第89話 今夜だけは
「……そろそろ、部屋に戻るわ」
ローゼリアが身体を離そうとすると、腕の力がわずかに強まった。
「帰るな」
「ルカ」
「毎日、隣で眠りたいんだろ」
「……ええ」
「だったら、今夜からだ」
「ルカ、私まだドレスのままよ?」
「どうせ脱ぐだろ」
「……もう」
ローゼリアは観念して、その胸に額を戻した。ルカリウスの腕が、今度は最初より少しだけ強く、背を抱いた。
シャツ越しの体温が、雨気に冷えた頬へじわりと移っていく。アンバーの甘い匂いが近い。呼吸のたびに、胸が静かに上下するのが分かった。
しばらく、何も言わなかった。雨の音だけが続いている。
ローゼリアが顔を上げると、蝋燭の灯りの中で、金色の瞳がまっすぐに彼女を見ていた。
見慣れない金色の瞳。けれど、その眼差しに宿る熱だけは、昔から少しも変わらない。
ローゼリアはルカリウスの頬を両手で包んだ。
「……やっぱり、ルカだわ」
「今さら何を言ってる」
「ふふ」
「何度も見るな。落ち着かない」
「落ち着かなくていいわ」
「リア」
「覚えておきたいの」
そこまで言って、口を閉じた。何を覚えておきたいのか、それ以上は説明できなかった。
ルカリウスは何も聞かなかった。ただ、大きな手が頬に触れて、そのまま顎を傾けた。
唇が重なる。ゆっくりと、確かめるように。深く。零れた息が、どちらのものか分からなくなる。舌先が触れた瞬間、背筋を微かな震えが駆け上がった。何度も重ねてきた唇なのに、今夜の彼は妙に慎重だった。まるで初めて触れるかのようだった。
回帰前の初めての夜、唇だけは触れなかった理由が、今なら分かる気がした。
あの頃の彼は、まだ引き返す道を残そうとしていたのだ。今の彼は、もう引き返そうとしない。その先に何が待っているかを知りながら、自分はまた、同じ別れへと近づいている。それでも今度こそ、彼を選びたかった。
考えを断ち切るように、ローゼリアの息が乱れた。ルカリウスは少し離れて、額を合わせた。
「……お前だけだ」
「何が?」
「俺をこんなにさせるのは」
「どんな……?」
言葉を遮るように、また唇が触れた。今度はもっと深く。ローゼリアの指が彼のシャツを掴む。ルカリウスの手が、髪から首筋へ、背へと滑っていく。触れる場所が変わるたびに、熱が広がっていく。
「ルカ……」
「お前を、どこにも行かせたくない」
耳元に落ちた声は、熱を含んで低く掠れていた。その震えを、ローゼリアは耳の奥へ刻みつける。
腰を引き寄せられ、膝の裏が寝台の縁に触れた。そのまま背が寝具へ沈んでいく。騎士棟の寝台は王女宮のものよりずっと狭く、身体を寄せる以外の選択肢がなかった。背に触れた寝具はひやりと冷たいのに、覆いかぶさる彼の体温だけが、焼けるほど近い。燭台の炎が揺れて、金色の瞳だけが、息のかかる距離にあった。
「……瞳に吸い込まれそうだわ」
ルカリウスは低く笑った。その笑い方が好きだった。声に出さない、こぼれるような笑い方。
彼の指が、ドレスの胸元の紐をゆっくりとほどいていく。紐が一本ほどけるたび、布が肌を滑り、夜気がそっと触れた。その冷たさの直後に、必ず彼の掌が重なる。急がない。一枚ずつ、確かめるように。
「冷えているな」
「回廊が冷えていたの」
「温めてやる」
肩口へ唇が落ちる。冷えた肌が、触れられた場所から順に熱を取り戻していく。ダマスクローズの香りが、体温と一緒に立ちのぼった。
ローゼリアは彼の襟元に指を掛け、そっと引き寄せた。
「……今日は随分、優しいのね」
「激しい方が好きなのか?」
「もうっ」
ローゼリアは照れたように視線を逸らした。
「好きだろ」
「どっちも……好きよ」
「欲張りだな」
「知ってるでしょう?」
「……十一年も一緒にいるからな」
その言葉が妙に嬉しくて、ローゼリアは彼の首に腕を回した。何度も触れ合ってきたはずなのに、今夜は互いの温もりがいつもより鮮明だった。
ルカリウスは呆れたように笑うと、細い首筋に口づけた。
