第92話 剣でしか語れない男
二度目の“おはよう”は、一度目よりずっと自然に言えた。
眠たげに笑うローゼリアの髪を指で梳いてから、ルカリウスは騎士棟の扉を押した。
「行ってらっしゃい。夜には戻るのよね」
「戻る」
同じ約束を二日続けて口にできることが、不思議なほど胸に沁みた。
◇◇◇
王都の北、川沿いの丘に、王室騎士団の古い訓練所がある。かつて砦だった石造りの建物で、壁には蔦が絡み、練兵場の土は雨の名残を含んで黒く湿っていた。朝霧がまだ地面を這っている。霧の向こうから、木剣の乾いた音が規則正しく響いてくる。
馬を降りると、門を守る若い騎士が、敬礼の手を上げたまま固まった。視線がルカリウスの瞳に吸い寄せられている。
「……副団長」
「通してくれ」
「は、はっ!」
練兵場へ踏み込むと、木剣の音が一つ、また一つと止まっていった。二十人ほどの若い騎士達が、手を止めてこちらを見ている。
「あれが、西門の……」
「本当に金色だ」
「教官の、息子の……」
囁きが霧の中を広がる。その中を、低い声が裂いた。
「誰が手を止めろと言った」
練兵場の奥、葉を落とし始めた楡の木の下に、一人の男が立っていた。腕を組み、木剣を片手に下げたまま、若い騎士達を見渡している。
「肩に力が入っている。腕で振るな、重心を意識して足で踏み込め。続けろ」
騎士達は弾かれたように剣を構え直した。
ルカリウスは、その男を見つめていた。
銀色の髪に紫の瞳。三十を少し越えたところで止まった容姿。物心ついた頃から、少しも変わらない。変わったのは自分の方だった。父を見上げる必要がなくなったのは、いつからだろう。視線の高さが同じになっていたことに、今初めて気づいた。
男がこちらを向く。父の視線が、ルカリウスの目に落ちて、そのまま動かなくなった。
木剣を握る手の甲に、静かに血管が浮いた。
「……解けたか」
淡々とした口調だった。そこに驚きはなく、いつか来る日を二十一年待ち続けていた人間の声だった。
「先代大公から聞いた」
「あの野郎」
父は木剣を持ち替え、一度だけ目を伏せた。
「……ついて来い。ここでは聞かれる」
父は練兵場の端へ歩き出した。楡の木のさらに奥、崩れかけた石壁の陰に、古い石の腰掛けがあった。霧がそこだけ薄れていた。
父は座らなかった。ルカリウスも座らなかった。
「母のことを聞きに来た」
「話すことはない」
返事に、迷いも間もなかった。予想していたのに、胸の奥が冷えた。
「まだ、そう言い続けるつもりか」
「ああ」
「目のことも、あの人のことも、あなたは一度も」
「言えば、お前は探す」
父は木剣の先を、湿った地面に突いた。
「探せば辿り着く。辿り着けば、お前は、あいつが命を懸けて遠ざけようとしたものの真ん中に立つことになる」
「それは、俺が決めることだ」
「そうだ。だから話さない。いずれ時は来る」
言葉が矛盾していた。決めるのはお前だと言いながら、決める材料は渡さない。それが、この人の不器用さなのだと、昨日までは分からなかった。
「……先代大公が言っていた」
ルカリウスは言葉を続けた。
「あなたは俺に、何も与えなかったのではない。奪わせまいとして黙っていたのだと」
「口の軽い男だ」
父の眉がわずかに動いた。
「昔から、人の話を勝手に美談にする」
「違うのか」
「……与えなかったんじゃない。与えられなかった」
父の視線が、霧の向こうへ逸れた。
「俺がお前に渡せるものは、剣しかなかった」
その一言が、思ったより深く刺さった。
「俺は、あなたに認められたくて剣を握った」
父の指が、木剣の柄の上で止まった。
「五歳の時からだ。強くなれば、あなたが笑ってくれると思っていた。だが強くなるたびに、手を抜けと言った。目立つなと言った」
喉が乾く。それでも止められなかった。
「だから手を抜いてきた。十六年、あなたの前で、一度も本気を出さなかった」
沈黙が落ちた。遠くで木剣の音が続いている。霧が、肌にまとわりつくように冷たい。
「……知っていた」
父が、ぽつりと言った。
「何を」
「お前が、手を抜いていたことをだ」
ルカリウスは息を止めた。
「十になる頃には分かっていた。わざと遅く振る。わざと一拍、間を外す。敵に回せば、あれほど厄介な手の抜き方もない」
父の口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「綺麗に手を抜いていた。俺が教えたとおりにな」
「……なぜ、そこまで分かっていて」
「見て見ぬふりをしたのは、俺だ。お前は悪くない」
謝罪も、弁解もなかった。ただ、事実を置くような声だった。
言いたいことは山ほどあった。なぜ、と問いたかった。けれど、目の前の父の指は、木剣の柄を白くなるほど握りしめていて、それ以上は何も言えなかった。
「聞きたいことがあるなら、剣で聞け」
「……何」
