第80話 紫の月が満ちるとき
エリオの金色の瞳には、いつもの悪戯っぽさが残っていた。けれど、その奥にあるものは笑っていない。
ローゼリアは木箱の中へ視線を落とした。
「……これを、右耳に?」
「うん」
「何が起きるの?」
エリオは答えなかった。代わりに、セラフィオンが木箱の蓋を閉じた。
「いけません」
「これで魔物が封印できるのを、フィオも知ってるんでしょう?」
「だからこそ申し上げています」
いつもなら感情を乱さない男の声に、わずかな苛立ちが混じっていた。
セラフィオンは箱を握ったまま、エリオを睨む。
「古代の人間の王が、この耳飾りを右耳につけて封印を担ったことは、古い記録にも残っています。しかし、その力が人体へ何を及ぼすのかは分かっていない。ましてや王女殿下は今──」
言葉が途切れる。青い瞳が、一瞬だけ右手首へ落ちた。
「フィオ。私、つけてみるわ」
「王女殿下」
「ルカが戦ってるんでしょう?」
その名を口にすると、不思議なくらい迷いが消えた。
遠くでは、まだ鐘が鳴っている。その向こうでルカリウスが剣を振るっていると思うと、自分だけここで待っていることなどできなかった。
「お願い」
しばらく黙っていたセラフィオンが、諦めたように息を吐く。
「少しでも異変があれば、すぐに外してください」
「ええ」
「痛み、眩暈、動悸。どんな些細なものでもです」
「わかったわ。エリオが大丈夫って言う時は大丈夫なのよ」
「それを根拠にしないでください」
耳飾りを手に取る。ひやりと冷たかった紫の石は、右耳へ近づけた瞬間、微かな熱を帯びた。
「……あ」
ローゼリアは、そのまま耳飾りをつけた。紫色の光が弾ける。
「王女殿下!」
セラフィオンが咄嗟に腕を掴む。だが、痛みはない。耳飾りから流れ込んだ熱は首筋から胸へ、そして右腕へ落ちていき、術式に隠された薔薇の痣で止まった。じわりと熱を持つ。
「リア、痛い?」
「……ううん」
鼓動も乱れていない。それどころか、奇妙なほど身体に馴染んでいた。
「何ともないわ」
セラフィオンが息を呑む。
「……拒絶が、起きていない」
「拒絶?」
「やっぱり」
エリオが小さく呟いた。
「何が?」
「説明はあと。行こう」
「また“あと”なのね」
エリオは笑いながら立ち上がる。
「西門へ」
「西門?」
「封印の中心まで行かないと、始められないからね」
「エリオ王子殿下。王女殿下を戦場へ連れていくつもりですか」
エリオは窓の向こうを指差した。西の空が、先ほどより赤く燃えている。
「時間がないよ」
その一言に、セラフィオンの顎がわずかに強張った。
ローゼリアは立ち上がる。右耳で、紫色の石が揺れた。
「行きましょう」
扉を開けると、廊下に控えていた近衛騎士たちが一斉に姿勢を正した。
「王女殿下、どちらへ」
「西門よ」
騎士たちの表情が強張る。
「なりません。団長より、王女殿下を王女宮からお出ししないよう命じられております」
「僕も同行する。責任は僕が取るよ」
エリオが前へ出た。
「護衛はついてきていいけど、僕たちのすることの邪魔はしないでね」
近衛騎士は一瞬迷ったあと、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
「ミレイユはここにいて」
「リア様……」
「大丈夫。戻ってくるわ」
そう言って、ローゼリアは廊下を駆け出した。
◇◇◇
王宮を出ると、冷たい夜気と煙の匂いが押し寄せた。
宮殿前には騎士と馬が行き交い、住民たちは城下の東側へ避難を始めている。
三人は馬へ跨がり、近衛騎士たちを伴って西門へ向かった。
王宮から離れるほど、街の景色は変わっていく。閉ざされた家々。泣く子供。荷物を抱える老人。道端では兵士たちが避難を急かしていた。
未来でも、こんな王都を見たことはない。
(私が未来を変えたから──)
胸に浮かんだ言葉を、ローゼリアは飲み込んだ。エリオは違うと言った。ならば今は、それを信じる。
やがて魔物の咆哮が近くなり、馬が怯えて足を止めた。
「ここからは歩こう」
地面へ降りた瞬間、右耳の石が熱を持った。
「……っ」
門の向こうに何かがいる。見えなくても分かる。耳飾りの石が、脈打つように反応していた。
「反応していますね」
セラフィオンが耳飾りを見つめる。
その時、門の向こうから一体の魔物が飛び出した。
騎士が剣を構えるより早く、セラフィオンが前へ出る。
