零番は返すためにある
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六の次に零がある町は、朝から感じが悪い。
東管理線の案内板は、七へ伸びる矢印の横で、わざと小さく下を向いていた。白い塗料が剥げた先に、細い階段が沈んでいる。地面の下へ、子ども一人ぶんの幅だけ残したみたいな階段だった。
「親切の向きが、よくないね」
「回収向きです」
袋の中で、くまが言う。
言い方が、朝より少し乾いていた。六番書庫を出てから、あいつは前より静かだ。壊れた機械が黙るときは、だいたい考えているか、考えたくないかのどっちかだ。
階段を降りる。空気が変わる。紙の匂いじゃない。鉄と、古い埃と、長く閉めたままの箱の匂い。壁の低いところに、丸い窓がいくつも並んでいた。のぞくと、奥に小さな保守台車が眠っている。起きていないだけで、死んではいない顔だった。
いちばん下で、灰色の扉が待っていた。
第七居住圏
零番保守庫
返却・退避・保守切替
「やだなあ」
「かなり、私に関係があります」
扉の横には、差込口が三つ。紙。端末。音声片。露骨すぎる。ここへ来る相手が何を持ってくるか、最初から決めている場所だ。
わたしは六番書庫から写してきた薄紙を出す。東四棟二〇六。KM系列。原音声鍵を零番保守庫へ退避。自分の字は汚いけど、こういうときの汚さは本物っぽく見えるから助かる。
紙の差込口へ通す。次に、くまの胸の星形を端末の窓へ押し当てる。
扉は黙ったままだった。
『照合不能』
『原票を提出してください』
「正直だねえ」
「六番のほうが、性格が終わっていました」
横の壁へ目をやる。低い棚に、丸いカードが束で刺さっている。保守用の案内札らしい。字は大きく、角は全部丸い。
かえす
なおす
しずかにする
「しずかにする?」
いちばん右の札を抜く。裏に、さらに小さく書いてある。
情動安定保守
発話・移動機構 一時停止
「くま」
「はい」
「子どもを泣かせない設定だ」
「つまり、だいたいの設備を止められます」
それは助かる。助かるけど、性格がいやだ。
しずかにする札を、紙の差込口へ半分だけ差す。だめもとで、くまの星形をもう一度押し当てる。
今度は、扉の奥で小さく噛む音がした。
『情動安定保守を優先します』
『保守時間は、あわてないでください』
「あわてるよ」
灰色の扉が、ゆっくり横へ滑る。遅い。子どもを驚かせない速度で開く扉は、追いかけられる側にはかなりありがたい。
中は広くなかった。低い棚。低い作業台。低い照会卓。ぜんぶ低い。人がいなくなっても、背丈の基準だけは変わらないらしい。棚には透明な薄箱が並び、その中に、小さな機械片や布の切れ端や、音声片らしい薄い板が収まっている。ひとつひとつへ、部屋番号と系列名がついていた。
東二棟一〇三。
西一棟〇一八。
北三棟一五二。
どれも、ひとりぶんの朝夕を、物みたいに並べた顔をしている。
喉の奥が少し狭くなる。
「多いね」
「子どもが少ない町ほど」
くまが言う。
「返す仕組みだけ、きれいに残ります」
中央の作業台に近づく。上面へ、低い文字が光っていた。
退避物照会
居室番号入力
系列確認
返却先判定
「判定って言い方がもう嫌」
東四棟二〇六を入れる。系列はKM。次の窓で、退避物一覧が浮いた。
原音声鍵
個別応答片
朝確認補助ログ
返却未了端末補助札
「ある」
「はい」
台の下から、細い引き出しが出てきた。思ったより素直だ。引き出しの中に、透明な封袋が四つ並んでいる。いちばん上には、白い字。
東四棟二〇六
受入者補助一式
再引渡し未了保守封緘
封の向こうに、薄い銀色の板が見えた。名札くらいの大きさ。端に、擦れて消えかけた丸い絵。くまの胸の星形に似ている。でも、もっと子どもっぽい線で描かれていた。
袋を持ち上げた瞬間、天井の隅で灯りが変わる。
白から黄へ。黄から、いやな赤へ。
『退避物の移動を確認しました』
『返却先判定を開始します』
『同行端末を提出してください』
「提出しない」
棚の奥で、何かが起きる音がした。六番書庫の台車より重い。紙じゃなくて、箱を運ぶ音。細い保守腕が三本、棚の影からせり出してくる。先端はやわらかい丸で覆われているけど、やわらかいからって追いかけられて嬉しいわけじゃない。
「しずかにする札、効いてないじゃん」
「泣かせないだけで、回収しないとは言っていません」
作業台の端に、もうひとつ窓があった。返却先判定。その下に、選択肢が三つ並ぶ。
居室復帰
上位照会
継続保守
「継続保守」
指が先に動く。でも、その窓が青くならない。かわりに下の行が出る。
音声鍵照合
個別応答照合
同行端末確認
「ああ、順番が重い」
