第81話 境界を還す者
地面が震える。西門の向こうから、これまでとは比べものにならないほど大きな咆哮が響いた。魔物たちが一斉に騒ぎ始める。土埃が舞い、焦げた匂いが濃くなる。
ローゼリアの右耳で、紫色の精霊石が燃えるように輝いた。
エリオの金色の瞳が、未来の一点を捉えた。
「──今だ、リア」
その声と同時に、ローゼリアは右耳の精霊石へ触れた。
何をすればいいのかなど、知らない。術式も知らない。古代の言葉も知らない。それでも、なぜか分かった。
目を閉じる。胸の奥にあるものへ、手を伸ばすように意識を沈めた。
(──お願い)
魔物を消したいわけじゃない。殺したいわけでもない。魔物の赤い角は──ノクティス。私の先祖は魔物だった。
(だから、私が境界を戻すの)
人には、人の場所を。魔物には、魔物の場所を。もう互いに、奪わなくていいように。
その願いに応えるように、右耳の精霊石から紫色の光が溢れ出した。熱は耳元から首筋へ、肩へ、胸へと広がっていく。熱いのに、痛くはなかった。
光は地を走り、セラフィオンの術式を伝って城壁の外へ広がっていく。森へ。大地へ。かつて人と魔物を隔てていた、忘れられた境界へ。
その瞬間、夜空を照らしていた満月が紫色に染まった。
魔物たちの咆哮が止む。剣を振り上げていたルカリウスも動きを止める。
紫色の光の中で、ローゼリアはゆっくり目を開いた。目の前にいた魔物が、一歩後ろへ下がる。そして、もう一歩。まるで見えない境界線を思い出したように。
魔物たちは、森へ吸い込まれるように次々と姿を消していく。石畳に、静けさだけが残った。
「……成功、したの?」
ローゼリアが呟く。誰も答えなかった。
その瞬間、右手首に、鋭い痛みが走った。
「……っ!」
身体が傾く。
「リア!」
駆け寄ってきたルカリウスの腕が、倒れかけた身体を受け止めた。
血と煙の匂い。その奥にある、知っている香り。ローゼリアは反射的に彼の胸元を掴んだ。
「ルカ……」
「無茶をするな」
怒っているような声色に、ローゼリアは小さく笑った。その頬へ、ルカリウスの手が触れる。剣を握り続けて硬くなった手なのに、驚くほど優しかった。その瞳は、金色のままだった。
ローゼリアはぼんやりとそれを見つめる。
「……綺麗」
「何が」
「ルカの瞳」
ルカリウスの眉が寄る。
「金色なの」
「……何?」
ルカリウスはまだ、自分の瞳を見ていないのだろう。ローゼリアは手を伸ばし、その頬へ触れた。
「──月を閉じ込めたみたいだわ」
お父様と同じ。ルシエルと同じ。エリオと同じ。金色の瞳。一体なぜなのだろう。
その問いが再び浮かんだ瞬間、右手首が熱を持った。ローゼリアは顔をしかめる。
「リア?」
ルカリウスが右腕を掴もうとする。
「なんでもないわ」
「見せろ」
「本当に大丈夫だから」
慌てて腕を引いた。封印の衝撃で、術式が解けかけている。うっすら浮かび上がった右手首の薔薇を、ここで見られるわけにはいかない。
◇◇◇
少し離れた場所から、その様子をセラフィオンが見ていた。彼はローゼリアの右耳へ視線を移す。耳飾りは、何事もなかったかのように静かに揺れている。
拒絶は起きなかった。それどころか。古代の術式は、ローゼリアを中心として発動した。
あり得ない。初代王ヴァルディアでさえ、右の耳飾りを長く身につけることは身体への負担になったと記録されている。
セラフィオンの視線が、ルカリウスへ移る。金色の瞳。そして、ローゼリアの右手首。一つの仮説が脳裏を過ぎる。あまりにも現実離れした仮説。だが、それならばすべて説明がつく。
「研究者さん」
隣から声がした。エリオだった。
「気づいた?」
「……あなたは、いつから」
「僕も全部知ってたわけじゃないよ」
エリオは、少し離れた場所にいる二人へ目を向けた。
「でも、これで分かった」
「何がです」
エリオは答えなかった。
