第78話 鐘の鳴る夜
王女宮の自室で、ローゼリアは窓辺に座っていた。
日が沈んでから、まだそれほど時間は経っていない。王都には夕餉を終えた人々の賑わいが残り、遠く城下の灯りが瞬いている。
東の空には、雲ひとつない夜空を満月が昇り始めていた。
「リア様、今夜は月が綺麗ですね」
「ええ」
ミレイユの言葉に答えながら、ローゼリアは右手首へ視線を落とした。術式で隠された薔薇の痣。今日も、誰にも気づかれずに済んだ。
(また三日後ね)
「お茶をお持ちしますね」
「ありがとう」
ミレイユが部屋を出ていく。
小さく息を吐いた、その時だった。遠く、王都の外壁の方角から、鐘の音が響いた。
一つ。二つ。三つ。
普段は聞かない音だった。等間隔に、重く、繰り返し打ち鳴らされる。
「……何?」
ローゼリアは立ち上がった。窓の外を見る。外壁の方角に、松明の灯りが幾つも動いているのが見えた。
「リア様!」
扉が勢いよく開く。戻ってきたミレイユの顔色が変わっていた。
「西の外壁に、魔物が現れたと」
「魔物……?」
ローゼリアの息が止まった。
「王都に……?」
北境の話ではない。ここは王都だ。魔物など、建国以来現れたことのない場所だった。
「詳しいことはまだ分かりません。ですが、王室騎士団が既に出動しているとのことです」
鐘の音は鳴り続けている。王宮全体が、にわかにざわめき始めていた。
◇◇◇
騎士団詰所には、既に緊迫した空気が満ちていた。
「西門付近で複数の魔物を確認! 数は不明!」
「守備隊が食い止めていますが、突破される時間の問題かと!」
「第一隊は西門へ!第二隊は住民の避難誘導、第三隊は王宮の警護を固めろ!」
王室騎士団、団長レオンハルトの号令が飛ぶ。騎士たちが一斉に動き出す中、ルカリウスも既に完全武装を終えていた。
「ルカリウス」
「はい」
「第一隊を率いて西門へ向かえ。守備隊と合流し、魔物を城内へ入れるな」
「御意」
「被害はまだ把握できていない。住民の避難を最優先にしろ」
レオンハルトも剣を取り、外套を翻した。
「俺は第二隊と城下へ出る。西門は任せる」
「はい」
ルカリウスは剣を腰へ差した。紫の瞳が、静かに冷えていく。
「第一隊、出るぞ」
「はっ!」
騎士たちを率い、ルカリウスは詰所を飛び出した。夜の王都を、馬で駆け抜けていく。
石畳を蹴る蹄の音。逃げ惑う人々の悲鳴。焼け落ちた屋台。西門へ近づくほど、その光景は酷くなっていった。
(なぜ、王都に)
北境の魔物が、ここまで来るはずがなかった。距離がありすぎる。それなのに、目の前には確かに、赤い角を持つ獣が牙を剥いていた。
「うわああっ!」
住民の悲鳴。ルカリウスは馬を降りると、剣を抜いた。
「ここは通さない」
魔物が振り返る。赤い瞳が、ルカリウスを捉えた。
一瞬、魔物が怯んだ。
(またか)
北境でもそうだった。あの時も、魔物は自分を見た瞬間、明らかに動きを止めた。
なぜなのか。考えるより先に、背後から住民の悲鳴が上がった。
「城壁と反対方向に散れ!」
ルカリウスは疑問を振り払い、剣を構えた。
◇◇◇
研究塔の窓からも、王都の異変は見えた。
セラフィオンは星詠みの盤の前に立っていた。盤面が、激しく脈打っている。今まで見たことのない揺れ方だった。
(これは──)
北境で観測したものと、同じ波形だった。
カシアンが魔物へ鏃を打ち込んだあの夜。あれを境に、均衡は確かに崩れ始めた。だが──。
(おかしい)
北境から王都までは遠すぎる。活性化した魔物が、偶然ここまで群れを成して辿り着くとは考えにくい。
セラフィオンは盤面へ指を滑らせた。
波形の奥に、もう一つの揺らぎがある。自然に広がったものではない。誰かが、導いている。
「……まさか」
昨夜見た過去の残響が蘇る。カシアンへ鏃を渡した、あの男。
(最初から、これが目的だったのか?)
「大公」
影の男が現れる。
「王都西門にて、魔物の襲撃を確認。数は現在も増加中とのことです」
「原因は」
「不明です。ただ──」
影の男が言葉を切った。
「北境の遺跡付近で観測された振動と、同じ波形が確認されています」
セラフィオンの指先が、盤へ触れる。
(封印が、本格的に崩れ始めている)
カシアンの刻印が、最初の亀裂を生んだ。だが今、その亀裂を意図的に広げている者がいる。
「ローゼリア王女殿下の安全を最優先に」
「既に護衛を増員しております」
「私も行く」
セラフィオンは星詠みの盤を懐へ収めた。
◇◇◇
西門付近は、既に戦場だった。
「左を抑えろ! 城内へ入れるな!」
ルカリウスの声に、第一隊の騎士たちが散開する。
「はっ!」
ルカリウスの剣が、月光を弾いて閃く。一体、また一体。魔物の首が宙を舞う。だが、数は減らない。むしろ増えているようにさえ見えた。
「くそっ……」
息が上がる。それでも止まらない。守るべきものが、この先にある。住民の避難はまだ完全ではなかった。
「子供が……!」
悲鳴が上がる。崩れた屋台の下に、小さな影が見えた。逃げる途中で親とはぐれたのだろう。その背後に、巨大な魔物が迫っていた。
「間に合わない──」
ルカリウスは駆けた。だが、距離が足りない。魔物の牙が、子供へ向かって振り下ろされる。
その瞬間。ルカリウスの中で、何かが弾けた。
胸の奥から、これまで感じたことのない熱が突き上げる。視界が歪む。両目の奥が、焼けるように熱い。剣を握る手に、異様な力が漲った。
(間に合え──)
祈るような一念とともに、ルカリウスは地を蹴った。
刹那、視界が銀の閃光で満たされる。剣が魔物の身体を両断した瞬間、周囲の空気が震えた。
──子供は、無傷だった。
ルカリウスは荒い息を吐きながら、剣を下ろす。周囲の魔物たちが、一斉に後退していた。
まるで、何かに怯えるように。
「……副団長」
近くにいた騎士が、呆然とした声を漏らした。
「その瞳は……」
「何を言ってる」
「ルカリウス副団長、あなたの瞳が──」
ルカリウスは眉を寄せる。何を言われているのか分からなかった。
だが、周囲の視線が、明らかに変わっていた。恐怖でも敬意でもない、もっと別の何か。
月明かりに照らされたその瞳に、誰もが息を呑んだ。
「金だ……」
その一言が、静まりかけた戦場に、静かに落ちた。




