第88話 返せないもの
晩餐の途中から降り出した雨は、夜が更けるにつれて強くなっていた。
晩餐を終えたローゼリアは、王女宮へ戻る代わりに、騎士棟へ続く回廊を歩いていた。晩餐用のドレスの裾が、湿った石床をかすめる。雨に濡れた石と土の匂いが、回廊の奥まで染み込んでいる。
婚約の儀のあと、護衛の数は目に見えて減った。大公の婚約者という立場が、王宮にとっては何よりの安全証明になったらしい。皮肉な話だった。セラフィオンの隣に立つはずの自分が、別の男の部屋へ向かっているのに、誰も止めない。
回廊ですれ違った若い騎士が、ローゼリアに気づいて慌てて姿勢を正した。
「王女殿下」
「ルカリウスに用があるの」
「はっ……副団長でしたら、先ほどお部屋に戻られました」
「ありがとう」
騎士は何か言いたげだったが、結局、視線を逸らしただけだった。金色の瞳に変わった副団長のもとへ、婚約者のいる王女が通う。噂になるだろう。分かっていても、足は止まらなかった。
扉を叩くと、すぐに内側から開いた。
ルカリウスは上着を脱いだシャツ一枚の姿で立っていた。髪が少し乱れている。そして、その瞳を見た瞬間、ローゼリアは息を止めた。
昼の光の中で見た金色とは違った。蝋燭の火を映した金は、琥珀のように深くて、どこか遠い。
「……リア」
「入っていい?」
「こんな時間に」
「今さらでしょ?婚約者様のおかげで、警備が緩くなったもの」
軽く言ったつもりだった。それなのに、ルカリウスの眉がわずかに寄る。
「……あいつのおかげか」
「ルカ」
「分かってる。入れ」
扉が閉まる。部屋にはアンバーの甘い匂いが薄く残っていた。机の上には、解かれた騎士団の飾緒。壁には小さな鏡が掛かっていて、その前に椅子が引かれたままになっている。
「見ていたの?」
「……見ていた」
ルカリウスは鏡に背を向けた。
「朝から何度見ても、慣れない。他人の目みたいだ」
ローゼリアはゆっくり近づいた。
「見せて」
「リア」
「ちゃんと見たいの。昼間は、ゆっくり見られなかったから」
ルカリウスはしばらく動かなかった。やがて観念したように、少しだけ屈んで視線の高さを合わせる。
近い。蝋燭の灯りの中で、金色の瞳がまっすぐにローゼリアを映していた。父と同じ。ルシエルと同じ。エリオと同じ。──けれど。
(違う)
同じ金色なのに、誰とも似ていなかった。父の金は冷たく、エリオの金は何かを知っている笑い方をする。ルカリウスの金は、ただ、まっすぐだった。見つめた相手を逃がさないような、不器用なほどのまっすぐさ。
「……綺麗」
「またそれか」
「だって、本当だもの」
「俺には、別人に見える」
「別人なんかじゃないわ」
ローゼリアは手を伸ばし、彼の目元にそっと触れた。睫毛が、指先の下でかすかに震える。
「私を見る時だけ、少し柔らかくなるの。紫の時から、変わってない」
ルカリウスの呼吸が止まった。
「……そんなところまで見てたのか」
「ずっと見てたわ。十一年も一緒に過ごしてきたんだもの」
冗談めかして言うと、ルカリウスは低く笑い、ローゼリアの手首をそっと包んだ。手首のブレスレットで、紫水晶同士が小さく触れ合った。
「これ、ルカの目の色だったのにね」
「……今は違う」
「いいの。思い出の色だから」
「リア」
「金色も好きよ。ちゃんと、ルカの色だもの」
ルカリウスは何も言わなかった。ただ、手首を包む指に、わずかに力がこもった。
しばらくして、彼は低い声で切り出した。
「セラフィオンは、何か言っていたか。俺の目のことで」
「まだ何も聞いていないわ。ただ、フィオはお父様に会ってきたそうよ」
「……そうか」
「きっと近いうちに、ルカにも話してくれると思う」
「ああ。待つ」
短い返事だった。けれど、握られた手首から、彼が自分の内側で何かを押し殺しているのが分かった。
