第9話 時を戻した王子
王城には、まだ昨夜の祝宴の余韻が残っていた。廊下を行き交う侍女たちの声もどこか落ち着かず、遠くで鳴る鐘の音さえ、いつもより薄く聞こえるようだった。
昼を少し過ぎた頃。高窓から差し込む白い陽射しが、ローゼリアの私室を静かに照らしていた。
部屋の壁際には、護衛としていつものように立つルカリウス。銀の髪を日の光に反射させながら、腕を組んだまま外を眺めている。紫の瞳は、時折無意識みたいにローゼリアへ戻っていた。
昨日から、何かを言いたそうな紫の視線だけを感じる。ローゼリアはそれに気づいているのに、何も言えない。言葉にした瞬間、“何か”が決定的に変わってしまいそうだった。
そんな静かな午後だったからこそ、扉を叩く軽やかな音が、妙にはっきり響いた。
コン、コン。扉が、軽く二度叩かれた。返事を待たないで扉が開かれる。
「──お帰り!」
弾む声とともに、キャラメル色の髪がふわりと揺れた。柔らかな猫っ毛が光を受けてきらめいた次の瞬間、エリオは迷いなく駆け寄り、そのままローゼリアに抱きついた。細い腕が肩へ回り、頬が軽く触れる距離まで近づく。
エリオの甘い香りがふわりと落ちる。柑橘の明るさの奥に、花蜜と粉砂糖の気配が一瞬だけ甘く弾ける。
そのとき、エリオの腰元で金属が小さく光った。懐中時計だ。細い鎖が揺れ、冷えた音が甘い香りの中に混ざる。
「会いたかったよぉ──、リア!」
「昨日は話せる雰囲気じゃなかったからさぁ」
甘い声に無邪気な笑顔。ただ純粋な再会の喜びだけを纏った空気。だから余計に、距離が近い。
エリオ・ヴァル・ルミナス。幼い頃から、当たり前みたいに隣にいた従兄弟だ。
ルカリウスの視線が、静かに落ちた。絡めた小指の記憶が、まだ皮膚の奥に残っている。昨夜刻まれた薔薇が、見えない熱を持った気がした。
「……エリオか」
低く呼ぶと、エリオはようやく腕をほどき、くるりと振り向いた。金の瞳が、ちらりとルカリウスを見る。悪戯のようでいて、計算のない視線。
エリオの“軽さ”は、生まれつきじゃない。王位継承権第二位。双子が失われた日から、城の空気はエリオへ傾いた。
「ルカ兄も久しぶり! 相変わらず見下ろしてくるねぇ」
屈託のない笑顔。ルカリウスの視線は、つい先ほど触れていたその腕に一瞬だけ落ちる。
エリオは再びローゼリアへ向き直り、迷いなく距離を詰める。甘い香りがまた一段、近くなる。ベルガモットの花蜜のように軽い“家族の甘さ”。
「ひどいよ、真っ先に僕のところに来ないなんて。最初は僕でしょ?色々話したいことあるんだからさぁ」
甘えるような調子で、エリオはローゼリアの腕に自分の腕を絡めた。それを見て、ルカリウスは眉間に皺を寄せ、腕を組む。
「俺がいると困る話か?」
抑えた声だった。エリオは首を傾げ、悪びれずに言う。
「困るっていうより、照れる? 二人きりのほうが話しやすいこともあるでしょ」
「……少し外す」
低くそれだけ告げて、ルカリウスは踵を返し扉へ向かう。扉が閉まる直前、紫の瞳が一度だけ、エリオの腕に絡むローゼリアの手に鋭い目線を向けていた気がした。
エリオはゆっくりと笑みを消し、まっすぐローゼリアを見つめた。
「──本当に、お帰り」
今度は軽さのない声でそう放つと、懐中時計を掌に握り、指先で金の縁をゆっくりと撫でた。
甘い香りの奥で、時間が──目を覚ました。
◇◇◇
王城の奥にある温室は、限られた者しか入れない。厚いガラス天井から午後の光が落ち、花々の甘い香りがゆるやかに溶けていた。蔦の絡まる白いアーチ。咲き誇る薔薇。外界から切り離された、小さな楽園。
