第10話 まだ愛と呼べない
「一年。猶予を作った。それが限界だった」
最後の一音だけが、少し沈んだ。軽く笑う。壊れないように。
その瞬間、温室の光が一瞬だけ揺らぐ。揺らいだのは光だけじゃない。甘い空気の層が、薄い紙のようにめくれて、すぐ戻る。
エリオの指先だけが、その“めくれ”の向こうを知っている。ガラス越しの陽射しが、きらりと歪む。ローゼリアは指先に握らされた一輪のピンクの薔薇に気づく。
「……いま、止めた?」
「ほんの一瞬」
あっけらかんと返す。
「これは、誕生日プレゼントかしら?」
ローゼリアは手元の薔薇を見てくすくすと笑う。
「誕生日プレゼントはもう渡したよ」
「未来の分まで、二年分ね」
エリオは軽く笑った。時を巻き戻した。それ以上の贈り物を、ローゼリアは知らない。翡翠の瞳が揺れる。
「エリオ……ありがとう」
「便利なんだよ。副作用つきだけどね」
目の下にはわずかな影。午後三時の甘やかな光の中で、その影だけが浮いて見える。
「リア。満月の契約は、救済じゃない」
静かな声で続ける。
「王族性は分けられる。でも、禁忌の代償は消えない」
ローゼリアはゆっくりと息を吐く。
「わかってる」
「それでも、やるの?」
問いではないその確認に、ローゼリアは顔を上げる。
「やるわ」
迷いのないその声に、エリオはほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
そして、柔らかく言う。
「じゃあ、僕は最後まで付き合うよ」
エリオは三つ目のマカロンを摘み、楽しげに頬張りながら、じっとローゼリアを見つめる。
「で?」
重い話のあとほど、エリオはわざと空気を軽くする。
「……気持ちは伝えたの?」
面白がっているような軽い口調に、ローゼリアが眉を寄せる。
「そんな簡単じゃないわ」
「戻ってきた意味〜」
エリオはマカロンを摘みながら笑う。
「……愛人契約と王族性の話しかしてないわ」
「え、素直に好きって言えばいいのに」
エリオは首を傾げながら、紅茶を飲む。
「……むりよ」
「リアはほんと、王女様だよねえ」
けれど、エリオの笑みはすぐに柔らかくなる。
「でも、空気は変わったよ」
「……そうかしら」
「僕にはわかるよ」
エリオは軽く懐中時計を指先で弾く。カチ、と小さな金属音が温室の空気に溶ける。冗談の合図であり、真面目の合図でもある。エリオはその切り替えが上手すぎる。
「僕は“時間”の呼吸を察知する側の王族だから。人の感情がどこで加速して、どこで止まるか、なんとなくわかる」
エリオは天井越しの光を見上げながら、ふと真面目な声になる。
「血印も、懐中時計も、もともとは“血を絶やさないため”のものだよ。でも本質は違う。あれは、“誰を守るかを選ぶ道具”なんだ」
ローゼリアの指先が、無意識にカップを強く握る。エリオは続ける。
「王族性ってさ」
エリオは懐中時計をくるりと回した。
「力だと思われてるけど、僕は違うと思う」
ローゼリアは黙ったまま、エリオの金の瞳に映るものを見つめていた。
「誰かの未来を引き受ける覚悟、かな」
エリオは指先で懐中時計の縁を撫でた。温室の光がキャラメル色の髪を透かし、柔らかな輪郭を描く。甘い匂いが、少しだけ遠くなる。代わりに、言葉の重みが近づく。
「リアはルカ兄を選んだ。だから禁忌を使った」
「僕はリアを選んだ。だから時間を戻した」
「結局さ、王族って、そういう生き物なんじゃない?」
軽やかな調子のままなのに、重さだけが静かに沈む。ローゼリアの喉が震えた。
「……エリオ、後悔してない?」
「してないよ」
間を置いたら、軽さが崩れる。だからエリオは、わざと明るく笑った。
「眠れないのも、寿命が削れてるのも、副作用ってやつでしょ。まあ、仕様」
さらっと言いながら、どこか遠くを見る。窓の外、白く霞んだ空の向こうに、見えない何かを探すように。
「もともと五百年も生きるつもりなかったし」
ローゼリアがゆっくりと顔を上げる。
「……あの人のせい?」
エリオは少しだけ照れたように笑った。
「うん」
穏やかな声で続ける。
「百年も生きない人を好きになった時点で、時間の価値なんて変わるよ」
「黒髪でさ、眼鏡かけてて。……自分の才能に、いちばん鈍いタイプ」
懐中時計を閉じる。金属音がひとつ、温室の甘さに沈む。
「人間って不思議だよね。百年しかないのに、あんなに本気で生きる」
「だから、僕も長生きする気はないんだ」
花弁が静かに揺れ、光がまた揺らぐ。揺れるたび、“時間”が柔らかくなる。