「下がってください」
懐から取り出した小さな包みを開く。中には、乾燥させた魚の鱗が入っていた。
「準備いいね、研究者さん」
「あなたが使うと言ったのでしょう」
鱗が石畳へ落ちる。セラフィオンの指先が空をなぞると、青白い文字が地面へ刻まれていった。円が重なり、その中心で魚の鱗が淡く光る。
「水に生きるものは、陸へは踏み込まない。古代では、その性質を境界の術式へ利用していました」
青白い光が地面を走った。飛びかかろうとしていた魔物が、突然足を止める。低く唸りながら、一歩後退した。
「すごい……」
「長くは持ちません。魔物の数が増えれば破られます」
「十分だよ」
エリオは懐中時計を開くと、術式の向こうへ目を凝らした。
「これでリアを、封印の中心まで連れていける」
「中心?」
聞き返した時だった。剣戟の音が響いた。続いて、魔物の断末魔が夜を裂いた。銀色の髪が、月光の下で翻る。
ローゼリアの呼吸が止まった。
「……ルカ」
血に濡れた剣を握り、魔物の群れの中に立っていた。銀の甲冑にはいくつもの傷が刻まれ、頬にも血がついている。それでも、その背は少しも折れていなかった。
そして。振り返った瞳を見た瞬間、ローゼリアは動けなくなった。
紫ではない。月光を溶かしたような、金色。
父と同じ。ルシエルと同じ。エリオと同じ。
「リア?」
ルカリウスの目が見開かれる。次の瞬間、その顔が険しくなった。
「なぜここにいる!」
「魔物を封印しに来たの」
「何を言って──」
ルカリウスの眉が寄る。その視線が、ローゼリアの右耳へ移った瞬間、動きが止まった。
「……その耳飾り」
ローゼリアは無意識に耳飾りへ触れた。紫色の石が、指先の下で微かに熱を帯びている。
「ルカ兄、この耳飾りが封印に必要なんだ。あとで説明するから!」
ルカリウスが何かを言おうとした瞬間、魔物の咆哮が響いた。セラフィオンの術式へ何体もの魔物が身体をぶつけ、青白い光が激しく揺れた。
「話している時間はありません!」
ルカリウスはそれ以上問い詰めなかった。
術式を越えた魔物へ向かい、剣を振るう。
一閃。黒い血が石畳へ散る。続く一体へ刃を返すと、これまで苦戦していた硬い皮膚が、嘘のように裂けた。
「リア!」
エリオに腕を引かれ、ローゼリアは術式の中心へ入った。
セラフィオンは術式を維持している。ルカリウスは次々と押し寄せる魔物を斬っている。エリオは開いたままの懐中時計を握りしめたまま、まっすぐ前を見ていた。
「エリオ、どうすればいいの?」
「まだだよ」
「でも……!」
青白い境界線に亀裂が入った。セラフィオンが息を呑む。
「エリオ王子殿下、長くは持ちません!」
「研究者さん、もう少し耐えて」
「エリオ!」
「まだ待って、リア」
魔物が一体、術式を越えた。ルカリウスの剣がその首を刎ねる。二体。三体。止まらない。
ルカリウスが傷ついていくのも、セラフィオンの術式が崩れていくのも怖かった。けれど何より苦しいのは、自分だけが何をすべきなのか分からないことだった。
エリオの腕を掴む指先に力が籠る。
「エリオ……!」
「僕を信じてって言ったでしょ」
その時だった。遠くで魔物を斬ったルカリウスが振り返った。金色の瞳と、ローゼリアの視線が重なる。
──ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。同時に。右耳の耳飾りの石が、眩い光を放った。
「……っ!」
ローゼリアの身体を、何かが駆け抜ける。右耳から胸へ。胸から右腕へ。薔薇の痣が焼けるように熱くなった。
それだけではない。自分のものではない鼓動が、胸の奥で鳴っている。ルカリウスの鼓動だと、なぜか分かった。一つ。もう一つ。二人の鼓動が重なっていく。
「これは……」
星詠みの盤に、三つの光が浮かぶ。ローゼリア。セラフィオン。エリオ。これまで何度も観測してきた、三点の円環。その外側に、新たな光が一つ灯る。
セラフィオンが息を呑んだ。
「……四つ目」
エリオの金の瞳が細くなる。
「やっと揃った」
──ローゼリアの右耳で、紫色の精霊石が眩く輝く。
──セラフィオンの足元では、青白い術式が脈打った。
──ルカリウスの剣へ、赤い光が集まっていく。
──エリオの懐中時計が、金色の光を放つ。
紫。青。赤。金。四つの光が、満月の下で繋がった。
エリオが、ゆっくりと笑った。
「四柱が──繋がったね」




