六時十分までの部屋
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
眠る気は、ぜんぜんなかった。
床へ座ったまま、壁に背中を預ける。常夜灯は部屋の隅で、小さく息をしている。ベッドの上の寝たふりは、まだ一人ぶんに見えた。見えるだけで十分な夜もある。でも朝は、見た目だけでは済まないことが多い。
「くま」
「はい」
「再認証って、どこですると思う」
少し間があく。布の中で、くまが考えるときの小さな擦れ音がした。
「部屋のどこかです」
「かなり親切に、目立たないところで」
「親切と目立たないは、だいたい悪い組み合わせだね」
返事はない。代わりに、窓の外で風が一度だけ手すりを鳴らした。
机の引き出しをもう一度ぜんぶ抜く。色鉛筆。短くなった消しゴム。魚の絵のシール。丸い角のカードが何枚か。表には、できたこと表。裏には、歯みがき、手洗い、就寝、起床。丸をつける欄が並んでいる。きれいに使われていたのは途中までで、その先だけ急に白い。
白いところは、いつもいやな顔をする。
棚の下へ腕を突っこむ。指先に、紙じゃないものが当たった。薄い板。引っぱり出すと、小さな案内札だった。
おはようのまえに
どうこうたんまつを おほしさまへ
「おほしさま」
壁を見る。色紙の星が、三つ、まだ剥がれずに残っている。いちばん端だけ、角が少し浮いていた。
そこを爪でめくる。
下から出てきたのは、星形のへこみだった。ちょうど、くまの胸のプレートと同じ形。脇に細い字がある。
KM系列 朝夕確認台
「うわ」
「かなり、私です」
「かなりだねえ」
くまを受け取って、壁の星形へそっと押し当てる。かち、と軽い音がした。合っている。合っているけど、それだけだ。何も起きない。
「電気が弱い」
へこみの奥をのぞく。接点がひとつ、黒くくすんでいる。
「くま、これで再認証できそう?」
「接触次第です」
「私の人生も、だいたいそうです」
わたしは名札を持ち上げる。安全ピン。金属。曲げられる。机の上のビスケット筒も見る。底の内側に、まだ薄い銀紙が貼ってある。世界はろくでもないけど、たまに必要なものを、必要な顔のすぐ近くへ置いてくれる。
名札のピンを伸ばし、銀紙を細く裂く。くすんだ接点のところへ噛ませる。かなり雑だ。でも、ここまで来て綺麗な理屈で助かるとは思っていない。
くまをもう一度、壁へはめる。
今度は、胸の奥で小さく光が走った。
「お」
「わ」
くまが、めずらしく本気で驚く。
「心の準備が」
「ないのはいつもでしょ」
常夜灯がふっと明るくなる。壁の低い位置に、細い文字が浮いた。
同行端末 仮接続
再認証待機
「仮」
「設備は、確信がないときだけ正直です」
そのまま五分くらい、何も起きなかった。いや、部屋のほうは少しずつ朝の顔になっていった。窓の外が薄くなり、壁の白さが戻る。ベッドの寝たふりも、夜より雑に見えてくる。朝はほんとうに容赦がない。
やがて、天井の隅で小さな音がした。
『起床準備時刻です』
『同行端末の再認証を行います』
「来た」
『受入者は、あわてないでください』
「あわてるよ」
壁の星形が青く光る。でも次の表示で、喉の奥が少し狭くなった。
音声確認を開始します
「音声?」
「私です」
くまの声が低くなる。
「たぶん、私が朝のことばを言います」
「思い出せる?」
「それが、設備の悪趣味です」
部屋の空気が、少しだけ張る。窓の外で、どこか別の棟の低い灯りが順番に消えていく。町じゅうで、一人ぶんの朝が規則正しく始まっている。
『同行端末さん、おねがいします』
くまは黙る。古い配線が、小さく鳴るだけだ。
『同行端末さん』
「くま」
「わかっています」
その声は、前よりずっと小さい。
「でも、朝は、いちばん先に壊れました」
それは困る。困るけど、困っている時間がもう薄い。
視線が、ベッドの上のうさぎへ行く。焦げた耳。足裏の端子。昨日からずっと、設備の意味だけはやたら持っているやつだ。
「くま」
うさぎを持ち上げる。
「これ、聞かせたら何か起きると思う?」
「最悪か、かなり役立つかです」
「だいたい二択だね」
うさぎをくまのすぐ横へ押し当てる。足裏の端子が、壁の金具へ少し触れるように角度をつくる。うさぎの腹の窓は暗いまま。何も言わない。
『同行端末さん』
三度目の催促が、やさしい声で降ってくる。
そのときだった。
うさぎの奥で、ほんの小さく音がした。
ぴ。
『……おはよう』
子ども向けにやわらかく削られた、古い声だった。
