第8話 愛人契約
それは契約の形でありながら、どこか誓いにも見えた。胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
(──やっと)
そう思ったのが何に対してだったのか、自分でもわからないまま。ローゼリアはゆっくりと右手を伸ばした。
その瞬間、剣を握ってきた傷だらけの指先が、ローゼリアの小指へ静かに触れる。
「契約を結べば、もう戻れないわ」
ルカリウスは小さく鼻で笑うと、約束の印みたいに小指を絡める。
「戻る気があるように見えるか」
そう言って、絡めた指を引き寄せるように、ゆっくりと顔を近づけた。ローゼリアも、導かれるみたいに小指へ唇を寄せる。指先に吐息が触れる。距離が消え、呼吸が混ざる。ダマスクローズとベチバーが熱を持つ。
ローゼリアは思わず息を止めた。紫の瞳が、真正面から自分だけを捉えている。視線を逸らした瞬間、自分のほうが先に壊れてしまいそうだった。
小指を絡めたままでは、身体を離せない。唇が触れそうなほど近いのに、触れない。そのわずかな距離だけが、理性の境界線だった。
「……今なら、やめられる」
低く落ちた声は、警告に近かった。
けれどローゼリアは逃げない。むしろ絡めた指先へ、力を込める。その瞬間、ルカリウスの瞳が揺れた。月光の下で、隠しきれなかった牙が白く覗く。
次の瞬間。ルカリウスはローゼリアの小指へ、浅く牙を沈めた。ちくり、と小さな痛み。けれど逃げる代わりに、ローゼリアもルカリウスの小指へ牙を立てる。唇が触れそうなほど近い。触れないまま、血だけが混ざる。ほんの一滴。それだけなのに、絡めた指先から脈みたいな熱が走った。
「……っ」
ローゼリアの喉から、小さく息が漏れた。
光が滲む。赤とも紫ともつかない淡い輝きが、二人の指先を包み込んだ。右手首の奥が熱い。血印が、呼吸している。
ローゼリアの小指へ、紫の小さな薔薇が咲く。ルカリウスの小指には、赤い薔薇が刻まれた。まるで互いの色を交換したみたいに。
ルカリウスが息を呑む。
「……共鳴したのか」
掠れた声だった。ローゼリアは小さく微笑む。
「ええ」
小指を絡ませたまま、静かに告げる。
「愛人契約──成立よ」
お互いの小指に刻まれた薔薇の印。その印から、まだ微かな熱が残っていた。触れているだけなのに、脈みたいに熱が返ってくる。共鳴した血が、指先の奥で静かに呼吸しているみたいだった。
しばらくの間、時間が止まったかのようだった。長い沈黙のあと、ルカリウスが息を吐く。
「命令は、……今年は何だ」
「ふふ。じゃぁ──」
ローゼリアは小さく笑った。毎年、必ず願いを叶えてくれる。それが、たまらなく嬉しかった。
「……今夜だけ」
小さな声。ルカリウスはただ、続きを待つ。
「子供の頃みたいに」
燭台の炎が、ゆるやかに揺れる。睫毛に影が落ちる。
「手を、繋いで眠ってほしいの」
あの夜の庭へ、戻りたかった。同じ喪失を抱え、同じ沈黙を共有した時間。触れなくても、隣にいるだけでよかった距離。ルカリウスはゆっくりと息を吐いた。
「もう子供じゃない。それだけで済むとでも?」
低い声。理性を保ったままの警告だった。ローゼリアは小さく頷く。
「わかってる」
それ以上は言わない。言わないことが、ずるい。わずかに、ルカリウスの口元が緩んだ。
「……ずるいな」
ルカリウスは息を吐く。そのまま寝台へ向かうと、隙間を空けて横になった。そして静かに手を伸ばす。ローゼリアはその掌へそっと指を重ねた。触れた瞬間、ゆっくりと引き寄せられる。一定の距離を開けたまま、隣に横たわる。二人の視線が、同じ位置に並んだ。
「今夜だけだ」
念を押す低い声。次の瞬間──ルカリウスの指が指先に絡められた。支配でも契約でもない。ただ、確かにそこにいるというような優しい圧。鼓動が、ゆるやかに揃っていく。
乾いたベチバーと冷えたウッド。体温に触れて、わずかに甘く変わるアンバー。その香りが、ゆっくりと肺の奥へ落ちていく。ローゼリアは目を閉じた。
「……うん」
小さな吐息が、部屋の空気を柔らかくする。ただ、隣にいる。それだけで温かい。
ルカリウスは気づかない。この温度が、言葉にならないまま胸の奥に沈んでいくことに。
そして渇きも──ほんの少しだけ、静まっていた。
◇◇◇
部屋の灯りは落とされ、燭台の炎だけがかすかに揺れていた。壁に映る影はゆるやかに伸び、溶けるように揺らめく。
ローゼリアは、ルカリウスの手を握ったまま、先に眠っていた。細い指先は触れていると妙に柔らかい。無防備な寝息が、静かな部屋に小さく溶けていく。
ルカリウスは眠れなかった。身体は横たわっていても、内側だけが落ち着かない。
ホワイトムスクに、ほんの少しのバニラ。体温に溶けて立ちのぼる、甘い香り。そして、ローゼリアの血の余韻がまだ消えきらない欲として残っている。
暗闇の天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整える。そのとき、ローゼリアの呼吸がほんのわずかに乱れた。睫毛が震える。眉がかすかに寄る。次の瞬間、目尻からひと筋、音もなく涙がこぼれ落ちた。
ルカリウスは視線を落とした。
「……子供みたいだな」
懐かしむような温度だった。あの庭で膝を抱え、必死に涙を堪えていた小さな背中。
(昔は──よく泣いていたな)
今は泣かない。誰よりも強く、誰よりも冷静であろうとする。だからこそ、この無意識の涙は、どこか安堵に近かった。
ルカリウスはゆっくりと上半身を起こした。握られた手を離さぬまま身を寄せ、触れるか触れないかの、親指のかすかな圧でそっと涙を拭う。
その瞬間──胸の奥の熱が、別のものへ変わった。ただ、この涙を見たくなかった。
「……厄介だな」
何が厄介なのか。まだ言葉にできない。
ローゼリアは眠ったまま、指先にわずかな力を込める。離れるな、とでも言うように。ルカリウスは同じ強さで握り返した。
越えなかった夜。欲は消えていない。けれど血ではない温度が、確かにそこにあった。
ルカリウスは一度も目を閉じなかった。ローゼリアと自分の小指に刻まれた薔薇の印を、何度も見つめながら。
夜が明けても、その手だけは──離さなかった。




