第12話 視線の行き先
「解散とする」
大広間の空気は、解散のざわめきへと変わりつつあった。貴族たちは小声で囁き合いながら散っていく。アストレイオン王は側近と短い言葉を交わし、玉座の奥へと姿を消した。
扉が閉じる音が、遠くで小さく響く。広間に残った緊張だけが、切り離された布のように床へ落ちた。
残されたのは、中央に立つローゼリアと、数歩離れて佇むセラフィオン。そして──広間の壁際に立つ、ルカリウス。
視線が、静かに交差する。衝突ではない。けれど、確かに火種を含んだ交差だった。セラフィオンが先に口を開いた。
「“条件付き”とは?」
声は穏やかだ。感情の波は見せない。けれど、観察者の目は崩れない。その視線だけが、ローゼリアの“選択”の中心を正確に捉えていた。
「……場所を変えましょう」
ローゼリアは周囲を一瞥し、歩き出す。人払いの意味を理解したセラフィオンも、同じ歩幅で並んだ。少し離れ“護衛の距離”を保ちながら、ルカリウスも後を追う。
広間を抜け、長い回廊へ。窓から差し込む昼光が、二人の影を床に伸ばす。光は白いのに、会話の温度だけが、ひどく冷静だった。
足音が石床を打つたび、言葉の前触れみたいに反響する。だからこそ、沈黙が余計に重い。
「あなたは、なぜ今になって現れたの」
「王都の空気が動いていたからです」
短くそう答えてから、セラフィオンは少し間を置いた。
「……あなたを守るためでもある」
ローゼリアの鼓動が、ひとつ強く跳ねた。白い光の中で、その跳ねだけが妙に鮮明だった。
「守る?」
「アストラ家は、王族の血……すなわち、この国の均衡を守る側の家系です」
それは完璧な理屈。けれど、視線は逸れない。“血”の話をしているのに、その目はずっとローゼリアの輪郭だけを追っている。理論の仮面の下で、感情が呼吸していた。
「愛人という形を提案したのも、そのためです。正式婚約は政治の矢面に立つ。愛人であれば、自由度が高い。近距離で見届けることも可能──」
「見届ける?」
「はい」
淡々と。冷静に。その冷静さが、逆に不穏だった。
「あなたの血は、安定していない」
ローゼリアの空気だけが止まる。それ以上は踏み込まない。踏み込めば、ローゼリアが引くと知っているからだ。
「今はそれだけ言っておきましょう」
ローゼリアは目を細めた。
「私を、監視する気?」
「いいえ」
セラフィオンの青い瞳は揺れない。
「私はあなたの選択を奪うつもりはありません」
その言葉には、ほんのわずかに熱が混じっていた。気づかぬほど小さな、しかし確かな温度。
「……元々は、あなたが婚約者だったと聞いたわ」
「はい」
即答。否定も弁明もないことが逆に重い。言葉が少ないほど、過去は濃くなる。
「それでも、婚約は望まないの?」
セラフィオンは一瞬だけ黙った。青い瞳が揺れたのは、光のせいではない。
「望む、という言葉は正確ではありません」
丁寧に整えた返答。逃げではない。掟の輪郭を、ぎりぎりで隠す言い方だった。
「……私は、あなたを一度失っています」
「望めば──あなたは私を選びますか?」
静かな問いだった。挑発ではない。むしろ──願いに近い確認だった。
ローゼリアは答えない。答えられない。その沈黙は、拒絶よりずっと残酷だった。
その沈黙を、セラフィオンは理解している。それでも視線を外さない。外さないことだけが、唯一の欲の告白になる。
「私は合理的な人間です」
そう言いながらも、視線は外さない。
「ですが、合理だけで動いているわけでもない」
風が回廊を抜ける。遠くで金属が鳴る音。距離を空けて後ろを歩く、ルカリウスがわずかに身じろいだ。
「愛人契約は制度です」
「その視線の行き先を──今からでも変えられるでしょうか」
その言葉は、熱を持たないのに、深いところへ落ちた。野心でもない。欲望でもない。計算の奥に隠し持っていた感情が、ほんの一瞬だけ顔を出す。
ローゼリアの指先が、かすかに震えた。震えたのは恐れか、懐かしさか。判別はつかない。空気が、さらに動く。
後ろで、ルカリウスの瞳が鋭く光った。
──あの男は危険だ。理由は分からない。ただ、本能だけが拒絶していた。




