第86話 それぞれの記憶
「……だから、エリシアはヴェルモント公爵家にいたのですね」
セラフィオンの言葉に、ディランは静かに頷いた。
「ああ。北境の遺跡を調べる。それが、リシーがヴェルモント家へ行った最初の理由だ」
セラフィオンは目を伏せた。調べた記録の中にあった、ヴェルモント公爵家に仕えていた一人の女。エリシア。
その名だけを追っていた時には、なぜ彼女がそこにいたのかまでは分からなかった。記録の上ではただ一行の名前でしかなかった女が、父の声を通して、遠い日の学院にいた一人の少女の輪郭を持ち始めている。
「では、ロイド・ヴェルモントとは学院時代から面識があった」
「面識どころか、顔を合わせれば喧嘩していたな」
ディランは淡々と言った。ほんの少しだけ、口元が緩んでいる。
「もっとも、あの頃のリシーが見ていたのはロイドではない。北境の遺跡だ」
セラフィオンは黙って父を見る。
「……その後、何があったのですか」
ディランの指が、机の上の古い羊皮紙に触れた。
「そこから先は、私が語るべき話ではない」
「父上は知らないのですか」
「知っていることはある。だが、私が見ていないことまで知ったように話すつもりはない」
「……それで構いません」
「お前が調べたいのがエリシア・ヴァルディアなら、私が知っていることは話せる」
セラフィオンは一拍置いてから、核心へ踏み込んだ。
「リシーがヴァルディアだと知ったのは、いつですか」
「学院にいた頃ではない。あの頃の私は、彼女を平民の吸血族だと思っていた」
「人間であることも?」
「ああ」
ディランは短く答えた。
「少なくとも、私がそれを知ったのはずっと後──カイルから協力を求められた時だ」
セラフィオンは考えるように視線を落とした。
学院では吸血族として過ごし、卒業後はヴェルモント公爵家に仕えた。その後、何らかの理由でカイルと共に王都を離れ、ルカリウスを産んだ。分かっている事実を並べても、その間にはまだいくつもの空白がある。
「エリシアは、なぜ人間であることを隠していたのでしょう」
「人間であること自体に問題があったわけではない」
ディランは机の上の魔石を指先で転がした。
「問題は、その先だ」
「ヴァルディアに辿り着くことですか」
「ああ」
古い魔石が、淡い光を返す。
「ヴァルディアの血は、力を受け入れる器になり得る。王族性も、封印も、それ以外の力もな。そんな血筋が今も残っていると分かれば、利用しようとする者は必ず現れる」
セラフィオンの脳裏に、ローゼリアからルカリウスへ移った王族性が浮かんだ。あれほど強い力を受け入れてなお、ルカリウスの身体には目立った異常が起きなかった。
「だからエリシアは、自分を吸血族と偽って生きていた」
「おそらくな。ヴァルディアとしての役目を、自分で終わらせるつもりだったのだろう」
「息子であるルカリウスにも何も伝えずに」
「だからこそだ」
ディランは迷いなく答えた。
「知らなければ、探しようがない。探さなければ、辿り着くこともない」
「何も教えないことで、守ったのですね」
「そういう守り方しか、あの二人にはできなかった。不器用な連中だ」
ディランの声が、ほんの少しだけ低くなった。
セラフィオンは黙り込んだ。
エリシアは、息子に自分の血筋も、ヴァルディアの名も伝えなかった。ただ一つ、耳飾りだけを残して。それが何を意味するのかさえ、何も告げずに。
ルカリウスを過去から遠ざけるためだったのか。それとも、いつか必要になる時が来ることを知っていたのか。今となっては、確かめる術はない。
「……では、あの金色の瞳は?」
セラフィオンが尋ねると、ディランの目が細められた。
「エリシアの瞳は金色ではなかった」
「やはり、ヴァルディアの血を継いだから金色になったわけではない?」
「少なくとも、それだけでは説明できない」
ディランは椅子の背へ身体を預けた。
「お前も知っているだろう。王族であることと瞳の色は関係ない。そして王族性を持つ家系──“ヴァル”の中でも金の目を持つものは限られている」
セラフィオン自身も“ヴァル”であり、アストラの王族性を受け継いでいる。だが、その瞳は父と同じ青色だ。
