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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第3幕

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第87話 偽りの血

昼過ぎから降り始めた雨は、授業が終わる頃には細い霧雨へと変わっていた。石畳が濡れ、灰色の空を映して鈍く光っている。湿った石と土の匂いが、回廊の奥まで染み込んでいた。


アストレイオンは一人、屋根のある回廊を歩いていた。雨の日の学院は、いつもより静かだ。足音だけが、アーチの天井にやわらかく響く。


前方に、見覚えのある三つ編みが見える。リシーだった。透き通るような白い肌に、美しく整った顔立ち。そんな美貌を分厚い眼鏡と野暮ったい三つ編みで隠す少女。そのくせ、内側から滲み出る明るさだけは何も隠せていない。


両腕いっぱいに本を抱えながら歩いている。積み上げすぎて、ほとんど前が見えていない。


「持ちすぎだ。転ぶぞ」


横から声をかけると、リシーが足を止めた。


「殿下」


「前が見えていないだろう」


「見えてます」


「そうか」


そのままアストレイオンは通り過ぎようとする。


「きゃっ」


濡れた石床に靴が滑る。本が宙へ散った。重たい音が、静かな回廊にいくつも転がる。アストレイオンは咄嗟に腕を掴んだ。だが、間に合わない。リシーは膝を石床へ打ちつけた。


「いた……」


「動くな」


アストレイオンはその場へしゃがみ込む。


「本が……」


「後だ」


制服の裾から覗いた膝が擦れていた。大した傷ではない。それなのに。赤い血が、白い肌を伝っていく。アストレイオンは眉を寄せた。


「この程度の傷なら、吸血族ならすぐに塞がるだろう」


「……今日は、少し治りが遅いだけです」


答える声が、わずかに早口だった。血は止まらない。赤い筋が膝から脛へ細く伸び、濡れた石床に小さな染みを作っていく。リシーが慌てて膝を隠そうと手で覆った。


「……そうか。見せてみろ」


「本当に平気です」


「平気かどうかは聞いていない」


リシーの手が止まった。アストレイオンは彼女の足首を軽く支える。白い膝には細い傷が走っていた。


「殿下……?」


「動くな」


アストレイオンは傷の様子を確かめるように目を細めた。このまま血を流し続けるより、塞いだ方が早い。そう判断して膝へ顔を寄せると、リシーの身体が強張った。


「え……?殿下、何を──」


「動くな」


「ちょ、ちょっと待って──」


制止の声より先に、アストレイオンの舌先が傷口をそっとなぞった。


「なっ……!」


リシーが勢いよく身を引こうとする。


「何するんですか!」


「動くな。止血している」


吸血族の唾液には、小さな傷なら塞ぎ、出血を止める作用がある。その言葉通り、流れていた血は次第に止まっていった。


だが、アストレイオンは顔を上げなかった。舌に残った血の味。吸血族のものとは、明らかに違う。これまでにも口にしたことがある。忘れるはずのない味だった。


これは──人間の血。


ゆっくりと顔を上げる。リシーは青ざめていた。唇まで色を失い、先ほどまでの元気な表情は消えている。その顔を見れば、確かめる必要すらなかった。それでもアストレイオンは静かに告げた。


「お前、人間だな」


霧雨の音だけが、二人の間に静かに落ちていた。


「……違います」


「人間の血の味くらい分かる」


「……」


リシーは俯いた。いつものように言い返してこない。


いつもは襟元から細い鎖が覗くだけの首飾りが、転んだ拍子に服の内側から滑り出していた。銀細工の先で、紫色の石が曇天の光を鈍く返す。リシーはそれに気づくと、慌てて握りしめ、服の内側へ押し込んだ。


