↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第3幕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

76/93

第76話 見知らぬ眼差し

研究塔を出ると、夕暮れの光が回廊を橙色に染めていた。


「リア様、お疲れではありませんか」


「平気よ」


ミレイユと並んで歩きながら、ローゼリアは小さく伸びをした。三日ごとの血の接種はもう身体に馴染んでいる。今日も、いつも通りだった。


(フィオったら、心配しすぎなのよ)


さっきのセラフィオンの警告を思い出す。


“カシアン・ヴェルモントには、気をつけてください”


真剣な声だった。でも、もう婚約者でもない男に、そこまで警戒する必要があるだろうか。カシアンとの関係は、もうとっくに終わっているのに。


回廊を曲がったところで、足が止まった。


「……あら」


柱の陰から、人影が現れる。


「お久しぶりです、ローゼリア王女殿下」


深く頭を下げたのは、カシアンだった。


穏やかな声だった。以前の傲慢さは、どこにもない。仕立ての良い上着に、落ち着いた身のこなし。処分を受けた男とは思えないほど、静かな佇まいだった。


「ヴェルモント小侯爵」


ローゼリアは足を止めたまま、ミレイユが一歩前へ出ようとするのを、目線で制した。


「王宮への出入りが許されたと聞いたわ」


「ええ。失った信頼を取り戻す機会を、陛下からいただきました」


言葉は丁寧で、態度も完璧だった。


(フィオが心配しすぎなのかもしれないわね)


そう思いかけた、その時。カシアンの視線が、動いた。


ローゼリアの顔ではない。首筋。それから、右手首。まるで、そこに何かを探すように。


(……何を見ているの?)


すぐに視線は戻った。気のせいだったのかもしれない。


「そう。では、私はこれで」


ローゼリアは歩き出そうとした。


「お待ちください」


カシアンの声に、足を止める。


「……まだ何か?」


「以前の私は」


不意に、カシアンが続けた。


「あなたを、王女としてしか見ていませんでした」


「……今さら何を言っているの?」


「今なら」


カシアンは少しだけ目を細めた。


「あなた自身を、見ることができる気がします」


その言葉に、ローゼリアは小さな違和感を覚えた。改心したように聞こえる。だが、何か理由の分からない引っかかりだった。


「あなたは以前より、人間らしくなった」


一瞬、空気が止まった。


「……どういう意味?」


ローゼリアの声が、わずかに硬くなる。


カシアン自身も、驚いたような顔をしていた。まるで、自分の口から出た言葉に戸惑っているように。


「……いえ」


慌てたように、笑みを取り繕う。


「表情が、柔らかくなったという意味です」


「そう……」


納得したわけではなかった。けれど、人間の方が吸血族より柔らかな印象を持つのは確かだ。そういう意味なら、おかしな言葉でもないのかもしれない。


(フィオの言った、波形の違いって……)


セラフィオンの言葉が、静かに蘇る。何かに突き動かされているような──。あの時は、ただ心配性だなと思っただけだった。なのに今は、目の前のカシアンに恐怖を覚えた。


カシアンが、ゆっくりと一歩近づく。


「……殿下」


「え?」


カシアンの手が、ローゼリアの右手首へ伸びる。


その瞬間だった。右手首が、じわりと熱を持った。隠された薔薇の痣。誰にも見えないはずのそれが、まるで警告するように熱を放つ。


「触らないで」


反射的に、手を引いた。自分でも驚くほど、強い声が出た。


カシアンの表情が、一瞬だけ変わった。怒りではない。もっと別の何か。飢えに似た、深い失望。だが、それはすぐに消えた。


「失礼しました」


穏やかな笑み。何事もなかったかのように。


ミレイユは気づいていなかった。ただ、ローゼリアだけが、その一瞬の表情を見てしまった。


「王女」


聞き慣れた低い声が、回廊に響いた。


振り返ると、ルカリウスが立っていた。黒い騎士団の制服。紫の瞳が、まっすぐこちらを見ている。


「お部屋へ戻る時間です」


表面上は、護衛としての言葉だった。だが、カシアンへ向けられた視線には、明らかな鋭さがあった。


「相変わらず……。随分と、大切に守られているようですね」


ルカリウスは答えなかった。ただ、視線だけがカシアンを射抜いていた。


カシアンの視線が、ふと落ちた。ルカリウスの小指。それから、ローゼリアの小指へ。何を思ったのか、カシアンは小さく息を吐いて笑った。


カシアンはそれ以上何も言わず、一礼して去っていく。その背中が回廊の角へ消えるまで、ルカリウスは動かなかった。


「……何を話していた」


「ただの挨拶よ」


「あの男と、二人で話すな」


ローゼリアは息を吐いた。


セラフィオンに言われたばかりの言葉が、今度はルカリウスの口から零れる。


「私を、子供扱いしすぎよ」


ルカリウスは何も答えなかった。ただ、少しだけ困ったような顔をした。


「……心配してるだけだ」


「知ってるわ」


分かっている。分かっているのに、その優しさが、時々息苦しかった。皆が、自分を守ろうとする。それなのに、誰も本当の理由は教えてくれない。


ローゼリアはそれ以上何も言わず、ルカリウスの隣を歩き出した。


夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。



◇◇◇



回廊の角を曲がった先で、カシアンは足を止めた。


誰もいない廊下。窓の外には、夕焼けが広がっている。


手のひらを、静かに見つめた。触れてもいないのに、まだ熱かった。


(なぜだ)


さっきの、あの一瞬。ローゼリアの右手首に触れようとした瞬間、確かに何かを感じた。彼女の中の、何か。以前とは違う何か。


薔薇の香りの奥に、以前にはなかった匂いが混じっていた。甘く、懐かしく、どうしても離せなくなる匂いだった。


(……人間らしくなった、だと?)


自分の口から出た言葉なのに、意味が分からなかった。なぜあんなことを言ったのか。考えるより先に、言葉が零れていた。


胸の奥で、知らない鼓動が鳴っていた。自分のものではない、誰かの鼓動。


カシアンは目を閉じる。頭の奥で、また何かが疼いた。赤い薔薇。紫の花弁。翡翠色の瞳。断片だけが、脈絡もなく浮かんでは消える。


「もうすぐだ」


気づけば、そう呟いていた。


何が“もうすぐ”なのか、自分でも分からなかった。それでも、確信だけがあった。何かが近づいている。何かが終わろうとしている。


窓の外を見る。夕陽が沈んでいく。その時だった。


窓辺に伸びた自分の影が、ほんの一瞬だけ、身体より遅れて動いた。


「……っ」


反射的に振り返る。だが、影は既に元の位置に戻っていた。何事もなかったかのように。


カシアンはしばらく、その影を見つめていた。


見間違いだ。そう自分に言い聞かせる。それでも胸の奥では、知らない鼓動が鳴り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。