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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第3幕

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89/93

第89話 今夜だけは

「……そろそろ、部屋に戻るわ」


ローゼリアが身体を離そうとすると、腕の力がわずかに強まった。


「帰るな」


「ルカ」


「毎日、隣で眠りたいんだろ」


「……ええ」


「だったら、今夜からだ」


「ルカ、私まだドレスのままよ?」


「どうせ脱ぐだろ」


「……もう」


ローゼリアは観念して、その胸に額を戻した。ルカリウスの腕が、今度は最初より少しだけ強く、背を抱いた。


シャツ越しの体温が、雨気に冷えた頬へじわりと移っていく。アンバーの甘い匂いが近い。呼吸のたびに、胸が静かに上下するのが分かった。


しばらく、何も言わなかった。雨の音だけが続いている。


ローゼリアが顔を上げると、蝋燭の灯りの中で、金色の瞳がまっすぐに彼女を見ていた。


見慣れない金色の瞳。けれど、その眼差しに宿る熱だけは、昔から少しも変わらない。


ローゼリアはルカリウスの頬を両手で包んだ。


「……やっぱり、ルカだわ」


「今さら何を言ってる」


「ふふ」


「何度も見るな。落ち着かない」


「落ち着かなくていいわ」


「リア」


「覚えておきたいの」


そこまで言って、口を閉じた。何を覚えておきたいのか、それ以上は説明できなかった。


ルカリウスは何も聞かなかった。ただ、大きな手が頬に触れて、そのまま顎を傾けた。


唇が重なる。ゆっくりと、確かめるように。深く。零れた息が、どちらのものか分からなくなる。舌先が触れた瞬間、背筋を微かな震えが駆け上がった。何度も重ねてきた唇なのに、今夜の彼は妙に慎重だった。まるで初めて触れるかのようだった。


回帰前の初めての夜、唇だけは触れなかった理由が、今なら分かる気がした。


あの頃の彼は、まだ引き返す道を残そうとしていたのだ。今の彼は、もう引き返そうとしない。その先に何が待っているかを知りながら、自分はまた、同じ別れへと近づいている。それでも今度こそ、彼を選びたかった。


考えを断ち切るように、ローゼリアの息が乱れた。ルカリウスは少し離れて、額を合わせた。


「……お前だけだ」


「何が?」


「俺をこんなにさせるのは」


「どんな……?」


言葉を遮るように、また唇が触れた。今度はもっと深く。ローゼリアの指が彼のシャツを掴む。ルカリウスの手が、髪から首筋へ、背へと滑っていく。触れる場所が変わるたびに、熱が広がっていく。


「ルカ……」


「お前を、どこにも行かせたくない」


耳元に落ちた声は、熱を含んで低く掠れていた。その震えを、ローゼリアは耳の奥へ刻みつける。


腰を引き寄せられ、膝の裏が寝台の縁に触れた。そのまま背が寝具へ沈んでいく。騎士棟の寝台は王女宮のものよりずっと狭く、身体を寄せる以外の選択肢がなかった。背に触れた寝具はひやりと冷たいのに、覆いかぶさる彼の体温だけが、焼けるほど近い。燭台の炎が揺れて、金色の瞳だけが、息のかかる距離にあった。


「……瞳に吸い込まれそうだわ」


ルカリウスは低く笑った。その笑い方が好きだった。声に出さない、こぼれるような笑い方。


彼の指が、ドレスの胸元の紐をゆっくりとほどいていく。紐が一本ほどけるたび、布が肌を滑り、夜気がそっと触れた。その冷たさの直後に、必ず彼の掌が重なる。急がない。一枚ずつ、確かめるように。


「冷えているな」


「回廊が冷えていたの」


「温めてやる」


肩口へ唇が落ちる。冷えた肌が、触れられた場所から順に熱を取り戻していく。ダマスクローズの香りが、体温と一緒に立ちのぼった。


ローゼリアは彼の襟元に指を掛け、そっと引き寄せた。


「……今日は随分、優しいのね」


「激しい方が好きなのか?」


「もうっ」


ローゼリアは照れたように視線を逸らした。


「好きだろ」


「どっちも……好きよ」


「欲張りだな」


「知ってるでしょう?」


「……十一年も一緒にいるからな」


その言葉が妙に嬉しくて、ローゼリアは彼の首に腕を回した。何度も触れ合ってきたはずなのに、今夜は互いの温もりがいつもより鮮明だった。


ルカリウスは呆れたように笑うと、細い首筋に口づけた。


「……少しだけ、いいか」


「少しじゃなくても平気よ」


「痩せた奴が言うな」


牙が首筋に触れる。ローゼリアの息が止まった。腰に回された手が、震えを宥めるように背を撫でる。牙が沈んだ。


「ん……っ」


痛みより先に、甘い熱が広がった。ホワイトムスクとバニラが濃く弾け、その奥でベチバーが静かに沈む。傷口を舌がなぞるたびに、二人の匂いが混ざって、もう分けられなくなっていく。