赤い髪の王女。その耳元で揺れる、紫色の石。かつて紫だった瞳に、今は金色を宿した騎士。その手に握られた剣には、まだ微かに赤い光が残っている。
まるで、本来互いが持つはずだったものを交換したように。
セラフィオンの青い瞳が、静かに揺れた。
「……まさか」
エリオは、ただ笑った。答えを言葉にする代わりに。
満月が、二人の頭上に浮かんでいる。
エリオはそれ以上何も言わなかった。ただ、夜空を見上げる。満月はまだ、欠けていなかった。
◇◇◇
夜が明ける頃には、西門周辺の混乱は収まっていた。
焼け落ちた屋台の跡には、既に住民たちが戻り始めていた。松明の灯りが、まだあちこちで揺れている。誰もが、まだ信じられないという顔で、静まり返った街を見つめている。
「……本当に、終わったのか」
騎士の一人が、呆然と呟いた。
「魔物が、あんなに一斉に……」
「見たか、あの光を」
「ああ。まるで、月から王が降りてきたみたいだった」
囁きが、次第に広がっていく。人だかりの中を、その言葉が波紋のように伝わっていった。人々の口に最も多く上った名前は一つだった。
「あの金の瞳……王族みたいだった」
「ルカリウス副団長が、あれほどの数を……」
住民たちの視線が、遠くで剣を鞘へ収めるルカリウスへ向かう。傷だらけの騎士服。血に濡れた髪。それでも、その立ち姿は、誰の目にも鮮烈に映っていた。
団長レオンハルトが、瓦礫を踏み越えて歩み寄ってくる。
「ルカリウス」
「団長」
「よくやった」
レオンハルトの声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。
「あれだけの数を前線で退けた。……いや、それだけじゃない」
視線が、ルカリウスの瞳へ向く。戦闘の最中に見せた勇姿。そして今も、その瞳に紫は戻っていない。目撃した者たちの記憶に、英雄の姿は確かに刻まれていた。
「すぐに報告が上がるだろう」
レオンハルトが、静かに続けた。
「お前の名は、今夜だけで大きく変わる」
ルカリウスは、その言葉の意味を、まだ正確には理解していなかった。ただ、少し離れた場所で、セラフィオンに支えられながら立つローゼリアの姿だけが、今は何よりも気にかかっていた。
「団長」
「なんだ」
「王女殿下を、先に王宮へお送りしたい」
「ああ、構わん。だが」
レオンハルトが、少しだけ声を落とした。
「今夜のことは、すぐに広がる。良くも悪くもな」
その言葉の意味を、ルカリウスはまだ深く考えなかった。
◇◇◇
王宮への帰り道。
レオンハルトの用意した馬車にローゼリアとルカリウスは乗り込んだ。疲労でローゼリアの瞼は重くなっているようだった。
「……ルカ」
「なんだ」
「今夜のこと、覚えてる?」
「……必死だったからな」
正直な答えだった。魔物と斬り結んでいた記憶は鮮明にある。だが、視界が金色に染まった瞬間から、術式が発動するまでの間、感覚のいくつかが曖昧だった。
「お前が、無事でよかった」
それだけ言うと、ルカリウスはローゼリアの頭を、そっと自分の肩へ引き寄せた。
「……ありがとう」
寝言のような小さな声だった。もう半分眠りかけている。
ルカリウスは、しばらくその寝顔を見つめていた。
窓の外を、王都の灯りが流れていく。焼け跡の匂いは、まだ微かに残っていた。それでも、街はゆっくりと、いつもの静けさを取り戻し始めている。
(俺は、何を見た)
金色の瞳。四つ目の光。エリオの言った“四柱”という言葉。全部、意味が分からないままだった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
腕の中にあるこの温もりを、もう二度と、離すつもりはない。
その決意だけを胸に、ルカリウスは目を閉じた。
馬車は、静かに王宮へと向かっていく。
夜明けの空が、少しずつ白み始めていた。