「王太子殿下を欺いた不敬罪に問われますか?」


アストレイオンは予想外の言葉に、わずかに眉を上げた。


「……なぜそうなる」


「だって、私は種族を偽って──」


「人間が吸血族を名乗ると、不敬罪になるのか?」


「でも、殿下を騙していました」


「俺だけじゃないだろう」


「それは……そうですけど」


リシーはしばらく黙ったあと、覚悟を決めたように両手を差し出した。その指先は、小さく震えていた。


「……どうぞ。捕まえてください。抵抗はしません」


アストレイオンは差し出された両手を見た。


「俺をなんだと思ってるんだ?」


「王太子殿下です」


「それは知ってる」


そう言って、アストレイオンは地面に散らばった本を拾い始めた。濡れた表紙を一冊ずつ、袖で拭いながら。


「これ、図書室のだろ」


「……はい」


「返しておく」


「え……?」


リシーは呆気に取られたように、本を拾う彼の背を見ていた。やがて、恐る恐る口を開く。


「……聞かないんですか」


「何を」


「どうして人間なのに、吸血族のふりをしているのか」


「言えるのか?」


「……言えません」


「なら聞いても同じだ」


「誰にも言わないでください」


「わかった」


「え……いいんですか」


「言ってほしいのか?」


「そんなわけないじゃないですか!」


「ならいい」


アストレイオンは最後の一冊を拾い上げた。


「立てるか?」


「……はい」


「なら行くぞ」


「どこにですか」


「図書室だ。返すんだろ」


リシーはしばらく呆然とアストレイオンを見つめていた。


二人は並んで回廊を歩いた。雨はまだ止んでいない。屋根を叩く細かな雨音が、途切れることなく続いている。


アストレイオンの腕には、先ほどまでリシーが抱えていた本が積まれていた。


「……半分持ちます」


「いい」


「私が借りた本なんですけど」


「また転ぶだろ」


「もう転びません」


「さっきも見えていると言っていたな」


「……根に持ってます?」


「事実を言っただけだ」


リシーは不満そうに口を尖らせた。先ほどまで青ざめていた顔に、少しだけいつもの表情が戻っている。


図書室へ着くと、アストレイオンは抱えていた本を返却台へ置いた。


「これで全部か?」


「……はい。ありがとうございます」


「ああ」


それだけ言って立ち去ろうとしたアストレイオンの背中を、リシーが呼び止めた。


「殿下」


アストレイオンが振り返る。


「本当に……誰にも言わないんですか?」


「言わない」


迷いのない答えだった。リシーは何かを言いかけ、それでも結局、口を閉ざした。


アストレイオンはその様子をしばらく見つめる。


「リシー」


「はい?」


「人間だと知られることより、その理由を知られる方が困るんだな」


リシーの表情が固まった。


「……どうして、そう思うんですか」


「人間だと知られた時より、理由を聞いた時の方が困っていた」


「……よく見てますね」


「安心しろ。聞くつもりはない」


リシーは分厚い眼鏡の奥から、しばらく彼を見つめていた。


「……その眼鏡と髪も、同じ理由か?」


「え?」


「顔まで隠す必要があるのかと思っただけだ」


リシーは反射的に三つ編みに触れた。


「何のことですか」


「別に」


「……殿下って、案外意地悪なんですね」


「そうかもな」


アストレイオンの口元が、わずかに緩んだ。


「……変な人」


「よく言われる」


「絶対、言われてないですよ」


雨音の向こうで、リシーが小さく笑った。その声が、濡れた回廊にやわらかく溶けていった。



◇◇◇



雨音が、記憶の底から現在へ引き戻した。


窓の外では、あの日と同じように細い雨が降っている。アストレイオンは手の中のグラスへ視線を落としたまま、ぽつりと言った。


「リシーとの約束だったんだ」


その一言で、セラフィオンは理解した。


「陛下は、エリシアが人間だとご存知だったのですね」


「ああ」


「では、エリシアがヴァルディアだということも?」


「いや。当時は知らなかった」


セラフィオンがわずかに眉を寄せる。


「では、いつ?」


アストレイオンはしばらく答えなかった。


「……ずっと後だ」


「何かきっかけが?」


「いくつかあった」


そこで言葉を切る。


「だが、本人から聞いたわけではない」


「推測していたということですか」


「ああ」


あの時は、ただの古い装飾品だと思っていた。だが、後になって知ったいくつかの事実が、少しずつ一つの答えへと繋がっていった。


人間でありながら、吸血族として生きていたこと。決して素性を明かそうとしなかったこと。そして、あの日ひどく慌てて隠した、紫色の石。


「気づいた時には、聞けなかった」


「なぜです?」


「聞かないと約束したからだ」


あの雨の日に交わした約束だけが、自分にできる唯一のことだった。


「父にも話さなかったのですか」


「話していない」


「親しい友人だったのでしょう」


「だからこそだ」


セラフィオンは一瞬、言葉に詰まった。


「私が預かったのは、リシーの秘密だ。私の秘密ではない」


「……父と陛下が親しかった理由が、少しわかった気がします」


アストレイオンは何も答えなかった。窓を叩く雨音が、先ほどよりも強くなっていた。


「二十八年、守ってきた約束だ」


独り言のような声だった。


「だが、もう守るだけでは足りない時が来たらしい」


アストレイオンは手にしていたグラスをテーブルへ置き、椅子の背へゆっくりと身体を預けた。


「……そろそろ、次の王を決める時が来たようだな」


セラフィオンが顔を上げる。


「陛下……?」


アストレイオンはしばらく窓の外を見つめていたが、やがてセラフィオンへ視線を戻した。金の瞳が、試すように、そしてどこか答えを求めるように、青い瞳を見据えている。


「セラフィオン」


「はい」


「お前なら、エリオとルカリウスのどちらに王座を託す?」


セラフィオンは息を呑んだ。

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