「言葉で渡せるものは、持っていない。だから、剣で答える。……それしか、俺にはできん」
“金は、王の色だ”
ディランに言われた言葉が脳裏によぎった。
「王になるために来たんじゃない。ただ、知りたいだけだ」
「お前の意思とは関係ない」
父の声が、わずかに硬くなった。
「その色を陛下が見た以上、お前はもう、選ばれる側に立っている。王とは、いつの時代も、最後は力で証明する立場だ。力を持たない者に、誰が従う」
ルカリウスは何も言えなかった。
父は、石壁に立てかけてあった予備の木剣を取ると、無造作に放ってよこした。
受け取った掌に、乾いた木の感触が馴染む。幼い頃から、毎日握ってきたものだった。
「来い」
「ここでか」
「思いっきり来い」
父が構える。若い騎士達に教える時と同じ、肩の力の抜けた構えだった。
一歩、踏み込む。振り下ろす。木と木が噛み合い、乾いた音が霧に散った。
軽い。自分でも分かった。剣先が触れる寸前に、ほんの一拍だけ遅れる。意識するより先に、身体が勝手にやることだった。剣を握るようになってから、毎日繰り返してきた、綺麗な手の抜き方。
「それだ」
受けた木剣越しに、父が低く言った。
「今、手を抜いたな」
「……抜いたつもりは」
「身体が覚えている。お前が悪いんじゃない。そう仕込んだのは俺だ」
木剣が弾かれ、返す刃が喉元でぴたりと止まった。
「もう一度」
ルカリウスは木剣を握り直した。今度は、手を抜くなと自分に言い聞かせる。踏み込む。霧が裂けた。木剣が父の剣を擦り上げ──父の目が、見開かれた。
木剣が激しく噛み合った。父の肩が揺れ、足が半歩、下がる。練兵場で、誰にも一歩も譲らなかった人が。
その時、門の方から蹄の音が響いた。
二人の木剣が、同時に止まる。王宮の紋章を付けた使者が、馬から飛び降りた。
「ルカリウス・レヴァイン副団長。陛下がお呼びです。至急、王宮へ」
「……今か」
「はい。西門の褒章の件で、と」
褒章。その言葉の先に何が置かれているかを、父だけが知っているようだった。霧の中で、瞳の奥だけが冷えていく。使者は父へ向き直り、封書を差し出した。
「カイル・レヴァイン卿には、こちらを」
父は封書を受け取ると、開かずに懐へ押し込んだ。それから、木剣を下ろす。ルカリウスも、遅れて切っ先を地面へ向けた。
「……続きは、御前だな」
「御前?」
「その色で、陛下の前に立つんだろう。なら、そこで聞け」
半歩下がった足を、父は何事もなかったように戻した。木剣を壁へ戻し、一歩、近づく。拳が飛んでくるのかと思ったが、そうではなかった。
大きな手が、ルカリウスの肩に置かれた。
「……背が、伸びたな」
その手は、微かに震えていた。
剣を握る手を包んでくれた、あの温かい手。幼い頃の記憶と、同じ震え。怯えなのだと思っていた。けれど今、肩に乗せられた掌は、逃げずにそこにあった。離そうとしない手の震えだと、ようやく分かった。
「……ルカリウス」
父が、名前を呼んだ。
「その目は、もう隠さなくていい」
“絶対に目立つな。全てにおいて手を抜け”
そう言い続けた男の口から出た初めての言葉だった。
「その代わり、手の抜き方は忘れておけ」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
「……善処する」
「善処じゃない。約束しろ」
思わず、笑いが漏れた。自分の口癖を、父に返された。
「約束する」
「ああ」
父は手を下ろし、背を向けた。
「行け。陛下を待たせるな」
霧が、少しずつ晴れ始めていた。
◇◇◇
ルカリウスの馬の蹄の音が、丘の下へ遠ざかっていくのを、カイルは動かずに聞いていた。
練兵場では、若い騎士達が木剣を振っている。その音が、いつの間にか遠くなっていた。
右の掌を開く。息子の剣を受けた衝撃が、まだ残っていた。
(背が、伸びたな)
あの子が赤ん坊だった頃、腕の中でこんなに小さかったことを、昨日のことのように思い出す。腕に抱いた時の軽さと、雨の匂いと、ふいに開いた瞳の色。あの金色を見た夜から、二十一年、ずっと待っていた。いつか解ける日が来ることを、恐れ続けた。
だが、解けた瞳は、思っていたよりもずっと、まっすぐだった。
(リシー)
胸の中で、その名を呼ぶ。
(あの子が、お前と同じ表情をするようになったよ)
懐から、先ほどの封書を取り出す。
カイルは封を切った。見慣れた筆跡が、短い文を綴っている。
『来月十七日、古式を執り行う。其方も、その場に立て。 アストレイオン』
しばらく、紙を見つめていた。
やがて、短く息を吐いた。それは笑いにも、溜息にも聞こえた。
「……二十八年経っても、人の都合を聞かん奴だ」
封書を折り畳み、懐へ戻す。
遠くで、また木剣の音が響き始める。カイルはそれを聞きながら、霧の晴れた丘の向こう、王都の方角を、いつまでも見つめていた。