くまが、はっと息をのむみたいに鳴る。次の瞬間、その声が続いた。
「おはようございます」
今度はくまだ。
「きょうも、ちゃんと、めをあけられましたか」
それは、いつものくまの喋り方じゃなかった。もっと遅くて、もっと丁寧で、誰か一人に向けて練習されたみたいな声だった。
壁の星が、強く光る。
再認証中
わたしは息を止める。くまと、うさぎと、寝たふりの塊と、朝の部屋。全部がへんな角度で、なんとか一人ぶんの正しさへ寄っている。
一拍。
二拍。
星の光が白へ変わった。
同行端末 KM系列
再認証完了
上位照会を保留します
「通った」
膝から力が抜ける。朝の親切に勝つときは、だいたい勝った感じがしない。転ばなかっただけで終わる。
『本日の照会を停止します』
『よい朝です』
「ぜんぜんよくない」
「比較的には、かなり」
くまの声は、もういつものくまだった。でも、ほんの少しだけ掠れている。
ベッドへ近づく。寝たふりの塊は、朝日でさらにみっともなくなっていた。うさぎを引きはがし、くまを星形から外す。壁の下から、ぺらりと細い紙が出てきた。再認証の控えらしい。
そこには、いちばん欲しくない字と、いちばん欲しい字が並んでいた。
次回照会 三十日後
保守記録照会先 第七居住圏 東管理線六番書庫
「六番書庫」
くまが、わずかに間を置く。
「聞いたことがあります」
「かなり、紙の多い場所です」
「いいね。紙は追いかけてこない」
「人が動かすときだけです」
その言い方は気になったけど、いまはまだ脇へ置く。
朝の部屋は、夜よりずっと見えすぎた。壁の星の下には、背の高さを測った細い線が残っている。机の側面には、鉛筆で書いた丸がいくつもあって、横に小さな字が添えてある。ひとりでねた。みずこぼさない。くつそろえた。どれも途中から止まっていた。
窓辺の乾いた鉢の土を指でほぐすと、中から丸めた紙が出てきた。湿気を吸って硬くなっていたけど、まだ読める。
受入者移送保留
生活記録は東管理線へ統合
居室設定のみ維持
「居室設定のみ」
口に出すと、朝の空気が少し冷たくなる。
帰る先だけ残して、中身の記録は別へ持っていく。ここで寝たこと、起きたこと、手を洗ったこと、そういう小さい生活だけを、どこか別の書庫へ集める。子どもがいないのに、子ども一人ぶんの毎日だけは、片づけるみたいに保管されている。
「くま」
紙をたたみながら訊く。
「子どもって、いなくなると、部屋だけ残すの」
長い沈黙のあとで、くまは言った。
「いなくなったから、残したのかもしれません」
「戻すために」
その言い方が、妙にまっすぐで困る。
部屋の棚が、低い音を立てて開いた。朝食用らしい。小袋の粥、栄養ゼリー、水。いちいち親切で、いちいち腹が立つ。でも持っていく。腹を立てても腹はふくれない。
袋へ食べ物を詰めながら、最後にもう一度だけ部屋を見まわす。狭い。きれいすぎる。帰る前提だけが、まだ現役の顔をしている。
「行こう」
わたしは言う。
「次は、紙の多い場所」
「六番書庫」
「うん。そこに、ここから消えたぶんがある」
うさぎを布で包む。今日は静かだ。くまはその横で、めずらしく先に喋らなかった。
扉の前で、ふと振り返る。朝の光の中で、ベッドのしわまで見えてしまう。誰もいない部屋は、夜より朝のほうが空っぽだった。
なのに設備だけは、ちゃんと続けようとしていた。
寝かせて、起こして、食べさせて、記録して。
いなくなった相手に向かって、律儀に。
「くま」
「はい」
「さっきの声、よかったよ」
「どれですか」
「ちゃんと、めをあけられましたか、ってやつ」
くまは少し黙ってから、小さく言った。
「それは、たぶん」
「私の仕事でした」
「じゃあ、今日も仕事だね」
「かなり、不本意な継続です」
「わたしもだよ」
扉を開ける。廊下の低い灯りは、もう消えていた。朝の棟は静かで、昨夜よりもずっと普通の建物みたいな顔をしている。その普通さの下に、一人ぶんの規則と、一人ぶんの欠席と、一人ぶんの帰る先だけが埋まっている。
袋が肩に食いこむ。重い。でも昨日までの重さとは少し違った。食べ物のぶんだけじゃない。行き先の重さだ。
東管理線六番書庫。
帰る相手のいなくなった部屋から、次は記録のほうを見に行く。
部屋は止まったままだった。
止まったまま、朝だけはちゃんと来ていた。
それは昨日より、ずっといやだった。
朝が来る理由を、誰かがまだ手放していないということだからだ。
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