第90話 託された夜
「お前なら、エリオとルカリウスのどちらに王座を託す?」
小広間の燭台は、もう半分以上が消えていた。窓を叩く雨が、静けさをいっそう深くしている。
セラフィオンはすぐには答えなかった。手の中のグラスで、赤い液面が炎を映して揺れている。
“僕は王になりたくない。だから君の協力が必要なんだ”
エリオの声が、脳裏を掠めた。
“ルミナスが王になるということが、アストラが王になってはならないのと同じくらいの意味を持つ”
その意味は、アストラである自分には痛いほどよく分かる。死んだことになっていた空白の期間が、まさにそれだ。
だが、器用な彼ならそれさえも乗り越え、上手く立ち回り、良き王になるだろう。問題は、時空干渉による寿命。そして、彼自身に子を成す気がないことだ。
では──ルカリウスは。混血という未知数。そして、ローゼリア。
もし混血である理由が、金眼である理由と同じであれば──。彼は国最強の男だ。一番、王座に相応しいのではないか。
答えを出す前に、確かめなければならないことがあった。
「陛下、ひとつお聞きしてもよいでしょうか」
「申してみよ」
「ルカリウス卿の混血について、陛下はどうお考えですか。本来なら、人間と吸血族の間に子は成せないはずです」
アストレイオン王は、グラスの縁を指でなぞった。
「……仮説でしかない。だが、確信に近いと思っている。研究者である其方も、同じ考えなのではないか」
「……初代ヴァルディアには、魔物の血が流れていた」
アストレイオン王は否定しなかった。雨音だけが、答えの代わりに落ちる。
「人間と吸血族の間に子が成せないのなら、そもそも我々の知る吸血族とは、何なのか。ヴァルディアは“受け皿”です。魔の血を拒まず受け入れる器だったのなら、人間であるエリシアが吸血族の子を宿せた理由も、説明がつく」
「……そこまで考えが至ったか」
グラスをなぞる指が、止まった。その声は、ひどく平坦だった。平坦すぎて、かえって何かを押し殺しているのが分かった。
「王太子であった頃──王家の婚姻に、子を成せぬ相手は選べなかった」
セラフィオンは何も言えなかった。目の前の王が今、誰のことを語っているのか、もう疑う余地はない。
「その理が、覆された。ルカリウスが生まれたことで、な」
アストレイオン王の金の瞳が、燭台の炎を映して揺れた。
「エリシアが何者かを知っていたところで、私は選べなかっただろう。それでも、ルカリウスを見て、思った。……私は、何を諦めたのだろうか、と」
雨が、ひとしきり強くなる。
「ルカリウスもまた、混血だ。子を成せる可能性は、皆無ではない。だが吸血族同士に比べると可能性は低いはずだ。そして今のローゼリアは人間に近づき、命の期限を抱えている。二人の間に、王家の血を繋ぐことは望めぬ」
「だから──陛下は、私とローゼリア王女殿下の婚姻を急がれるのですね」
アストレイオン王は答えなかった。
「かつては王女殿下を王座に就けるため、ルカリウス卿を遠ざけた。ですが今は──」
セラフィオンは言葉を切った。
「ルカリウス卿を王座に就けるため、王女殿下を遠ざけようとしている」
「……王には、国の未来を選ぶ責務がある」
その言葉とは裏腹に、王の指はグラスを強く握り締めていた。
「たとえ、二人の未来を奪うことになっても、ですか」
アストレイオン王は、何も答えなかった。長い沈黙の底から、やがて低い声が落ちる。
「……遠ざけるためだけに、アストラを選んだのではない」
金の目がセラフィオンを見た。
「お前は気づいているはずだ。ローゼリアが、なぜお前の血しか受け付けぬのか」
「……アストラが、星から来た血だからです。この世界の理の外にある」
「アストラの掟は、王位に触れぬことだけではない。王族が血印で王族性を手放し、人へ傾いた時、その傾きを支えられるのは星の血だけだ。“支える側”とは、本来そういう意味だったのかもしれぬ」
