第11話 死んだ婚約者の帰還
北境との婚約話が白紙となったことは、三日後の昼、正式に王宮より発表された。
王城中央の大広間は、昼光を受けた水晶灯の冷たい輝きに満ちていた。祝宴の夜の華やぎはなく、磨き上げられた大理石に張りつめるのは、沈黙と緊張だけだった。
玉座の前に立つのは、ローゼリア。深い海底のような紺のドレス。宝石ではなく、リボンで飾られている。静かな発表の場にふさわしい清楚さだった。
ローゼリアは俯かず、ただ王女として、まっすぐ前を見据えている。その視線の先にあるのは“未来”ではない。──塗り替えるべき盤面だけだ。
アストレイオン王の低い声が、広間を静かに満たした。
「第一王女ローゼリアと、北境公爵家嫡男カシアン・ヴェルモントとの婚約話は──本日をもって白紙とする」
ざわめきは起こらなかった。予想していたからではない。王の決定に、異を唱える者などいない。この国では、正しさよりも血が事実になる。ローゼリアはゆっくりと息を吸った。
(これで未来はひとつ、確かに動いた)
自分の選択で、回帰前とは異なる分岐へ向かった瞬間だった。その静寂を、低く澄んだ声音が裂く。
「──発言をお許しいただけますか」
その声に、広間の視線が一斉に動いた。
柱の影から現れた男は、深い青の衣を纏っていた。装飾は少ない。けれど、ひと目で分かるほど仕立てが良い。長身の黒髪。冷えた青の瞳。
ただ歩くだけで、広間の空気が静かに塗り替わる。玉座を中心に保たれていた均衡が、ほんのわずかに揺れた。それは威圧ではない。
──“王家に並び立つ血”が持つ温度だった。
冷えた香りが、一瞬だけ落ちる。ジュニパーベリーと、乾いたホワイトティー。インクをひと滴垂らしたみたいな、静かな理性の匂い。近づかなければ分からないほどの薄さ。けれど血は、匂いより先に理解する。
男は玉座の前で形式通りに一礼した。
「名は、セラフィオン・ヴァル・アストラ」
名が落ちた瞬間、広間の温度が一段下がった。
アストラ家。王族と並び立つ古き研究血統。表舞台には滅多に出ず、王位には名乗らない──その“距離”が、敬意と警戒を同時に呼ぶ名だった。
アストレイオン王の瞳が、一瞬だけ揺れた。しかし、同時に何かを理解したような揺れにも見えた。
「……生きていたか、アストラ大公」
「はい」
(……え……生きていたの……?)
死んだとされていた男。幼い頃、婚約者と教えられた“青い目”。そしてある日、当然のようにローゼリアの世界から消えた存在。
「なぜ今になって現れたのだ」
アストレイオン王の瞳が、静かに細まる。責める声ではなく確認の声だった。
「王都の空気が──動いておりましたので」
ローゼリアの指先が、ほんのわずかに強張った。セラフィオンは静かに続ける。
「婚約が白紙となった今、第一王女殿下の立場は再構築が必要でしょう。政治的安定のためにも、血統的均衡のためにも──我がアストラ家が名を連ねることは自然な流れかと存じます」
合理的な言葉。感情は見せない。けれど、視線は玉座ではなくローゼリアへ向けられていた。見ているのはアストレイオン王の判断ではない。王女の“選択”だ。誰が決めるかを、知っている目だった。その青い視線が、一瞬だけローゼリアの右手へ落ちる。
(……私の指先の印を見てる──?)
息が、ほんのわずかに詰まった。アストレイオン王がゆっくりと頷く。
「元々は、アストラ家との縁談が先であったな」
「はい。……死亡の誤報が流れただけのこと」
誤報、とセラフィオンは言った。あまりにもあっさりと。まるでそれが必要な“手続き”だったかのように。
「私は健在です。改めて土俵に立つ機会を頂きたい」
広間に微かなざわめきが広がる。死者が戻ることよりも、“アストラが名乗る”ことのほうが重い。それは祝福ではない。秤に新しい重りが置かれた音だった。ローゼリアは息を殺す。
(回帰前は“死んだまま”だった。未来が変わった……?)
「もっとも、私は婚約そのものを急いでいるわけではありません」
その言葉に、空気がわずかに揺れた。揺れたのは期待ではない。“計算”の余白だ。
「王女殿下は王族の血を継ぐ直系。その身に何かあれば、国の均衡が崩れる。研究者として、そして同格の家系として──近くに立ち“盾”となる立場を望んでいるだけです」
理論、政治、構造。正しさはときに、刃よりも深く刺さる。アストレイオン王はゆっくりと口を開いた。
「騎士は剣で守る。だが、血の理を解くことはできぬ」
広間壁際で、空気が鋭く張った。ルカリウスだ。口を挟む立場ではない。けれど拳が、固く握られている。金属の匂いが、怒りより先に立ち上がっていた。
セラフィオンは淡々と、最後の提案を落とした。
「正式婚約でなくとも構いません。北境公爵家を刺激せず、かつ王女殿下の近くに立つ理由を得られる形が必要です。例えば──“愛人”という形でも」
(まるで──“見ていた”かのようなタイミングね)
ざわり、と広間が揺れる。“愛人”その響きに艶はない。制度としての選択肢を提示しただけだ。むしろ、政治の矢面を避けるための冷静な逃げ道。しかし逃げ道は、同時に近道でもある。
アストレイオン王の視線がローゼリアへ向いた。
「どうだ、ローゼリア」
命令ではない。しかし、アストレイオン王の問いは常に重い。“答える”というより、“決める”ことを求められている。
(お父様は“悪い提案ではない”と、言いたいのね)
広間中の視線が集まる。セラフィオンは動かない。焦らない。ただ待つ。ルカリウスは青衣の男を睨みつけていた。
合理的だ。政治的にも正しい。そして何より──遠ざけるには強すぎる家系。
ローゼリアは静かに息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「……条件付きで」
セラフィオンの青い瞳に、ほんのわずかな光が宿る。喜びではない。盤面が読めたときの、研究者の微かな反応だった。
それでもローゼリアには、その光が研究者の反応だけには見えなかった。
死んだはずの青が、盤へ戻る。そして、盤は静かに軋みはじめた。