ローゼリアも同じだった。生まれながらに強い王族性を持っているが、その瞳は翡翠色をしている。
そしてルカリウスは、ローゼリアから王族性を受け取るより遥か前から、金色の瞳を持っていた。
「では、あの瞳は何を意味するのですか」
ディランはすぐには答えなかった。地下室に、短い沈黙が落ちる。
「──王たる器を持つ者」
それ以上、ディランは語らなかった。セラフィオンも追及しなかった。
ルカリウスの金色の瞳は、ローゼリアから王族性を受け取ったことで現れたものではないということ。
彼は生まれた時から、あの色を持っていた。
王の器を示す色を。
◇◇◇
王宮へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
その夜、王宮では晩餐会が開かれていた。大規模な宴ではない。王族と、その近しい者だけが集う私的な晩餐だった。
それでも、セラフィオンがこの席に招かれる意味は以前とは違う。今夜の彼は、アストラ大公としてではなく、ローゼリアの婚約者として席を用意されていた。
長い食卓の上には、銀の燭台と白い花が並んでいた。蝋燭の炎が、磨かれた銀器にいくつもの小さな光を落としている。
上座にはアストレイオン王。その隣には王妃。
ローゼリアとセラフィオン、そしてエリオ。
さらに今夜は、久しぶりに王宮を訪れていたセレナの姿もあった。
「セラフィオン。ますますディラン様に似てきたわね。今日は実家へ戻っていたのでしょう?」
食事が一段落した頃、セレナが静かに尋ねた。
「はい。父に確認したいことがありまして」
「ディラン様はお元気?」
その名前を口にした時だけ、セレナの表情がほんのわずかに和らいだ。
「相変わらずです。地下室に籠もっていました」
「そう」
セレナは小さく笑った。
「昔から変わらないのね」
「母さん、先代アストラ大公と知り合いだったの?」
エリオが口を挟む。
「知り合いどころか、お兄様とディラン様は幼い頃からどこへ行くのもずっと一緒だったのよ」
「へえ。母さんや伯父さんにもそんな時代があったんだ」
「どういう意味だ」
アストレイオン王が低く返す。
「そのままの意味だけど?」
「お父様、エリオに今さら何を言っても無駄よ」
「ローゼリアまで何だ」
「私は何も言ってないわ」
ローゼリアは楽しそうにグラスへ口をつけた。王妃が口元を隠して小さく笑う。張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
セラフィオンはセレナへ視線を戻した。できるだけ何気ない声で切り出す。
「セレナ妃殿下は、リシーという女性を覚えていらっしゃいますか」
セレナの手が止まった。
「……リシー?」
一瞬だけ驚いた顔をした後、その表情がゆっくりと懐かしさへ変わる。
「誰?」
ローゼリアが不思議そうにセラフィオンの顔を覗き込んだ。
「ルカリウス卿の母親です」
セラフィオンの言葉に、エリオがニヤリと笑った。
「叔母様はルカリウスのお母様とお知り合いだったの?」
ローゼリアが目を丸くして尋ねる。
「ええ。もちろん覚えているわ」
「学院時代、ご友人だったと父から聞きました」
「友人だったわ。私が学院で最初に仲良くなった子」
セレナは懐かしそうに目を細めた。
「明るくて、よく喋って……古代史の話を始めると、本当に止まらなかった」
「父上も似たようなことを言っていました」
「ディラン様とは随分話が合っていたわ。私には何を話しているのか、半分も分からなかったけれど」
そう言って笑うセレナの横顔を、セラフィオンは静かに見つめた。
「ロイド・ヴェルモントとも親しかったのですか」
「親しい……と言っていいのかしら」
セレナは少し考える。
「いつも喧嘩していたわ。試験の順位が出るたびに、どちらが上かで張り合って」
「それは父からも」
「でも、嫌ってはいなかったと思う」
セレナはそこで言葉を止めた。
「リシーは北境の遺跡に行きたがっていたから。卒業したらロイの家で働かせてもらうのだと、ずっと言っていたわ」
