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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第1幕

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10/22

第10話 まだ愛と呼べない

「一年。猶予を作った。それが限界だった」


最後の一音だけが、少し沈んだ。軽く笑う。壊れないように。


その瞬間、温室の光が一瞬だけ揺らぐ。揺らいだのは光だけじゃない。甘い空気の層が、薄い紙のようにめくれて、すぐ戻る。


エリオの指先だけが、その“めくれ”の向こうを知っている。ガラス越しの陽射しが、きらりと歪む。ローゼリアは指先に握らされた一輪のピンクの薔薇に気づく。


「……いま、止めた?」


「ほんの一瞬」


あっけらかんと返す。


「これは、誕生日プレゼントかしら?」


ローゼリアは手元の薔薇を見てくすくすと笑う。


「誕生日プレゼントはもう渡したよ」


「未来の分まで、二年分ね」


エリオは軽く笑った。時を巻き戻した。それ以上の贈り物を、ローゼリアは知らない。翡翠の瞳が揺れる。


「エリオ……ありがとう」


「便利なんだよ。副作用つきだけどね」


目の下にはわずかな影。午後三時の甘やかな光の中で、その影だけが浮いて見える。


「リア。満月の契約は、救済じゃない」


静かな声で続ける。


「王族性は分けられる。でも、禁忌の代償は消えない」


ローゼリアはゆっくりと息を吐く。


「わかってる」


「それでも、やるの?」


問いではないその確認に、ローゼリアは顔を上げる。


「やるわ」


迷いのないその声に、エリオはほんの少しだけ寂しそうに笑った。


「そっか」


そして、柔らかく言う。


「じゃあ、僕は最後まで付き合うよ」


エリオは三つ目のマカロンを摘み、楽しげに頬張りながら、じっとローゼリアを見つめる。


「で?」


重い話のあとほど、エリオはわざと空気を軽くする。


「……気持ちは伝えたの?」


面白がっているような軽い口調に、ローゼリアが眉を寄せる。


「そんな簡単じゃないわ」


「戻ってきた意味〜」


エリオはマカロンを摘みながら笑う。


「……愛人契約と王族性の話しかしてないわ」


「え、素直に好きって言えばいいのに」


エリオは首を傾げながら、紅茶を飲む。


「……むりよ」


「リアはほんと、王女様だよねえ」


けれど、エリオの笑みはすぐに柔らかくなる。


「でも、空気は変わったよ」


「……そうかしら」


「僕にはわかるよ」


エリオは軽く懐中時計を指先で弾く。カチ、と小さな金属音が温室の空気に溶ける。冗談の合図であり、真面目の合図でもある。エリオはその切り替えが上手すぎる。


「僕は“時間”の呼吸を察知する側の王族だから。人の感情がどこで加速して、どこで止まるか、なんとなくわかる」


エリオは天井越しの光を見上げながら、ふと真面目な声になる。


「血印も、懐中時計も、もともとは“血を絶やさないため”のものだよ。でも本質は違う。あれは、“誰を守るかを選ぶ道具”なんだ」


ローゼリアの指先が、無意識にカップを強く握る。エリオは続ける。


「王族性ってさ」


エリオは懐中時計をくるりと回した。


「力だと思われてるけど、僕は違うと思う」


ローゼリアは黙ったまま、エリオの金の瞳に映るものを見つめていた。


「誰かの未来を引き受ける覚悟、かな」


エリオは指先で懐中時計の縁を撫でた。温室の光がキャラメル色の髪を透かし、柔らかな輪郭を描く。甘い匂いが、少しだけ遠くなる。代わりに、言葉の重みが近づく。


「リアはルカ兄を選んだ。だから禁忌を使った」


「僕はリアを選んだ。だから時間を戻した」


「結局さ、王族って、そういう生き物なんじゃない?」


軽やかな調子のままなのに、重さだけが静かに沈む。ローゼリアの喉が震えた。


「……エリオ、後悔してない?」


「してないよ」


間を置いたら、軽さが崩れる。だからエリオは、わざと明るく笑った。


「眠れないのも、寿命が削れてるのも、副作用ってやつでしょ。まあ、仕様」


さらっと言いながら、どこか遠くを見る。窓の外、白く霞んだ空の向こうに、見えない何かを探すように。


「もともと五百年も生きるつもりなかったし」


ローゼリアがゆっくりと顔を上げる。


「……あの人のせい?」


エリオは少しだけ照れたように笑った。


「うん」


穏やかな声で続ける。


「百年も生きない人を好きになった時点で、時間の価値なんて変わるよ」


「黒髪でさ、眼鏡かけてて。……自分の才能に、いちばん鈍いタイプ」


懐中時計を閉じる。金属音がひとつ、温室の甘さに沈む。


「人間って不思議だよね。百年しかないのに、あんなに本気で生きる」


「だから、僕も長生きする気はないんだ」


花弁が静かに揺れ、光がまた揺らぐ。揺れるたび、“時間”が柔らかくなる。


「僕はね、リア」


その声が、少しだけ深くなる。


「王族の血は“永遠”のためにあるんじゃないと思う」


間があった。甘さが消えないまま、空気だけが重くなる。


「たぶん、“選ぶ瞬間”のためにあるんだと思う」


ローゼリアの瞳が揺れた。満月、契約、命の共有、そのひとつひとつの言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいく。気づけば、思い浮かぶ顔はひとつだけだった。


