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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第3幕

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第91話 与えなかった理由

窓の外が白み始めた頃、ルカリウスは先に目を覚ました。


雨は、夜のうちに上がったらしい。硝子の縁に、細い雫がいくつか残っている。腕の中には、ローゼリアがいた。浅い寝息。胸元に押し当てられた頬。解けた赤い髪が、シャツ越しの肌をくすぐっている。


ダマスクローズの香りが、朝の薄い光の中で、昨夜よりも静かに立ちのぼっていた。


(……軽い)


抱き寄せるたびに思うことを、今朝もまた思う。腕の中の重さが、足りない。それを口にすれば、彼女は決まって“気のせいよ”と笑う。昨夜は“平気よ”だった。


だから今朝は、何も言わずに、ただ腕に力をこめた。


睫毛が震える。翡翠の瞳がゆっくりと開いて、焦点の合わない視線が、ぼんやりとこちらを探した。やがて、それが定まる。


「……おはよう」


まだ眠たそうな目をこすりながら、ローゼリアが笑顔を向ける。


「ああ」


「ルカも言って」


「……おはよう」


「ふふ」


たったそれだけのことで、彼女は花がほどけるように笑った。星でも領地でもと言った自分に、彼女が望んだものが、この一言だった。それがまだ上手く呑み込めない。呑み込めないまま、胸の奥だけが、じんわりと熱い。


その時、扉を叩く音がした。


「副団長。アストラ大公閣下より、お言付けです」


昨夜、回廊ですれ違った若い騎士の声だった。ルカリウスはシャツを羽織り、扉を細く開ける。差し出された紙片には、几帳面な文字が並んでいた。


『本日午後、アストラ家別邸へ。父が、あなたに話すことがあります。 セラフィオン』


簡素な文面だった。それなのに、読み終えた瞬間、指先が冷えるのが分かった。


「……分かった。そう伝えてくれ」


扉を閉める。振り返ると、ローゼリアが寝台の上で身を起こしていた。シーツを胸元まで引き寄せたまま、静かにこちらを見ている。


「フィオ?」


「ああ。……俺の目の話だ」


「そう」


彼女はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、少しだけ笑って言った。


「行ってらっしゃい。ちゃんと、聞いてきて」


「夜には戻る」


「待ってるわ」


その言葉が、昨夜の約束の続きに聞こえて、ルカリウスは黙って頷いた。



◇◇◇



午後の馬車は、静かだった。


向かいの席に、セラフィオンが座っている。ジュニパーベリーの冷えた香りと、ホワイトティー、その奥のシダー。いつもと同じ匂いのはずだった。それなのに、座ってすぐに、自分の襟元に残るダマスクローズの残り香に気づいた。


この男に、分からないはずがない。


だが、セラフィオンは何も言わなかった。窓の外へ視線を向けたまま、涼しい顔で馬車の揺れに身を預けている。昨夜のことに、一言も触れない。触れないことが、互いへの礼儀であるかのように。


「……父は、気難しい人です」


不意に、セラフィオンが口を開いた。


「気を悪くされるかもしれませんが、悪意はありません。興味のあることと、ないことの差が、極端なだけです」


「俺の目は、興味のあることなのか」


「ええ。……少なくとも、二十一年前から」


それきり、会話は途切れた。窓の外を、王都の石畳が流れていく。雨上がりの街は、洗われたように澄んでいた。


別邸は、街の中心から少し外れた丘の上にあった。


門をくぐると、雨に濡れた薬草の匂いが、一気に鼻先へ押し寄せる。畑のように整えられた庭で、淡い緑と紫の花が、水滴をまとって揺れていた。


「母の庭です。医師をしているので」


セラフィオンが言う。それだけの説明なのに、彼がこの家で育った時間が、ふと見えた気がした。


屋敷へ入ると、そのまま地下へ続く階段を下りた。思ったより長い。降りるほどに、薬草の匂いが、古い紙とインクの匂いへ変わっていく。魔石の淡い灯りが、石壁に二人の影を長く伸ばした。


