第77話 功績という名の罠
研究塔。深夜。
セラフィオンは、北境から届いた古い報告書の束を、改めて広げていた。
『北境にて魔物の増殖を確認。大型種──赤い角を持つ個体を目撃』
数ヶ月前の報告書だった。ルカリウスが討伐へ向かう、直接のきっかけとなったあの報告。当時は単なる異常現象として処理された。だが今、星詠みの盤の記録と照らし合わせると、違う輪郭が見えてくる。
波形の乱れが最初に観測されたのは、その報告よりさらに前──ローゼリアとカシアンの婚約が、まだ継続していた頃だった。
(あの頃から、既に何かが始まっていた)
セラフィオンは目を閉じる。断片的な情報を、一つずつ辿っていく。
当時、カシアンは王宮と北境の本邸を頻繁に行き来していた。婚約者として王宮へ顔を出す一方で、北境では正体不明の組織と密かに接触していた。波形と残された記録を重ねるうちに、点が線になっていった。
星詠みの盤は、未来だけを映すものではない。強い感情や異常な力が生まれた場所には、時の波形が残る。盤はそれを辿ることで、過去の残響を映し出すことができる。感情が強いほど、その痕跡も鮮明になる。
青白い光が盤の上に広がる。波形が重なり、像を結ぶ。セラフィオンの瞼の裏側に、数ヶ月前の北境が浮かび上がった。
◇◇◇
──数ヶ月前。北境。ヴェルモント公爵家、本邸。
カシアンは自室の窓から、遠くの森を見つめていた。
「あの女は、俺のものになる」
王命による婚約。ローゼリアは、いずれ自分の妻になる。表向きはそう決まっている。それなのに、心は少しも満たされなかった。
婚約者として王宮を訪れるたび、目にするものがあった。ローゼリアの視線が、いつも同じ場所へ向かう。護衛騎士、ルカリウス・レヴァイン。
身分でいえば、比べるまでもない。子爵家の、それも婚外子。剣の腕だけで成り上がった男。自分とは、住む世界が違うはずだった。
それなのに。ローゼリアの瞳が、あの男を見る時だけ違う色をする。カシアンにはそれが分かってしまう。
「……不愉快だ」
婚約者は自分だ。王配として国を担うのは自分のはずだった。それなのに、あの女の心の中心にいるのは、いつだってあの騎士だった。
「私が欲しいのはお飾りの妻などではない」
心の底では分かっていた。ローゼリアを妻に迎えて満足するつもりなど、最初からなかった。欲しいのは、支配だった。彼女の全てを、自分だけのものにすること。視線も、心も、選択も。
だが、今のままでは無理だ。彼女の心は、既にあの男へ向いている。
そのためには、何か力が要る。ルカリウスなど比べ物にならないほどの、圧倒的な功績が。
執事が部屋へ入ってきた。
「カシアン様。ご命令の者を、お連れしました」
「通せ」
現れたのは、旅装の男だった。粗末な外套に、目深に被ったフード。北境の裏社会で顔が利くと噂の男だった。数日前、密かに接触の場を設けさせていた。
「ヴェルモント小公爵様」
男は薄く笑った。
「北境の魔物について、お聞きになりたいとか」
「単刀直入に言おう」
カシアンは椅子に座ったまま、男を見据えた。
「魔物を、意のままに動かす術はあるか」
男は愉快そうに目を細めた。
「なぜ、そのようなものを」
「知る必要はない」
「あるかないかだけ答えろ」
男はしばらく黙っていた。それから、懐から小さな革袋を取り出した。中には、黒く塗られた小さな鏃のようなものが数本。
「これを、魔物の体内へ打ち込むのです」
「打ち込めば操れるのか?」
「そう単純に操れるわけではありません。ですが、その魔物の動きを一時的に鈍らせ、誘導することはできます」
「本当に、それだけの効果か」
「それだけです」
男は静かに答えた。嘘をついているようには見えなかった。少なくとも、カシアンにはそう見えた。
「代償は」
「金貨千枚。それと」
男は笑みを深めた。
「北境守備隊の巡回情報を、少々いただければ」
カシアンは迷わなかった。
「構わない」
その一言で、取引は成立した。
(これで)