「リアはルカ兄を選ぶ?」


「もちろん」


ローゼリアの迷いのない答えに、エリオはほっとしたように微笑む。


「そっか」


そして、悪戯っぽく肩をすくめた。


「じゃあ、満月までには素直に伝えなよ」


「そうね……」


エリオは楽しそうに笑いながら、最後のマカロンを口に入れた。


「案外、難しくないと思うけどな」


「本人だけが気づいてないんだから」


その言葉に、ローゼリアの心臓が跳ねる。温室の甘い香りの中で、未来の重さと恋の熱が同時に揺れていた。


エリオはもう何も言わなかった。ただ、その背中を押すには十分なだけのことを、もう言い終えていた。



◇◇◇



温室の扉を押し開けると、外の空気はひやりと涼しかった。


午後の光は傾きはじめ、庭園は金色に染まりつつある。長い影が芝生を横切り、噴水の水面が橙色の光を弾いていた。


石畳の先に、ルカリウスが立っていた。


腕を組み、背の高い体躯が夕陽に縁取られている。鍛錬後なのか、額にかかる髪がわずかに乱れていた。金属と汗の匂いが、冷えた夕気に混じる。


「……長い」


低い声は淡々としているが、待っていた時間の分だけ、不機嫌さが滲む。隣でエリオがくすりと笑った。甘い香りが、最後にふわりと揺れる。


「不機嫌さ出しちゃうとか、わかりやすいのになあ」


「エリオ」


ローゼリアが小さく咎めると、エリオは肩をすくめてひらりと手を振る。


「じゃ、僕はここまで。リア、またね」


そしてルカリウスを見上げ、にっこりと笑った。


「ちゃんと送ってあげてね。あと、リアは取らないよ。安心して。ルカ兄」


悪戯の笑み。


「僕が欲しいのは──違うから」


ルカリウスは意味を理解しない。ただ、面白くなかった。ローゼリアだけが、ほんの少しだけ苦笑する。エリオの香りが、笑いと一緒に遠ざかる。


甘いはずの香りの奥に、触れてはいけない静けさが、ひとひら沈んでいた。


エリオの足音が遠ざかっていく。 夕暮れの庭園には、ローゼリアとルカリウスだけが残った。


甘さが消えた空間へ、ルカリウスの匂いがゆっくりと満ちてくる。冷えたウッドと金属、それに鍛錬後の体温。空気が、“ルカリウスのもの”に上書きされていく。


「……何を話していた」


歩き出しながら、ルカリウスが問う。


「秘密」


ルカリウスは、面白くなさそうに目を細めた。足が、ほんのわずかに止まる。


「……そうか」


わざと前を歩くと、すぐ隣に並ばれる。自然に歩幅が合うのが、少しだけくすぐったい。


石畳が夕陽を受けて橙色に染まり、二人の影が長く伸びる。しばらくの沈黙のあと、ルカリウスが低く言った。


「俺は、あいつみたいに器用じゃない」


嫉妬の否定でも、自己卑下でもない。ただ、事実のように。


ローゼリアは立ち止まり、ルカリウスを見上げる。剣の匂いが近い。乾いたベチバーが、夕陽の温度に混ざる。一直線で、逃げ道がない匂い。


「器用じゃなくていい」


ほんの一瞬だけ、言葉の行き場が空に浮く。胸の奥で、エリオの言葉がまだ響いている。


「私は、あなたがいいの」


ルカリウスの瞳がわずかに揺れる。


「ルカ」


夕陽が、ルカリウスの横顔を赤く縁取っていた。紫の瞳が、翡翠の瞳から逸らせない。ローゼリアは唇を開きかけて、閉じた。それでも言葉は零れる。


「私は──あなた以外を選ぶ気はないわ」


言葉は静かだった。けれど、どこにも逃げ場を残さない響きだった。風の音が、ふと遠のく。ルカリウスは何も言わなかった。


喉がかすかに上下する。ルカリウスの手が、ほんの少しだけ震える。


「俺は、これ以上……」


ルカリウスの指先が、ローゼリアの右手に触れた。言いかけた言葉は、そのまま喉の奥で止まる。


「ルカ……?」


黙ったまま、ローゼリアの小指を掴む。愛人契約の印の紫の薔薇。


夕陽を受けた花弁が、ほんの一瞬だけ脈打った気がした。夕暮れの庭園が遠のく。噴水の音が、急に遠く聞こえる。


まだ愛と呼べない何かが、胸の奥で燻る。ルカリウスは、小指に咲く薔薇から目を逸らせなかった。

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