文字が出た。
搬入荷量 不足
「やっぱり」
扉は開かない。青い線も途中で止まる。わたしは抱えてきた底板と案内板の足を、入口脇の空き台車へ放りこむ。乾いた布束で上を隠す。ついでに、昼に食べたゼリーの空容器へ砂を詰めて端へ押しこむ。かなり雑だ。でも雑は、ときどき重さになる。
もう一度、くまの星形を当てた。
搬入荷量 確認
夜間保守便 受入
「通った」
「制度は、だいたい見た目に弱いです」
扉が横へ滑る。わたしは台車の端を押さえ、そのまま低い通路へ入った。
中は、静かというより音が丸かった。壁の両側に厚い布幕が垂れ、床の線だけが薄く光っている。台車の車輪が鳴らない。自分の靴音まで、よそゆきみたいに小さくなる。
それでも、嫌な感じはよく見えた。
幕の隙間ごとに、低い棚が並んでいる。棚には薄箱。箱には番号。部屋番号。系列。年齢帯。どれも名前じゃない。人を片づけるのが上手いやり方で、きれいに並んでいた。
東二棟一二一。
北一棟〇三三。
西三棟〇一四。
たまに、箱の端に丸いシールが貼ってある。くま。うさぎ。魚。りんご。子どもが自分で選んだみたいな目印が、管理の字の隣にだけ残っている。
「ここ、嫌い」
「わかります」
「わかるんだ」
「私は、ここへ来る前で止まっていた気がします」
その言い方が変に静かで、わたしはそれ以上聞かなかった。
通路のいちばん奥で、台車が止まる。正面の壁に、低い照会卓が埋まっていた。主照会卓みたいな偉そうな顔ではない。裏方の顔だ。照会窓の上に、小さく出ている。
夜間仮統合庫
返却未了優先
継続保守仮置
「仮が多いなあ」
「朝になる前提です」
その一言で、腹の奥が少し冷えた。
照会卓の脇に、保守便の搬入控えを入れる細い口がある。わたしはさっきの保守移行票を半分だけ折り、口へ差しこんだ。昼の風で汚れた角が、かえって本物っぽい。
窓がつき、一覧が出る。
東四棟二〇六
継続保守 仮統合済
受入者補助一式 保管
個別記録 上位卓待機
「待機、してる」
「はい」
くまが言う。
「まだ、消えていません」
「どこ」
窓の下を追う。個別記録。上位卓待機。行き先。小さな字がさらに続く。
明朝一番便 主照会卓
六時十分 再引渡判定
「まだあるじゃん」
「かなりあります」
安心したくない予感ほど、ちゃんと当たる。
でも、その下に、わたしたちが来た意味もあった。
仮統合番号
E4-206-1
同行端末 KM系列
受入者個別応答 保管棚D-七
「Dの七」
「右から二列目、低い段です」
「見えるの早いね」
「古い仕事ですから」
照会卓の右へ回る。棚はほんとうに低くて、膝をついて覗きこむ高さだった。D列の七番。薄い引き出し。引手の端に、擦れて薄くなったくまのシール。
喉の奥が、少しだけ狭くなる。
引く。するり、と軽い。重いものじゃない。
中に入っていたのは、透明な封袋が三つと、細い記録片が束でひとつ。封袋のひとつには、靴下が片方。もうひとつには、色の薄くなった歯みがき表。最後の袋には、小さな紙片が入っていた。くまの絵。丸い耳。胸に星。下手な線で、でも迷いなく描かれている。
子どもの絵だ。
紙の端に、小さく印字がある。
受入者固有名は居室外で使用しないでください
「うわ」
口から出たのは、それだけだった。
名前を外へ持ち出さない。部屋の中だけ。外では番号。棚では番号。紙でも番号。じゃあ名前はどこへ行くんだろう、と一瞬思って、すぐに思い直す。こういう町では、どこへ行くかより、どこから消すかのほうが先に決まる。
「くま」
わたしは小さく呼ぶ。
「これ、普通だったの」
袋の中で、布が擦れる。
「普通に、しようとしていました」
少し掠れた声で、
「泣く時間を、減らすために」
「呼びまちがいを、減らすために」
「名前を消して?」
返事は、すぐには来なかった。
そのかわり、記録片のいちばん上が目に入った。薄い印字。ところどころ欠けている。
受入者番号 E4-206-1
年齢帯 初等前期
保護者欄 未設定
再引渡候補 受入枠空順
上送先 西一番主照会卓
中央育成原簿照会 保留
受入枠空順。
人を入れる場所の空き順みたいに書いてある。部屋でも家でもなく、枠。そんな言葉で、子どもを待たせて、運んで、返していたのかと思うと、腹の減り方まで少し変わる。