最奥の扉の向こうに、一人の男がいた。


机いっぱいに広げられた羊皮紙。積まれた古書。魔石、見慣れない器具。その中央で、男は書物から顔を上げもせずに言った。


「来たか」


セラフィオンと同じ青い瞳が、ようやくこちらへ向く。三十を少し越えただけに見える顔立ち。セラフィオンの兄と言われても、疑わなかっただろう。


「座れとは言わん。立ったままでいい。顔を上げろ」


「……ルカリウス・レヴァインです」


「知っている」


男──ディランは椅子から立ち上がり、ルカリウスの正面へ歩み寄った。近い。値踏みするような青い瞳が、まっすぐに自分の目を覗き込んでくる。


居心地の悪さを堪えて、ルカリウスは視線を逸らさなかった。


背後の扉の脇で、セラフィオンは壁に背を預け、何も言わずにいた。


「……ほう」


小さな呟きが、落ちた。


「術の残滓が、まだ縁に残っている。よくもここまで見事に砕けたものだ」


「あなたが、俺の目に術を施したと聞いた」


「ああ。私だ」


あまりにもあっさりとした肯定だった。ルカリウスは、一拍、言葉を失う。


「……なぜ」


「お前の父に頼まれた」


胸の奥で、何かが静かに軋んだ。


「父、に」


「二十一年前だ。お前が生まれて、三日目の夜だった」


ディランは机の端に腰を預けた。視線は、どこか遠い場所を見ている。


「雨の中を、カイルが一人で駆け込んできた。産後のお前の母を、家に残してだ。外套は泥だらけで、腕には、産着にくるんだ赤子を抱えていた。──お前だ」


自分のことなのに、他人の話を聞いているようだった。ルカリウスは、黙って続きを待った。


「抱かせてみろと言ったら、あいつは渋った。それでも、赤子を私に預けた。その時、ふいに目を開けたお前の瞳が、私を見た」


ディランの声が、わずかに低くなる。


「金だった。……王の色だ」


地下室の空気が、止まった。


「私は、しばらく声が出なかった。カイルは、そんな私に頭を下げた。……ただの一度も、私に頭を下げたことのない男がだ」


『この子の目を隠してくれ。誰にも見られないように。……王にも』


ディランの口から零れたその言葉が、ルカリウスの耳には、遠い父の声に聞こえた。


幼い頃の記憶が、不意に蘇る。剣を握る小さな手を、父の大きな掌が包んでいた。温かい手だった。そして何度も、同じことを言った。


──絶対に目立つな。全てにおいて手を抜け。


俺が強くなるたびに、父は、喜ぶより先に、怯えた顔をした。


「……あの人は、何も言わなかった」


声が、思っていたよりも掠れた。


「俺が何を持って生まれたのかも。なぜ隠されたのかも。一度も、何も」


「言わなかったのではない。言えなかったのだろう」


ディランは静かに答えた。


「あいつの怯えは、お前に向けられたものではなかった。……お前が、持っていかれる未来に向けられたものだ」


ルカリウスは、何も言えなかった。


「カイルは、お前に何も与えなかったのではない。お前から何も奪わせまいとして、口を閉ざし続けた。不器用な連中だ」


「……連中、というのは」


「お前の両親のことだ」


母。その一語が、胸の中心に落ちる。


「……理由は」


「聞いている。だが、私が話すことではない」


「俺の目のことだ。母のことでもあるのだろう」


「そうだ」


ディランは否定しなかった。


「あの色は目立ちすぎる。放っておけば、いずれ誰かが調べ始める。そうなれば、お前の母が──」


そこで、ディランは言葉を切った。


ルカリウスは、背後のセラフィオンへちらりと視線を向けた。


「……セラフィオンには、話したのだろう」


「あれは、調べ当てた者への答えだ。お前は当事者だ」


ディランは静かに言った。


「当事者に渡す言葉は、いちばん近くで見ていた人間の口から渡すものだ。……それに、カイルとはまだ友人でいたいからな。カイルに聞け。あいつは、お前の母の全てを見ていた男だ」