「あと、今日叔母様がルカのお母様の話をされていたわ。友人だったそうよ」
「母の話……?」
「まっすぐな方だったって。一緒にいて楽しかったって。懐かしそうに話していたわ」
「……王族の方と、友人だったのか。母が」
ルカリウスは、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「俺の知っている母は、いつも家にいた。……俺が生まれる前のことは、何も知らないんだな」
ローゼリアは、学院のあとの話で叔母が言葉を飲み込んだことには触れなかった。
「……一つ、聞いていいか」
「なあに」
「お前は、何が欲しい」
唐突な問いだった。
「何が?」
「俺は、受け取ってばかりだ」
ルカリウスは手首を離さないまま、言葉を探すように続けた。
「血も。王族性も。この目が何なのかは分からないが、少なくとも王族性は、お前から渡されたものだ」
「ルカ」
「分かってる。奪ったんじゃないと言ったのも、聞いた」
金色の瞳が、苦しげに細まる。
「だが俺は、何も返せていない。返し方も分からない」
ローゼリアは、胸の奥が痛むのを笑顔の下に隠した。
(返してほしいものなんて、ない)
(……ううん。あるわ。ただ、返せるものじゃないだけ)
欲しいのは、時間だった。残りの時間を、十年に、五十年にしてほしい。そんなことを、この人は叶えようとして、きっと自分を壊してしまう。
(言えない)
「何でもいい」
ルカリウスが言った。
「欲しいものを言え。指輪でも、領地でも、星でも」
「星?」
「取ってこいと言われたら、取りに行く」
真顔だった。ローゼリアは思わず吹き出した。
「ルカ、星は取れないわ」
「やってみないと分からない」
「分かるわよ!」
笑いながら、目の端が熱くなる。この人は、本当にやりかねない。だから怖い。だから愛しい。
「……じゃあ」
「ああ」
「毎日、ルカの隣で眠りたい」
ルカリウスが瞬きをした。星でも領地でもと言った男が、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……それだけか」
「それだけよ」
「そんなもの、頼まれるまでもない」
「頼んでるの」
ローゼリアは彼の胸元へ額を預けた。シャツ越しに、鼓動が聞こえる。
「眠る前も、目が覚めた時も。毎日、ルカの顔を見て、おやすみとおはようを言わせて」
一拍の沈黙のあと、頭の上から低い声が降ってきた。
「約束する」
その声には、少しの迷いもなかった。
「……ええ」
けれど、ローゼリアは知っている。そんな簡単に叶えられる願いではないことを。
自分はセラフィオンの婚約者だ。いずれ大公妃として、彼の隣に立つことを約束している。その身で、別の男の隣で眠り、目覚めたいと願うことが、どれほど身勝手なのかも分かっていた。
それでも、欲しかった。誰にも遠慮せず、ルカリウスの隣で眠る夜が。目を覚ました時、最初にその顔を見る朝が。本当なら、口にすることさえ許されない願いだった。
たとえ全てを捨てて彼を選んだとしても、二月の誕生日には、この身体が命を終える。残されるのは、約束を守ろうとする彼だけだ。
「毎日だ。破ったら、斬られても文句は言わない」
「縁起でもないわ」
「だったら破らない」
その腕が、ローゼリアの背を強く抱き寄せた。
(……ずるいのは、私の方ね)
叶えられない未来を知りながら、それでも彼に約束させてしまった。
(それでも、今は)
今は、この腕の中にいる時間が、確かに自分のものだった。
窓の外では、雨が降り続いている。ふと壁の鏡へ目を向けると、寄り添う二つの影が映っていた。赤い髪と、銀の髪。
鏡の中の、他人のような金色の瞳が、今は確かに自分だけを見ていた。