(あの男などより、遥かに大きな功績を立てる)
(そうすれば、ローゼリアの目は、いずれ自分だけを映すはずだ)
◇◇◇
数日後の夜。
森の奥、遺跡近くの茂みに身を潜めながら、カシアンは自ら鏃を握っていた。
護衛は連れていない。誰にも知られてはいけない取引だった。武功は、自分一人のものでなければ意味がない。
「……いたか」
霧の向こうに、赤い光が揺れた。魔物の目だった。狼に似た巨体が、静かにこちらへ近づいてくる。
心臓が、早鐘を打つ。恐怖ではない。高揚だった。
(これで、変わる)
魔物が、警戒するように足を止める。カシアンはゆっくりと、教えられた通りに鏃を投げた。
命中する。魔物の胸元に、黒い鏃が突き刺さった。
一瞬、獣の悲鳴が森を裂いた。それは苦痛の声というより──何かに怯えるような、切迫した声だった。
魔物の動きが、目に見えて鈍くなる。
「……効いている」
カシアンは小さく笑った。予定通りだった。これなら、魔物を統率する力を得られる。いずれ、王家にもその力を示せる。
だが、カシアンには見えなかった。鏃が魔物の胸へ突き刺さった瞬間、その身体を巡る異質な波動が、地の底へ落ちていった。一本だけだった。たった一本。それでも充分だった。
封印が繋ぎ止めていたのは、魔物そのものではない。世界の均衡だった。一体の魔物から流れ込んだ負の共鳴が、眠っていた群れへ波紋のように広がっていく。森の奥で、一つ。また一つ。赤い目が開いた。
カシアンは、一体の魔物を制御したつもりだった。実際には、その一体を通して森全体を目覚めさせていた。
魔物の動きが鈍ったのは、支配されたからではない。ただ、鏃の痛みに怯えていただけだった。そして、その痛みと恐怖の波動こそが──封印を最も強く揺らす、負の共鳴だった。
カシアンだけが、その事実に気づいていなかった。
◇◇◇
──それから、三ヶ月ほどが過ぎた。
北境。ローゼリアとの婚約を失い、処分を受けたカシアンの元へ、一通の報告が届いた。
『北境にて魔物の増殖を確認。大型種──赤い角を持つ個体を目撃』
「……なぜだ」
カシアンは報告書を握りしめた。
あの夜、術は確かに成功したはずだった。魔物は動きを鈍らせ、自分の意図した方向へ誘導することもできた。
それなのに、三ヶ月を経て届いた報告には、想定していなかった異変が記されていた。
「まさか、騙されたのか」
苛立ちが募る。だが、この事態を公にすることはできなかった。もし自分が魔物に接触していたことが露見すれば、全てが終わる。功績どころか、破滅だった。
だから、黙っていた。その沈黙の間にも、北境の被害は広がっていった。
やがて、王命が下る。北境討伐部隊の編成。ルカリウス・レヴァインが、東部隊の司令官に任命される。
その報せを聞いた時、カシアンの中に浮かんだのは、罪悪感ではなかった。
「あの男が、行くのか」
危険な地へ、あの騎士が向かう。もしかしたら、二度と戻らないかもしれない。
その可能性に、カシアンは──安堵していた。
自分が何を引き起こしたのか、まだ本当の意味では理解しないまま。
◇◇◇
研究塔。深夜。現在。
セラフィオンは目を開けた。
過去の残響が消え、観測室の静けさが戻る。断片だった記録が、ようやく一つの線になった。
婚約中の嫉妬から始まった、正体不明の男との取引。それが魔物の増殖を招き、ルカリウスの北境行きの直接的な原因となった。そして北境で、ルカリウスは自らの出自の欠片に触れることになった。
(あの時、王家が掴んだ“北境の組織との接触”……取引されていたのは、これだったのか)
皮肉だった。カシアンが蒔いた種が、巡り巡って、彼が最も憎むはずの男を──真実へと近づける結果を招いていた。
セラフィオンは星詠みの盤へ視線を落とす。波形は、その夜も、静かに荒れ続けていた。
(調べなければ)
カシアンは、最初から利用されていたのか。それとも──。
(あの組織は、なぜこんなものを持っていた)
窓の外では、月が静かに沈んでいこうとしていた。




