第87話 偽りの血
昼過ぎから降り始めた雨は、授業が終わる頃には細い霧雨へと変わっていた。石畳が濡れ、灰色の空を映して鈍く光っている。湿った石と土の匂いが、回廊の奥まで染み込んでいた。
アストレイオンは一人、屋根のある回廊を歩いていた。雨の日の学院は、いつもより静かだ。足音だけが、アーチの天井にやわらかく響く。
前方に、見覚えのある三つ編みが見える。リシーだった。透き通るような白い肌に、美しく整った顔立ち。そんな美貌を分厚い眼鏡と野暮ったい三つ編みで隠す少女。そのくせ、内側から滲み出る明るさだけは何も隠せていない。
両腕いっぱいに本を抱えながら歩いている。積み上げすぎて、ほとんど前が見えていない。
「持ちすぎだ。転ぶぞ」
横から声をかけると、リシーが足を止めた。
「殿下」
「前が見えていないだろう」
「見えてます」
「そうか」
そのままアストレイオンは通り過ぎようとする。
「きゃっ」
濡れた石床に靴が滑る。本が宙へ散った。重たい音が、静かな回廊にいくつも転がる。アストレイオンは咄嗟に腕を掴んだ。だが、間に合わない。リシーは膝を石床へ打ちつけた。
「いた……」
「動くな」
アストレイオンはその場へしゃがみ込む。
「本が……」
「後だ」
制服の裾から覗いた膝が擦れていた。大した傷ではない。それなのに。赤い血が、白い肌を伝っていく。アストレイオンは眉を寄せた。
「この程度の傷なら、吸血族ならすぐに塞がるだろう」
「……今日は、少し治りが遅いだけです」
答える声が、わずかに早口だった。血は止まらない。赤い筋が膝から脛へ細く伸び、濡れた石床に小さな染みを作っていく。リシーが慌てて膝を隠そうと手で覆った。
「……そうか。見せてみろ」
「本当に平気です」
「平気かどうかは聞いていない」
リシーの手が止まった。アストレイオンは彼女の足首を軽く支える。白い膝には細い傷が走っていた。
「殿下……?」
「動くな」
アストレイオンは傷の様子を確かめるように目を細めた。このまま血を流し続けるより、塞いだ方が早い。そう判断して膝へ顔を寄せると、リシーの身体が強張った。
「え……?殿下、何を──」
「動くな」
「ちょ、ちょっと待って──」
制止の声より先に、アストレイオンの舌先が傷口をそっとなぞった。
「なっ……!」
リシーが勢いよく身を引こうとする。
「何するんですか!」
「動くな。止血している」
吸血族の唾液には、小さな傷なら塞ぎ、出血を止める作用がある。その言葉通り、流れていた血は次第に止まっていった。
だが、アストレイオンは顔を上げなかった。舌に残った血の味。吸血族のものとは、明らかに違う。これまでにも口にしたことがある。忘れるはずのない味だった。
これは──人間の血。
ゆっくりと顔を上げる。リシーは青ざめていた。唇まで色を失い、先ほどまでの元気な表情は消えている。その顔を見れば、確かめる必要すらなかった。それでもアストレイオンは静かに告げた。
「お前、人間だな」
霧雨の音だけが、二人の間に静かに落ちていた。
「……違います」
「人間の血の味くらい分かる」
「……」
リシーは俯いた。いつものように言い返してこない。
いつもは襟元から細い鎖が覗くだけの首飾りが、転んだ拍子に服の内側から滑り出していた。銀細工の先で、紫色の石が曇天の光を鈍く返す。リシーはそれに気づくと、慌てて握りしめ、服の内側へ押し込んだ。
「王太子殿下を欺いた不敬罪に問われますか?」
アストレイオンは予想外の言葉に、わずかに眉を上げた。
「……なぜそうなる」
「だって、私は種族を偽って──」
「人間が吸血族を名乗ると、不敬罪になるのか?」
「でも、殿下を騙していました」
「俺だけじゃないだろう」
「それは……そうですけど」
リシーはしばらく黙ったあと、覚悟を決めたように両手を差し出した。その指先は、小さく震えていた。
「……どうぞ。捕まえてください。抵抗はしません」
アストレイオンは差し出された両手を見た。
「俺をなんだと思ってるんだ?」
「王太子殿下です」
「それは知ってる」
そう言って、アストレイオンは地面に散らばった本を拾い始めた。濡れた表紙を一冊ずつ、袖で拭いながら。
「これ、図書室のだろ」
「……はい」
「返しておく」
「え……?」
リシーは呆気に取られたように、本を拾う彼の背を見ていた。やがて、恐る恐る口を開く。
「……聞かないんですか」
「何を」
「どうして人間なのに、吸血族のふりをしているのか」
「言えるのか?」
「……言えません」
「なら聞いても同じだ」
「誰にも言わないでください」
「わかった」
「え……いいんですか」