「僕はね、リア」
その声が、少しだけ深くなる。
「王族の血は“永遠”のためにあるんじゃないと思う」
間があった。甘さが消えないまま、空気だけが重くなる。
「たぶん、“選ぶ瞬間”のためにあるんだと思う」
ローゼリアの瞳が揺れた。満月、契約、命の共有、そのひとつひとつの言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいく。気づけば、思い浮かぶ顔はひとつだけだった。
「リアはルカ兄を選ぶ?」
「もちろん」
ローゼリアの迷いのない答えに、エリオはほっとしたように微笑む。
「そっか」
そして、悪戯っぽく肩をすくめた。
「じゃあ、満月までには素直に伝えなよ」
「そうね……」
エリオは楽しそうに笑いながら、最後のマカロンを口に入れた。
「案外、難しくないと思うけどな」
「本人だけが気づいてないんだから」
その言葉に、ローゼリアの心臓が跳ねる。温室の甘い香りの中で、未来の重さと恋の熱が同時に揺れていた。
エリオはもう何も言わなかった。ただ、その背中を押すには十分なだけのことを、もう言い終えていた。
◇◇◇
温室の扉を押し開けると、外の空気はひやりと涼しかった。
午後の光は傾きはじめ、庭園は金色に染まりつつある。長い影が芝生を横切り、噴水の水面が橙色の光を弾いていた。
石畳の先に、ルカリウスが立っていた。
腕を組み、背の高い体躯が夕陽に縁取られている。鍛錬後なのか、額にかかる髪がわずかに乱れていた。金属と汗の匂いが、冷えた夕気に混じる。
「……長い」
低い声は淡々としているが、待っていた時間の分だけ、不機嫌さが滲む。隣でエリオがくすりと笑った。甘い香りが、最後にふわりと揺れる。
「不機嫌さ出しちゃうとか、わかりやすいのになあ」
「エリオ」
ローゼリアが小さく咎めると、エリオは肩をすくめてひらりと手を振る。
「じゃ、僕はここまで。リア、またね」
そしてルカリウスを見上げ、にっこりと笑った。
「ちゃんと送ってあげてね。あと、リアは取らないよ。安心して。ルカ兄」
悪戯の笑み。
「僕が欲しいのは──違うから」
ルカリウスは意味を理解しない。ただ、面白くなかった。ローゼリアだけが、ほんの少しだけ苦笑する。エリオの香りが、笑いと一緒に遠ざかる。
甘いはずの香りの奥に、触れてはいけない静けさが、ひとひら沈んでいた。
エリオの足音が遠ざかっていく。 夕暮れの庭園には、ローゼリアとルカリウスだけが残った。
甘さが消えた空間へ、ルカリウスの匂いがゆっくりと満ちてくる。冷えたウッドと金属、それに鍛錬後の体温。空気が、“ルカリウスのもの”に上書きされていく。
「……何を話していた」
歩き出しながら、ルカリウスが問う。
「秘密」
ルカリウスは、面白くなさそうに目を細めた。足が、ほんのわずかに止まる。
「……そうか」
わざと前を歩くと、すぐ隣に並ばれる。自然に歩幅が合うのが、少しだけくすぐったい。
石畳が夕陽を受けて橙色に染まり、二人の影が長く伸びる。しばらくの沈黙のあと、ルカリウスが低く言った。
「俺は、あいつみたいに器用じゃない」
嫉妬の否定でも、自己卑下でもない。ただ、事実のように。
ローゼリアは立ち止まり、ルカリウスを見上げる。剣の匂いが近い。乾いたベチバーが、夕陽の温度に混ざる。一直線で、逃げ道がない匂い。
「器用じゃなくていい」
ほんの一瞬だけ、言葉の行き場が空に浮く。胸の奥で、エリオの言葉がまだ響いている。
「私は、あなたがいいの」
ルカリウスの瞳がわずかに揺れる。
「ルカ」
夕陽が、ルカリウスの横顔を赤く縁取っていた。紫の瞳が、翡翠の瞳から逸らせない。ローゼリアは唇を開きかけて、閉じた。それでも言葉は零れる。
「私は──あなた以外を選ぶ気はないわ」
言葉は静かだった。けれど、どこにも逃げ場を残さない響きだった。風の音が、ふと遠のく。ルカリウスは何も言わなかった。
喉がかすかに上下する。ルカリウスの手が、ほんの少しだけ震える。
「俺は、これ以上……」
ルカリウスの指先が、ローゼリアの右手に触れた。言いかけた言葉は、そのまま喉の奥で止まる。
「ルカ……?」
黙ったまま、ローゼリアの小指を掴む。愛人契約の印の紫の薔薇。
夕陽を受けた花弁が、ほんの一瞬だけ脈打った気がした。夕暮れの庭園が遠のく。噴水の音が、急に遠く聞こえる。
まだ愛と呼べない何かが、胸の奥で燻る。ルカリウスは、小指に咲く薔薇から目を逸らせなかった。