「子どもが少ないんじゃなくて」
わたしは紙を見たまま言う。
「少ない形に並べてたんだ」
「たぶん」
くまが言う。
「少ないほうが、待ち時間を管理しやすいです」
その言い方が、ひどく機械で、だから余計にいやだった。
棚の上の灯りが、ふっと黄に変わる。
保管扉開放時間 超過
棚卸補助を開始します
「早い」
通路の向こうで、小さな車輪の音がした。保守台車より軽い。棚卸用のやつだ。見つかれば、わたしたちは「中身の合わない荷」になる。
わたしは記録片の束をめくる。持ち出すのは危ない。でも手ぶらでは帰れない。二枚目。三枚目。そこで、薄い複写紙が挟まっているのが見えた。上送票の控え。指でなぞるだけで字が浮くくらい薄い。
行き先欄には、主照会卓。
その下に、もっと小さく、補助経路が載っていた。
上階搬送停止時
空調整備孔Bより手動搬入
「B」
「左の壁です」
くまが即座に言う。
「青い丸の下」
「見えるのね」
「かなり、嫌なくらい」
台車の音が近づく。わたしは上送票の控えだけを抜きとり、かわりに空の複写紙をいちばん下から差しこむ。厚みが同じなら、夜の棚卸くらいは騙せるかもしれない。雑だけど、今日はそれでいい。
封袋の中のくまの絵が、少しだけこっちを見た気がした。持っていきたかった。でも、一枚なくなるだけで、ここはたぶん正確に怒る。
引き出しを戻す。黄の灯りがまだ残っている。通路の向こうから、棚卸台車の白い灯りが曲がってくる。
「走る?」
「音が多いです」
「じゃあ、静かに死ぬ?」
「反対です」
左の壁を見る。青い丸。低い位置に、空調整備孔B。格子は閉まっているけど、留め具が古い。わたしは金属片を差しこみ、てこの原理でひねる。ひとつ。ふたつ。最後が固い。台車の灯りがもう布幕へ影を作る。
そのとき、袋の中で、くまが小さく言った。
「おかえりなさい」
反射で、わたしは返した。
「ただいま」
通路の壁孔が、ぴ、と一度だけ反応する。昔の会話孔がまだここまで繋がっていたらしい。棚卸台車が、そっちへ向きを変えた。あっちにも誰かいると思った顔で、白い灯りが逸れる。
「便利だね、それ」
「古い仕事ですから」
留め具が外れる。格子をずらし、わたしは体を横にして整備孔へ滑りこんだ。膝と肘が痛い。くまの袋を先に押しこみ、自分も続く。後ろで台車の灯りが通路を流れ、引き出しの番号を読んでいく声がした。
欠品なし。
仮統合維持。
明朝便、予定どおり。
予定どおりが嫌いだ。予定どおりで、人が物みたいに運ばれる場所は、もっと嫌いだ。
整備孔の先は、ほこりと冷気でいっぱいだった。少し進むと、外へ抜ける格子から夜の風が入る。西の風は乾いていて、粉が多い。顔を出すと、さっき見上げていた白い棟の、ひとつ上の階の影だった。
下では、夜間便の台車がまだ静かに出入りしている。
わたしは格子に背を預け、くしゃみをこらえながら、控え紙を開いた。主照会卓。六時十分。再引渡判定。補助経路、空調整備孔B。
その下に、さらに小さな印字がひとつだけ残っていた。
中央育成原簿照会 待機番号発行済
「待ってるんだ」
「はい」
「向こうが?」
「たぶん」
くまが言う。
「ずっと前から」
袋の上から、胸の星形を指で押す。冷たい。なのに、さっき通路で言った『おかえりなさい』だけは、少しだけ人の体温みたいに残っていた。
「じゃあ、待たせない」
わたしは控え紙を畳んで服の内側へ入れる。夜はまだ長い。でも、やることは短くなった。
明朝六時十分より先に、西一番の主照会卓へ行く。上からじゃなく、Bの孔から。そこで東四棟二〇六の個別記録を先に掴む。できれば、再引渡しって言葉ごとひっくり返す。
白い建物を見上げる。きれいな顔で、人を番号にする棟だ。
「くま」
「はい」
「次は、いちばん嫌なところに行くよ」
少し間があいて、くまが答えた。
「かなり、正しいです」
それで十分だった。夜の粉っぽい風の中を、わたしは上階の影に沿って歩き出す。低い町はまだ寝ていない。だったら、こっちも寝かせないまま、先に紙を奪う。
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