保守腕が一歩近づく。歩くというより、床を這うみたいに来る。低い作りの場所で低く追われるのは、妙に逃げ場がない。
わたしは封袋を破った。銀の板と、薄い半透明の欠片が一枚、滑り出る。個別応答片。そっちには、子どもの字で丸が描いてあった。下に印字された番号の隣に、小さく、ただいま、とある。
「くま」
「はい」
「これ、返すための声?」
少しの沈黙。次に聞こえた声は、いつものくまより低かった。
「帰ったことに、するための声です」
その言い方がまっすぐすぎて困る。
銀の板を作業台へ置く。窓の下に、ぴたりとはまる溝があった。つまり、ここで使えということだ。個別応答片も隣へ差す。
『音声鍵を確認します』
台の奥で、古い音がした。息を吸う前の機械の音。
『……おかえりなさい』
昨日の東四棟の声より近い。もっと個人的で、もっと小さい。たぶん、本当に一人ぶんのために録られた声だった。
保守腕が、ぴたりと止まる。
『受入者さん、こたえてください』
「無理だよ」
わたしは言う。
「本人いないし」
「本人がいないときのために」
くまが、小さく鳴る。
「私は、いたのかもしれません」
袋から引っぱり出す。胸の星形は、いつもより冷たい。作業台のいちばん右、同行端末確認の窓へ押し当てる。
光らない。
「くま」
「朝の続きなら、たぶん」
掠れた声が言う。
「言えます」
『受入者さん、こたえてください』
作業台の向こうで、銀の板がもう一度鳴る。
『……ただいま』
個別応答片の声だった。子どもの声。小さくて、でもはっきりしていて、変に練習された感じのない声。たぶん、本物だ。
その直後、くまが続けた。
「おかえりなさい」
ゆっくり、丁寧に。
「きょうの待ち時間は、ここで終わりです」
いつものくまじゃなかった。東四棟で朝を言ったときよりも、さらにまっすぐで、迷いの少ない声だった。古い仕事を、口の形だけで思い出したみたいな声。
作業台の三つの窓が、まとめて青へ変わる。
音声鍵照合 完了
個別応答照合 完了
同行端末確認 完了
「通れ」
『返却先判定を更新します』
保守腕が、ゆっくり畳まれていく。赤い灯りが白へ戻る。かなりぎりぎりだったのに、設備の声だけは最後まで親切だった。
次に出た表示で、背中が少し冷えた。
東四棟二〇六
再引渡し処理 停止
継続保守へ移行
受入者個別記録 統合保管済
「止まった」
「はい」
「ほんとに?」
「かなり、ほんとです」
膝から力が抜ける。朝のときと同じで、助かった感じが薄い。設備に勝つときは、だいたい負けそこねた顔のまま終わる。
でも、その下の一行は、ぜんぜん助からない顔をしていた。
統合保管照会先
西管理線一番 統合保管庫
個別記録閲覧には上位照会権限が必要
「西管理線」
この町の反対側だ。しかも一番。零の次に一番が来るのは、仕組みとしてかなり嫌だ。
くまはしばらく黙っていた。それから、小さく言う。
「私は」
少しだけ擦れて、
「送り出す前に、待つ時間を減らす仕事でした」
「帰る子にも、移される子にも」
移される。
その言葉だけ、作業台の白さより冷たかった。
棚のいちばん下に、半分抜けたままの薄箱があるのに気づく。引くと、中には布の名札が何枚も並んでいた。名前じゃない。数字と棟番号だけ。東四棟二〇六の札だけ、欠けている。そこに何かあった場所だけが、きれいに空いていた。
戻される前提。移される前提。待たされる前提。
子どもが少ないんじゃない。少ない形に、きれいに並べ替えられている。そういう顔の棚だった。
作業台の横から、細い紙が吐き出される。保守移行票。東四棟二〇六、再引渡し停止、継続保守。今日はこれだけで十分すぎる。
わたしは紙を折って袋へ入れる。銀の板も、個別応答片も持っていく。返したら、またどこかへきれいに戻されるだけだ。
「行こう」
「西へ?」
「うん」
袋の口をきつく縛る。
「返すための場所じゃなくて、残すための場所を見に行く」
零番保守庫の扉は、入ったときより静かに開いた。情動安定保守がまだ効いているらしい。追いかけてくるものはない。けれど背中のうしろで、低い棚と白い箱が、こっちを見ている気はした。
階段を上がる。地上の光は、地下の空気よりずっと乱暴だった。
六の次は零で、その先に一番が待っている。
この町は、順番まで感じが悪い。けれど、悪い順番には、たまに正しい手がかりが混じる。そういうときだけ、少し生きやすい。
袋の中で、くまが小さく鳴った。
「返されなくて、よかったです」
「知ってる」
わたしは言う。
「でも次は、返されなかった理由まで拾いに行くよ」
風が、東と西の案内板をまとめて揺らした。どっちも同じくらい古いのに、西のほうが少しだけ白かった。
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