王族性はもう彼の中に移った。今の自分の血は、人間の血の味なのだろうか。それでも彼は以前と変わらず、喉を鳴らして血を飲んだ。それだけで救われる気がして、理由を考えるのはやめた。


牙を抜くと、彼の唇が鎖骨から胸元へと降りていく。触れるたびに熱くなる。思考が、少しずつ溶けていく。


ほどけたドレスが肩から滑り落ち、床へ重なる音がした。唇はさらに腰へ、その先へと降りていく。熱い息づかいに、ローゼリアの身体がぴくりと反応した。


「あっ……待っ」


「じっとしてろ」


「むり……よ」


逃げようとする腰を、大きな手が押さえた。唇と指先に、弱いところを一つずつ確かめられていく。拒む言葉は、すぐに声にならない息へ溶けた。


「んんっっ……」


ローゼリアの身体が小刻みに震える。


「もう、か?」


「ずるい……わ」


ルカリウスは身体を起こすと、余裕のない手つきで自分のシャツを脱ぎ捨てた。蝋燭の火に浮かび上がった素肌には、古い傷が白く走っている。そのまま覆いかぶさり、ゆっくりと身体を重ねた。


「はぁ……んっ……」


「毎日隣で眠りたいと言ったのはお前だろ。……眠らせる気はないがな」


「いじ……わる……」


涙で滲む視界の中で、金色の瞳だけが揺れなかった。逸らさない。見つめられたまま溶かされていく感覚に、ローゼリアは何度もその名を呼んだ。


寝具に投げ出した左手に、彼の指が絡んだ。薬指の青い薔薇が、蝋燭の火に滲んで見えた。ルカリウスは何も言わず、その上から自分の掌を重ねて、隠すように強く握った。


ローゼリアは空いた腕で、ルカリウスの首に強くしがみついた。


「……ルカ。好きよ」


ルカリウスの動きが、一瞬止まった。それから、また唇が触れた。今度は、もっとゆっくりと。


「知ってる」


「……それ、嫌」


「じゃあ何と言えばいい」


「同じことを……言って」


「……言わなくても分かるだろ」


ルカリウスはさらに腰を深く沈めた。


「んっ……言ってほしいの」


「……好きだ」


耳元に落ちた低い一言は、どんな口づけより深く、身体の奥へ染みた。堪えていたものが、そこで音もなく決壊する。ローゼリアの背が弓なりにしなり、彼の腕が、逃がさないように強く抱き留めた。荒い息だけが、雨音の隙間に落ちる。汗ばんだ額に張りついた髪を、彼の指がそっとはらった。熱が引いていくのが惜しくて、二人はしばらく離れなかった。


「ふふ、知ってるわ」


「お前な……」


たった一言の“好きだ”が、胸の奥に残っていた。嬉しくて、痛かった。



◇◇◇



夜が深くなった頃、ローゼリアはルカリウスの胸に頬を寄せていた。汗の引いた肌から、石鹸と夜気とアンバーの匂いがする。さっきまでの熱の名残が、まだ指先に微かに残っていた。鼓動も、温もりも、慣れ親しんだ香りも。そのすべてを、身体の奥へ覚えさせるように、ローゼリアは静かに息を吸った。ルカリウスが寝具を肩まで引き上げる。冷えていた爪先が、ようやく温まっていった。


「……眠れるか」


「まだ」


「何を考えている」


「なんでもないわ」


嘘だった。あと何度、この鼓動を聞けるのだろうと考えていた。あと何度、この腕の中で眠れるのだろうと。二月までに、あと何度こんな夜を迎えられるのか。数えようとして、やめた。


数えたくなかった。


「ルカ」


「ん」


「おやすみ」


「……ああ。おやすみ、リア」


その声が、夜の中に溶けていく。


ローゼリアは目を閉じた。鼓動を聞きながら。この音が、今夜だけは確かに自分のものだと思いながら。


窓の外では、まだ雨が降っていた。

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