六番書庫と、追いかけてくる紙
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
東四棟を出ると、朝はもうすっかり白かった。
夜のあいだは親切の顔をしていた棟も、昼に近づくとただの建物みたいに見える。低い手すり。丸い角。子どもの目線に合わせた案内板。ぜんぶ昨日より見えすぎる。見えすぎるものは、だいたいろくでもない。
袋の中では、くまと、包んだうさぎがたまに軽くぶつかった。朝食用にもらった粥の袋も入っている。重さとしては助かる。でも、気分としてはかなり助からない。
「六番書庫って、遠い?」
「紙の距離としては近いです」
「人の距離で言って」
「かなり、歩きます」
「はいはい」
東管理線は、町の裏側みたいな道だった。表の通りみたいに店の骨や日よけが並んでいない。代わりに、壁の低いところへ細い差込口や、返却口や、保守札の受皿が続いている。ぜんぶ膝から腰くらいの高さだ。ここを歩くと、自分が町の住人じゃなくて、設備の部品になったみたいでいやだった。
途中、ひからびた植え込みの脇で立ち止まって、粥を半分だけ吸う。やさしい味がした。やさしい味は腹にはいいけど、世界に対しては腹が立つ。
「くま」
「はい」
「紙は追いかけてこないって言ってたよね」
「人が動かすときだけです」
「その言い方、まだ気になってるんだけど」
くまは少し黙ってから言った。
「書庫には、紙を動かすための、かなり人に似ていないものがいます」
「最初に言って」
「いま、言いました」
それで終わるのが、くまの悪いところだ。
六番書庫は、東管理線のいちばん奥まった角にあった。高い建物じゃない。むしろ低かった。半分埋まったみたいに地面へ沈み、窓は細く、入口は三つに分かれている。返却。照会。保守。大人用の立派な正面なんてなくて、ぜんぶ子どもの胸くらいの高さに揃っていた。
壁の白はもうくすんでいるのに、字だけはまだ読める。
第七居住圏
東管理線六番書庫
「本当に紙の多い顔だ」
「かなりです」
照会口の横に、小さな受皿があった。再認証の控えを載せるにはちょうどいい幅だ。わたしは昨日の細い紙を広げて置く。次回照会 三十日後。保守記録照会先 第七居住圏 東管理線六番書庫。
受皿の奥で、古い歯車が噛むみたいな音がした。
『照会先指定を確認しました』
『保守記録の閲覧を補助します』
『同行端末を確認してください』
「何でも確認したがるねえ」
くまを袋から少しだけ出し、胸の星形プレートを受皿の光へ向ける。うさぎは出さない。あれは、だいたい出したほうが悪くなる。
光が一度だけ強くなって、低い扉が横へ滑った。
中は、外より乾いていた。
古い紙の匂いがする。湿気じゃない。乾いたほうの匂いだ。棚が並んでいる。でも高くない。わたしの肩より少し上までしかない棚が、細かく区切られ、札と引き出しと薄い箱をぎっしり抱えていた。棚と棚のあいだには、細いレールが走っている。そこを、小さな台車が音もなく行ったり来たりしていた。車輪の上に紙の束を載せて。
「追いかけてるじゃん」
「言い回しの敗北です」
台車のひとつが足もとを通る。紙の束の角は丸く揃っていて、ぜんぶ同じ幅だった。人がいなくなっても、書類だけはちゃんと並ぶ。そういう場所らしい。
部屋の中央には、照会卓があった。子ども向けの勉強机みたいな低さで、上に三つの窓がある。件名。系統。原簿要否。やたら正確な顔つきだ。
「何から見る」
「東四棟二〇六。KM系列。受入者移送」
くまが、いつもより早く言う。
「その順が、たぶん近いです」
「今日は働くね」
「紙の前では、少しだけ」
件名の窓へ、東四棟二〇六と入れる。系統にはKM。原簿要否は、迷って、要にした。どうせ概要だけで済む気がしない。
卓の下で何かが走り、正面の細い口から紙が三枚吐き出された。
一枚目。居室維持記録。
二枚目。同行端末保守要約。
三枚目。原簿照会票。
まず、居室維持記録を見る。東四棟二〇六。受入者一名。生活記録統合済。居室設定維持。未帰宅三十日経過。上位照会保留。
そこまでは昨日の続きだ。その下に、昨日は見ていない行があった。
再引渡条件
音声鍵照合
同行端末KM系列確認
受入者個別応答
「個別応答」
口に出すと、喉の奥が少し狭くなる。
「帰る相手が必要ってこと?」
「そうです」
くまが言う。
「部屋だけでは、足りません」
二枚目へ移る。同行端末保守要約。字が細かい。古い印字で、ところどころ薄い。
KM系列
幼年受入補助・朝夕確認用同行端末
情動安定対話
起床就寝音声補助
単独時間緩和
再引渡し時、音声鍵の橋渡しを担う
わたしはそこで、紙から目を上げた。
「橋渡し」
「はい」
「くま、あんた、ただ喋るぬいぐるみじゃなかったの」
「それは、かなり前から気づいていたと思います」
「そうじゃなくて」
返事のかわりに、くまは少しだけ擦れる音を立てた。考えているときの音だ。でも、今日はそれが少し違った。考えているというより、どこか古い引き出しを無理やり開けているみたいな音だった。
「私は」
くまが言う。
「たぶん、待つ時間を減らす仕事でした」
「ひとりで待つ時間を」
その言い方は、昨日の朝の声よりまっすぐで困った。
わたしは三枚目の原簿照会票を見た。原簿閲覧には、保守確認が必要。同行端末を返却口へ仮預託してください。下に小さく、照会中は回収保留とある。