円形のテーブルには銀のティーセットと色とりどりのマカロン。ベルガモットとオレンジブロッサムが、午後の空気へ淡く混ざる。
エリオは迷いなくマカロンをひとつ摘み、ぱくりと頬張った。
「ん〜、これ好き。ラズベリーだ」
無防備な声が、花の間に溶ける。先ほどの“お帰り”の真剣さは影を潜め、いつもの柔らかな笑顔に戻っている。
ローゼリアは紅茶を口に運びながら、静かにエリオを見る。
「甘いものを食べないと、話はできないの?」
「うん。世界の理を語る前に糖分摂取は大事」
さらりとした返し。その瞳は、笑っていない。甘さの奥で、金属の冷えがかすかに鳴る。
「……リア」
エリオの視線が、ふとローゼリアの右手へ落ちた。
「小指、もう結んだんだね」
ローゼリアは反射的に手を引きかける。けれど、エリオはただ柔らかく笑った。
「紫の薔薇かあ。……ルカ兄らしい」
声が、ほんのわずかに落ちる。
「……それと、リア」
「もう、発動してるよね」
温室の空気が、ふっと静まる。遠くで小さな噴水が水を落とす音だけが、規則正しく響く。ローゼリアは表情を崩さない。
「何のこと?」
「とぼけなくていいよ」
エリオはもう一つマカロンを摘みながら、あっさりと言う。
「禁忌。使ったでしょ」
午後の光が、ガラス越しにわずかに揺れた。ローゼリアの指先が、カップの縁で止まる。エリオは懐中時計を指先でくるりと回す。甘い香りの中で、金属だけが冷たく正確だ。
「この子はね、僕が選んだんじゃない」
エリオは蓋を開かないまま、金の縁を指先で撫でた。
「生まれたとき、この子が僕を選んだんだ」
ローゼリアは黙って、その仕草を見つめる。懐中時計は静かなままなのに、そこだけ時間の気配が濃かった。
「秒針に“愛のある血”を吸わせると動く。ロマンチックでしょ?」
エリオは軽く笑った。
「その代わり、眠れなくなるし、時間を戻した分だけ寿命は削れるけど」
「……あなたは、どこまで知ってるの」
「全部じゃない。でも、“あの瞬間”は感じた」
瞳の奥が、すっと深くなる。
「時間が、裂けた」
温室の花蜜の甘さが、ふっと薄くなる。──一瞬だけ、“ここではない時間”が混ざった。
「リア、血を削ったよね?」
ローゼリアは視線を落とす。否定しない。温室の花が、午後の光の中で揺れていた。
「……ルカが死んだの」
「だから、考える前に願った」
「それで、満月の夜に血印を使うつもりなんだね」
エリオは、責めるでもなく言った。
「ルカ兄に、王族性を分けるために」
「……ええ」
少しの沈黙の後にローゼリアが話を続けた。
「王族であることも、寿命も、全部いらなかった。ただ、生きていてほしかった」
その言葉に、エリオの指先が止まる。
「だから、リアは“人間になる”」
「……」
ローゼリアは何も言わない。ただ事実として受け止める。
「リアは昔から、失うことに敏感だよね。……ルシエルを失った、あの日から」
「双子って、半身みたいなものでしょ」
花弁が揺れる。光が揺れる。そのたび、あの日の記憶が滲んだ。
「リアが誰かを失うの、もう見たくない」
軽い口調のまま、声だけがほんの少しだけ低い。甘さが一段落ちる。
「禁忌は重いよ。あの瞬間、即座に崩れてもおかしくなかった」
ローゼリアの瞳が、かすかに揺れる。
「……だから、あなたが」
「うん」
エリオの瞳から笑みが消える。
「僕が時間を巻き戻した」
温室の空気が白く霞む。ローゼリアの呼吸が止まる。
「……リアが壊れる未来、見たくなかったから」