窓の外で、雨が硝子を滑り落ちていく。
「いずれローゼリアは其方の血なしには、一日も保たぬ身体になるだろう」
「……承知しております」
「血だけでは足りなくなる可能性もある」
セラフィオンは、すぐには答えられなかった。
「其方とローゼリアの魔力が深く共鳴すれば、わずかでも命を繋げるやもしれぬ」
「……それは、まだ仮説に過ぎません」
「仮説であっても、試さずに諦めることはできぬ」
その言葉は、王のものではなかった。娘に残された時間を数える、一人の父の声だった。
「あの夜。私が“ローゼリアを愛しているのか”と問うた夜だ。お前は答えなかった。私は、そうか、とだけ言った」
「……はい」
「あれが、私の答えだった。愛している者にしか、あの子の命は預けられぬ」
アストレイオン王は、低く続けた。
「酷なことを頼んでいる。分かっている。あの子の心がどこへ向いているかも、お前が一番分かっているはずだ。……それでも、頼む」
セラフィオンは目を伏せた。胸ポケットの星蒼石が、静かに温もっている。
「救いたいだけです。それ以上は、望んでおりません」
王は何も言わなかった。それが嘘だと、二人とも分かっていた。
しばらくして、セラフィオンは顔を上げた。
「先ほどのご下問に、お答えします」
「聞こう」
「王に推すのは──ルカリウスです」
迷いはなかった。
「星が示しているからではありません。あの男は、奪うことを恐れている。何かを手に入れるたびに、それが誰かから奪ったものではないかと、自分を疑う。王に必要なのは、強さだけではなく、その痛みです」
「では、エリオは?」
「あの方は、王になることを、時の流れごと拒んでおられます。それを強いれば、あの方の時間を削ることになります」
アストレイオン王は、長く目を閉じた。セラフィオンは、その沈黙を破るように口を開いた。
「陛下。もう一つ、お見せしたいものがあります」
セラフィオンは懐から、折り畳んだ紙片を取り出した。
「北境の魔物の胸にあった刻印と、カシアン・ヴェルモントに渡された鏃の意匠です。エリオ王子殿下が、遺跡の近くで同じ鏃を拾っておられました」
広げた紙には、黒い墨で写し取られた紋様があった。角を戴いた円環のような、古い印。
アストレイオン王の表情が、変わった。
「……この印を、再び見ることになるとはな」
「ご存じなのですか」
「歴代の王だけが閲覧を許された禁書に、載っている。ヴァルディアに流れる魔の血を知り、その血を引く王を、人の世から奪い返そうとした者達の印だ」
「王を……奪い返す?」
「古い記録では、魔物派と呼ばれていた。人の王を魔物の側へ引き戻そうとした一派だ。滅んだと、記されていたが」
「滅んではいなかった」
「あるいは、残骸だけが残っていたか」
王は、紙片から目を離さなかった。
「彼らがヴァルディアの血の混ざりを知っているのなら、目的は一つしかない」
セラフィオンは息を呑んだ。
「西門で、ルカリウスの金の瞳を見た者は、貴族だけではない。二十一年間、紫眼だった男が金眼を現した。その意味を知る者がいれば──」
「警備の強化を──」
「手配しよう。だが、守るだけでは足りぬ。誰が、何のために動いているのかを突き止めねばならぬ」
王が窓の外へ視線を向ける。雨は、まだ止まない。
退出の礼をして、セラフィオンは小広間を後にした。
廊下は、雨の匂いがした。懐の中で、星詠みの盤が静かに脈打っている。取り出して、確かめる。
ローゼリアの波形は、穏やかだった。
今夜、彼女がどこで、誰の腕の中にいるのか。確かめなくても、分かる気がした。
それでも──穏やかなら、それでいい。
セラフィオンは盤を閉じ、胸ポケットの星蒼石へそっと指を添えた。