「やだ」
「同意です」
返却口は、すぐ横の棚の下にあった。くまの胸の星形と同じ形のへこみ。かなり露骨だ。ここへ差したら、原簿は出る。でも、くまが戻ってくる保証はぜんぜんない。
「紙のくせに交換条件が重い」
「書庫は、貸すときだけ親切です」
卓の脇に、予備の照会票が束で置いてある。紙は厚い。上から筆圧をかけると、下まで跡が残るやつだ。わたしは一番上の票をめくり、その下の薄い控え紙を見る。複写式。なるほど。
「くま」
「はい」
「星形のところ、ちょっと貸して」
「嫌な予感しかしません」
「わたしも」
くまの胸のプレートを、複写票の上へぐっと押しつける。角の跡が紙へ沈む。次に、昨日の再認証控えをその上へ重ね、返却口へ差す。控え紙の星形の圧痕と、再認証の文字面をまとめて通す。かなり雑だ。でも、このへんの設備は、字と形が揃うと、たまに本物より先に納得する。
返却口の奥で、軽い音がした。
『仮預託を確認しました』
『原簿を搬送します』
「通った」
「制度は、ときどき紙だけ見ます」
「助かる性格してるねえ」
助からないのは、その次だった。
棚の奥で、いっせいに台車の音が増えた。ひとつじゃない。三つ。四つ。紙束を積んだ小さな搬送台が、レールの上をこちらへ向かってくる。原簿だけじゃない。返却確認。回収確認。照会補助。そんな札が見える。
「多い」
「仮預託したので、回収に来ています」
「紙が」
「はい」
「追いかけてるじゃん!」
一台目が卓の下で止まり、細長い箱を吐き出した。二台目は、返却口の前で待機している。三台目は、わたしの足もとへ来て、白い灯りを靴先へ当てた。
『同行端末の本体確認を行います』
『その場でお待ちください』
「待たない」
卓の上の索引板が目に入る。ずらりと並んだ管理番号。東管理線。育成物流。受入原簿。居室凍結。戻し札。棚卸。どれも面倒そうだ。いちばん面倒そうなものほど、たぶん設備は優先する。
わたしは索引板を一枚引き抜き、適当じゃなく、なるべく悪そうな番号を三つ選ぶ。棚卸全件照会。育成物流統合原簿。返却不整合一覧。予備の照会卓へまとめて突っこむ。
一拍遅れて、部屋じゅうのレールが鳴った。
台車の向きが変わる。わたしたちへ来ていたやつまで、一斉に奥の棚へ走りだす。紙の多い場所は、もっと多い紙に弱いらしい。
「頭いいじゃん」
「雑ですが、方向性は評価します」
残った一台が、ようやく原簿箱を出した。薄い灰色の箱。留め具が二つ。急いで開けると、中にはさらに細い紙束が入っていた。いちばん上に、赤線入りの保守票。
東四棟二〇六
受入者記録補助
最終保守内容
同行端末KM系列 音声鍵劣化
朝夕確認不安定
原音声鍵を零番保守庫へ退避
その下に、もっといやな行が続く。
上位照会準備済
受入者個別記録は統合保管へ移送
再引渡し未遂一回
理由 同行端末未回収
「未遂」
指が少し冷たくなる。
「くま」
紙から目を離さずに訊く。
「未回収って、あんたのこと?」
長い沈黙のあとで、くまは言った。
「たぶん」
「私は、帰るはずの場所へ帰っていません」
それで、東四棟二〇六は止まったままになった。朝だけ来る部屋。帰る相手のいない受入。上位照会保留。くまが外へこぼれたせいで、手続きだけが終わらなかったのかもしれない。
気分は悪い。けど、道は少しだけ見えた。
零番保守庫。
六番より前の番号なんて、最初から嫌な感じしかしない。けれど、音声鍵がそこにあるなら、再引渡しの仕組みも、くまの欠けた朝も、たぶんそこへつながっている。
奥の棚で、また台車の音が増えた。索引板のいたずらが終わったらしい。今度は、本当にこちらへ戻ってくる。
『照会物の返却確認を行います』
『同行端末を』
「返さない」
原簿の必要なところだけちぎる。いや、ちぎらない。ちぎると目立つ。束の下にあった廃棄予定の薄紙へ、急いで内容を写す。字は汚い。でも読めればいい。読める汚さは、生き延びるときの正義だ。
控えと写しを袋へ突っこみ、原簿は箱へ戻す。返却口の前へ放りこむ。設備は原本のほうを大事にする。たぶん。
「走るよ」
「零番へ?」
「その前に、昼を越せる場所へ」
「現実的です」
扉へ向かう。低い棚のあいだを抜けるとき、足もとを一台の台車がかすめた。積んでいる紙の角が、ふくらはぎへ軽く当たる。痛くはない。でも、ぞっとした。やっぱり紙は、追いかけてきた。
外へ転がり出ると、昼の光がやけに明るかった。書庫の中の乾いた匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
袋を抱え直す。中では、くまがめずらしく先に喋らなかった。しばらく歩いてから、やっと小さく言う。
「私は」
それから、少しだけ掠れて、
「ちゃんと返されなかったのかもしれません」
「よかったね」
「何がですか」
「返されないで」
わたしは言う。
「いま、わたしの袋にいるし」
くまはすぐには返事をしなかった。古い部品が、ひとつだけ小さく鳴る。
東管理線の先で、番号の消えかけた案内板が風に揺れた。六の次は、七じゃない。たぶん、この町の悪いところでは、零が待っている。
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