ルカリウスは拳を握りしめた。


「あの人は、話さない」


「ああ。話さんだろうな」


ディランは、ほんのわずかに口の端を持ち上げた。


「あいつは、剣でしか語れん男だ」


ふ、と息が漏れた。笑うつもりはなかったのに、気づけば、口元が緩んでいた。重く沈んでいた空気が、わずかに軽くなる。


「……なぜ、今になって解けた」


ルカリウスは問いを変えた。


「限界だったからか。二十一年、保っていたはずなのに」


「限界などではない」


ディランは首を横に振った。


「あの術は、お前の色を覆っていただけだ。押さえつけていたわけではない。何が最後の一押しになったのかは、私にも分からん。だが、あの夜、お前の内側で何かが変わった。それだけは確かだ」


脳裏に、あの夜の光景が閃く。崩れた屋台の下の小さな影。振り下ろされる牙。そして、何より──


「あの夜、お前は目の前の命を、誰一人失いたくないと願ったのだろう」


「……ああ」


「二十一年保った私の術を、お前のその一念が砕いたのかもしれんな」


その言葉に、ルカリウスはゆっくりと息を吐いた。誇らしさよりも先に、胸の底がじんと痺れた。奪おうとした力ではない。守ろうとした意志が、封じられた色を解いたのかもしれない。


「金は、王の色だ」


ディランが続けた。


「初代の王も、その色をしていた」


「……王の」


「なりたいかどうかを聞いてはいない。そういう色だと、言っただけだ」


ルカリウスは、否定しなかった。できなかった。


王座。そして──彼女。かつて、どちらも欲しいと願った。手を伸ばしてはいけないと分かっていながら。


沈黙が落ちる。魔石の灯りが、床に落ちた影を揺らしていた。


「用件は、以上だ」


ディランは机へ戻り、書物を開いた。


「セラフィオン。お前が人を連れてくるなど、珍しいこともあるものだ」


「父上」


「次は菓子でも持ってこい」


「……善処します」


そっけないやり取りの底に、父子の距離の温度が見えた。ルカリウスは、深く頭を下げた。


「……ありがとうございました」


「礼を言われることは、していない」


ディランは書物から目を上げなかった。


「カイルを、責めすぎるな」


その言葉だけが、背中に追いかけてきた。



◇◇◇



地上へ出ると、夕暮れの光が、薬草の庭を琥珀色に染めていた。


セラフィオンが、門まで見送ってくれた。その左手の人差し指に、薄い包帯が巻かれていることに、ルカリウスはふと気づく。実験でも失敗したのだろう。深くは考えなかった。


ルカリウスは足を止めると、セラフィオンに身体を向けた。


「……お前は、全部知っているのか」


「あなたの母上が、誰であったかまでは存じ上げています。ですが、言えませんでした」


「なぜ」


「あなたの父上が、あなたに語るべきことだと思ったからです。……私が先に話せば、あなたの父上が二十一年守ってきた沈黙を、私が横から奪うことになる」


奪う。その言葉に、ルカリウスは小さく息を呑んだ。昨日までなら、きっと苛立っていただろう。“言えない”と拒まれたことに、腹を立てていたはずだ。けれど今は、分かる。この男もまた、何かを守るために、黙っていた。


「……あの時、お前に言った」


ルカリウスは、低く言った。


「リアに何かあったら、お前を許さないと」


「覚えています」


「今も変わらない」


「ええ。……それで構いません」


セラフィオンの青い瞳が、ほんの一瞬、何かを堪えるように細められた。それが何なのか、ルカリウスには分からなかった。


「父に会いに行く」


「今からですか」


「いや」


ルカリウスは、首を横に振った。


「今夜は、約束がある。……父は、明日だ」


セラフィオンは、わずかに目を伏せた。


「それが、いいと思います」


声は静かだった。静かすぎて、その底にあるものが、読み取れなかった。


馬車に乗り込み、窓の外を見る。薬草の庭が遠ざかり、やがて王都の石畳が、夕暮れの光を受けて流れ始めた。


硝子に映る自分の瞳は、まだ他人のもののように見えた。金色。王の色。父が、二十一年隠し続けた色。


幼い頃、剣を握る手を包んでくれた父の掌を思い出す。温かくて、大きくて、そして──ほんの少しだけ、震えていた。


あの震えは、本当に怯えだったのだろうか。与えまいとして、何かを必死に握りしめていたのではないか。


ルカリウスは、そっと目を閉じた。


夜には、戻ると言った。おやすみを、言いに行く。

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