「……少しだけ、いいか」
「少しじゃなくても平気よ」
「痩せた奴が言うな」
牙が首筋に触れる。ローゼリアの息が止まった。腰に回された手が、震えを宥めるように背を撫でる。牙が沈んだ。
「ん……っ」
痛みより先に、甘い熱が広がった。ホワイトムスクとバニラが濃く弾け、その奥でベチバーが静かに沈む。傷口を舌がなぞるたびに、二人の匂いが混ざって、もう分けられなくなっていく。
王族性はもう彼の中に移った。今の自分の血は、人間の血の味なのだろうか。それでも彼は以前と変わらず、喉を鳴らして血を飲んだ。それだけで救われる気がして、理由を考えるのはやめた。
牙を抜くと、彼の唇が鎖骨から胸元へと降りていく。触れるたびに熱くなる。思考が、少しずつ溶けていく。
ほどけたドレスが肩から滑り落ち、床へ重なる音がした。唇はさらに腰へ、その先へと降りていく。熱い息づかいに、ローゼリアの身体がぴくりと反応した。
「あっ……待っ」
「じっとしてろ」
「むり……よ」
逃げようとする腰を、大きな手が押さえた。唇と指先に、弱いところを一つずつ確かめられていく。拒む言葉は、すぐに声にならない息へ溶けた。
「んんっっ……」
ローゼリアの身体が小刻みに震える。
「もう、か?」
「ずるい……わ」
ルカリウスは身体を起こすと、余裕のない手つきで自分のシャツを脱ぎ捨てた。蝋燭の火に浮かび上がった素肌には、古い傷が白く走っている。そのまま覆いかぶさり、ゆっくりと身体を重ねた。
「はぁ……んっ……」
「毎日隣で眠りたいと言ったのはお前だろ。……眠らせる気はないがな」
「いじ……わる……」
涙で滲む視界の中で、金色の瞳だけが揺れなかった。逸らさない。見つめられたまま溶かされていく感覚に、ローゼリアは何度もその名を呼んだ。
寝具に投げ出した左手に、彼の指が絡んだ。薬指の青い薔薇が、蝋燭の火に滲んで見えた。ルカリウスは何も言わず、その上から自分の掌を重ねて、隠すように強く握った。
ローゼリアは空いた腕で、ルカリウスの首に強くしがみついた。
「……ルカ。好きよ」
ルカリウスの動きが、一瞬止まった。それから、また唇が触れた。今度は、もっとゆっくりと。
「知ってる」
「……それ、嫌」
「じゃあ何と言えばいい」
「同じことを……言って」
「……言わなくても分かるだろ」
ルカリウスはさらに腰を深く沈めた。
「んっ……言ってほしいの」
「……好きだ」
耳元に落ちた低い一言は、どんな口づけより深く、身体の奥へ染みた。堪えていたものが、そこで音もなく決壊する。ローゼリアの背が弓なりにしなり、彼の腕が、逃がさないように強く抱き留めた。荒い息だけが、雨音の隙間に落ちる。汗ばんだ額に張りついた髪を、彼の指がそっとはらった。熱が引いていくのが惜しくて、二人はしばらく離れなかった。
「ふふ、知ってるわ」
「お前な……」
たった一言の“好きだ”が、胸の奥に残っていた。嬉しくて、痛かった。
◇◇◇
夜が深くなった頃、ローゼリアはルカリウスの胸に頬を寄せていた。汗の引いた肌から、石鹸と夜気とアンバーの匂いがする。さっきまでの熱の名残が、まだ指先に微かに残っていた。鼓動も、温もりも、慣れ親しんだ香りも。そのすべてを、身体の奥へ覚えさせるように、ローゼリアは静かに息を吸った。ルカリウスが寝具を肩まで引き上げる。冷えていた爪先が、ようやく温まっていった。
「……眠れるか」
「まだ」
「何を考えている」
「なんでもないわ」
嘘だった。あと何度、この鼓動を聞けるのだろうと考えていた。あと何度、この腕の中で眠れるのだろうと。二月までに、あと何度こんな夜を迎えられるのか。数えようとして、やめた。
数えたくなかった。
「ルカ」
「ん」
「おやすみ」
「……ああ。おやすみ、リア」
その声が、夜の中に溶けていく。
ローゼリアは目を閉じた。鼓動を聞きながら。この音が、今夜だけは確かに自分のものだと思いながら。
窓の外では、まだ雨が降っていた。