「言ってほしいのか?」
「そんなわけないじゃないですか!」
「ならいい」
アストレイオンは最後の一冊を拾い上げた。
「立てるか?」
「……はい」
「なら行くぞ」
「どこにですか」
「図書室だ。返すんだろ」
リシーはしばらく呆然とアストレイオンを見つめていた。
二人は並んで回廊を歩いた。雨はまだ止んでいない。屋根を叩く細かな雨音が、途切れることなく続いている。
アストレイオンの腕には、先ほどまでリシーが抱えていた本が積まれていた。
「……半分持ちます」
「いい」
「私が借りた本なんですけど」
「また転ぶだろ」
「もう転びません」
「さっきも見えていると言っていたな」
「……根に持ってます?」
「事実を言っただけだ」
リシーは不満そうに口を尖らせた。先ほどまで青ざめていた顔に、少しだけいつもの表情が戻っている。
図書室へ着くと、アストレイオンは抱えていた本を返却台へ置いた。
「これで全部か?」
「……はい。ありがとうございます」
「ああ」
それだけ言って立ち去ろうとしたアストレイオンの背中を、リシーが呼び止めた。
「殿下」
アストレイオンが振り返る。
「本当に……誰にも言わないんですか?」
「言わない」
迷いのない答えだった。リシーは何かを言いかけ、それでも結局、口を閉ざした。
アストレイオンはその様子をしばらく見つめる。
「リシー」
「はい?」
「人間だと知られることより、その理由を知られる方が困るんだな」
リシーの表情が固まった。
「……どうして、そう思うんですか」
「人間だと知られた時より、理由を聞いた時の方が困っていた」
「……よく見てますね」
「安心しろ。聞くつもりはない」
リシーは分厚い眼鏡の奥から、しばらく彼を見つめていた。
「……その眼鏡と髪も、同じ理由か?」
「え?」
「顔まで隠す必要があるのかと思っただけだ」
リシーは反射的に三つ編みに触れた。
「何のことですか」
「別に」
「……殿下って、案外意地悪なんですね」
「そうかもな」
アストレイオンの口元が、わずかに緩んだ。
「……変な人」
「よく言われる」
「絶対、言われてないですよ」
雨音の向こうで、リシーが小さく笑った。その声が、濡れた回廊にやわらかく溶けていった。
◇◇◇
雨音が、記憶の底から現在へ引き戻した。
窓の外では、あの日と同じように細い雨が降っている。アストレイオンは手の中のグラスへ視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「リシーとの約束だったんだ」
その一言で、セラフィオンは理解した。
「陛下は、エリシアが人間だとご存知だったのですね」
「ああ」
「では、エリシアがヴァルディアだということも?」
「いや。当時は知らなかった」
セラフィオンがわずかに眉を寄せる。
「では、いつ?」
アストレイオンはしばらく答えなかった。
「……ずっと後だ」
「何かきっかけが?」
「いくつかあった」
そこで言葉を切る。
「だが、本人から聞いたわけではない」
「推測していたということですか」
「ああ」
あの時は、ただの古い装飾品だと思っていた。だが、後になって知ったいくつかの事実が、少しずつ一つの答えへと繋がっていった。
人間でありながら、吸血族として生きていたこと。決して素性を明かそうとしなかったこと。そして、あの日ひどく慌てて隠した、紫色の石。
「気づいた時には、聞けなかった」
「なぜです?」
「聞かないと約束したからだ」
あの雨の日に交わした約束だけが、自分にできる唯一のことだった。
「父にも話さなかったのですか」
「話していない」
「親しい友人だったのでしょう」
「だからこそだ」
セラフィオンは一瞬、言葉に詰まった。
「私が預かったのは、リシーの秘密だ。私の秘密ではない」
「……父と陛下が親しかった理由が、少しわかった気がします」
アストレイオンは何も答えなかった。窓を叩く雨音が、先ほどよりも強くなっていた。
「二十八年、守ってきた約束だ」
独り言のような声だった。
「だが、もう守るだけでは足りない時が来たらしい」
アストレイオンは手にしていたグラスをテーブルへ置き、椅子の背へゆっくりと身体を預けた。
「……そろそろ、次の王を決める時が来たようだな」
セラフィオンが顔を上げる。
「陛下……?」
アストレイオンはしばらく窓の外を見つめていたが、やがてセラフィオンへ視線を戻した。金の瞳が、試すように、そしてどこか答えを求めるように、青い瞳を見据えている。
「セラフィオン」
「はい」
「お前なら、エリオとルカリウスのどちらに王座を託す?」
セラフィオンは息を呑んだ。