「実際に、彼女はヴェルモント公爵家へ行った」
「ええ」
セレナの笑みに、わずかな翳りが差した。
「……あの頃は、それがリシーの夢に近づく道だと思っていたのだけれど」
その先の言葉を、セレナは飲み込んだ。燭台の炎が、小さく揺れた。
「ルカリウスのお母様って、どんな方だったの?」
それまで話を聞いていたローゼリアが尋ねた。セレナは少し驚いたようにローゼリアを見る。
「そうね……とてもまっすぐな子だったわ」
「まっすぐ?」
「好きなことには夢中になるし、思ったことはすぐ口にするし。身分なんてほとんど気にしなかった。王女だった私にも、最初から普通に話しかけてきたもの」
セレナは懐かしそうに笑った。
「少し変わっていたけれど、一緒にいると楽しい子だったわ」
セラフィオンは、懐かしそうに笑うセレナの様子を静かに見ていた。
同じ一人の女性について話しているはずなのに、父とセレナでは記憶しているものが少しずつ違う。
ディランが覚えているのは、古代史を語る少女。
セレナが覚えているのは、学院で最初にできた友人。
そして、カイルが知っているエリシアは、おそらくまた違う。
セラフィオンはふと、食卓の上座へ視線を向けた。
アストレイオン王は何も言わず、グラスに口をつけていた。
◇◇◇
晩餐を終えた後、セラフィオンはアストレイオン王に呼び止められた。
ローゼリア達が退出した後の小広間には、二人だけが残っている。燭台の火が一つ、また一つと小さくなっていた。
「ディランとは話せたのか」
アストレイオン王が尋ねた。
「はい」
「何と?」
「ルカリウスの瞳に施されていた術は、やはり父のものでした」
アストレイオンの表情は変わらない。
「カイル卿に頼まれ、生まれたばかりのルカリウスの金色の瞳を紫色に見せていたそうです」
「……そうか」
短い返事だった。グラスを持つ指だけが、ほんのわずかに白くなる。
「……私には、何も知らされていなかった」
「陛下に判断を委ねないためだった、と父は申しておりました。友人だったからだ、と」
アストレイオンは、自嘲するように小さく息を吐いた。
「あいつらしい。……カイルも、リシーも」
「ルカリウスの瞳は、ローゼリア王女殿下から王族性を受け取ったことで金色になったわけではありません。生まれた時から金色だった、と」
アストレイオン王がセラフィオンを見る。
「……生まれた時から」
「はい」
二人の間に沈黙が落ちた。ルカリウスの金色の瞳。ローゼリアから移った王族性。そして、王家とは異なる場所から続いていたヴァルディアの血。どれも無関係とは思えない。
だが、まだ一つに結びつけるには足りなかった。
「もう一つ、父から学院時代のエリシアについて聞きました」
その瞬間。アストレイオンの指が止まった。ほんの一瞬だった。だがセラフィオンは、その変化を見逃さなかった。
「当時は、リシーと名乗っていたそうですね」
「……そうだ」
セラフィオンは以前、アストレイオン王と交わした会話を思い出していた。
ヴェルモント家の書庫から出てきた肖像画を見せた時、アストレイオンは一目で彼女をエリシアだと見抜いた。
“昔の知り合いだ”
そう言っただけで、それ以上は何も語らなかった。
「以前、エリシアについて昔の知り合いだと仰っていましたね」
「ああ」
「父から聞きました。陛下と父、カイル卿は学院時代を共に過ごしていたと。エリシアとも、その頃から?」
アストレイオンはすぐには答えなかった。
窓の外では、夜の王都に細い雨が降り始めていた。
「……そうだ」
遠い記憶を辿るような声だった。
「リシーと出会ったのは、学院にいた頃だ」
窓を打つ雨音が、少しずつ強くなる。
セラフィオンは、もう一つの言葉を思い出した。
“美しく、強い女だった”
あの時は、それ以上の意味を考えなかった。
だが今なら分かる。父が覚えているリシーと、セレナが覚えているリシー。そして、この男が覚えているリシーもまた──きっと同じではない。
アストレイオン王の脳裏に、二十八年前の光景が蘇っていた。
濡れた石畳。地面に散らばった本。
そして──いつまで経っても塞がらない、少女の膝の傷。




