第76話 見知らぬ眼差し
研究塔を出ると、夕暮れの光が回廊を橙色に染めていた。
「リア様、お疲れではありませんか」
「平気よ」
ミレイユと並んで歩きながら、ローゼリアは小さく伸びをした。三日ごとの血の接種はもう身体に馴染んでいる。今日も、いつも通りだった。
(フィオったら、心配しすぎなのよ)
さっきのセラフィオンの警告を思い出す。
“カシアン・ヴェルモントには、気をつけてください”
真剣な声だった。でも、もう婚約者でもない男に、そこまで警戒する必要があるだろうか。カシアンとの関係は、もうとっくに終わっているのに。
回廊を曲がったところで、足が止まった。
「……あら」
柱の陰から、人影が現れる。
「お久しぶりです、ローゼリア王女殿下」
深く頭を下げたのは、カシアンだった。
穏やかな声だった。以前の傲慢さは、どこにもない。仕立ての良い上着に、落ち着いた身のこなし。処分を受けた男とは思えないほど、静かな佇まいだった。
「ヴェルモント小侯爵」
ローゼリアは足を止めたまま、ミレイユが一歩前へ出ようとするのを、目線で制した。
「王宮への出入りが許されたと聞いたわ」
「ええ。失った信頼を取り戻す機会を、陛下からいただきました」
言葉は丁寧で、態度も完璧だった。
(フィオが心配しすぎなのかもしれないわね)
そう思いかけた、その時。カシアンの視線が、動いた。
ローゼリアの顔ではない。首筋。それから、右手首。まるで、そこに何かを探すように。
(……何を見ているの?)
すぐに視線は戻った。気のせいだったのかもしれない。
「そう。では、私はこれで」
ローゼリアは歩き出そうとした。
「お待ちください」
カシアンの声に、足を止める。
「……まだ何か?」
「以前の私は」
不意に、カシアンが続けた。
「あなたを、王女としてしか見ていませんでした」
「……今さら何を言っているの?」
「今なら」
カシアンは少しだけ目を細めた。
「あなた自身を、見ることができる気がします」
その言葉に、ローゼリアは小さな違和感を覚えた。改心したように聞こえる。だが、何か理由の分からない引っかかりだった。
「あなたは以前より、人間らしくなった」
一瞬、空気が止まった。
「……どういう意味?」
ローゼリアの声が、わずかに硬くなる。
カシアン自身も、驚いたような顔をしていた。まるで、自分の口から出た言葉に戸惑っているように。
「……いえ」
慌てたように、笑みを取り繕う。
「表情が、柔らかくなったという意味です」
「そう……」
納得したわけではなかった。けれど、人間の方が吸血族より柔らかな印象を持つのは確かだ。そういう意味なら、おかしな言葉でもないのかもしれない。
(フィオの言った、波形の違いって……)
セラフィオンの言葉が、静かに蘇る。何かに突き動かされているような──。あの時は、ただ心配性だなと思っただけだった。なのに今は、目の前のカシアンに恐怖を覚えた。
カシアンが、ゆっくりと一歩近づく。
「……殿下」
「え?」
カシアンの手が、ローゼリアの右手首へ伸びる。
その瞬間だった。右手首が、じわりと熱を持った。隠された薔薇の痣。誰にも見えないはずのそれが、まるで警告するように熱を放つ。
「触らないで」
反射的に、手を引いた。自分でも驚くほど、強い声が出た。
カシアンの表情が、一瞬だけ変わった。怒りではない。もっと別の何か。飢えに似た、深い失望。だが、それはすぐに消えた。
「失礼しました」
穏やかな笑み。何事もなかったかのように。
ミレイユは気づいていなかった。ただ、ローゼリアだけが、その一瞬の表情を見てしまった。
「王女」
聞き慣れた低い声が、回廊に響いた。
振り返ると、ルカリウスが立っていた。黒い騎士団の制服。紫の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「お部屋へ戻る時間です」
表面上は、護衛としての言葉だった。だが、カシアンへ向けられた視線には、明らかな鋭さがあった。
「相変わらず……。随分と、大切に守られているようですね」
ルカリウスは答えなかった。ただ、視線だけがカシアンを射抜いていた。
カシアンの視線が、ふと落ちた。ルカリウスの小指。それから、ローゼリアの小指へ。何を思ったのか、カシアンは小さく息を吐いて笑った。
カシアンはそれ以上何も言わず、一礼して去っていく。その背中が回廊の角へ消えるまで、ルカリウスは動かなかった。
「……何を話していた」
「ただの挨拶よ」
「あの男と、二人で話すな」
ローゼリアは息を吐いた。
セラフィオンに言われたばかりの言葉が、今度はルカリウスの口から零れる。
「私を、子供扱いしすぎよ」
ルカリウスは何も答えなかった。ただ、少しだけ困ったような顔をした。
「……心配してるだけだ」
「知ってるわ」
分かっている。分かっているのに、その優しさが、時々息苦しかった。皆が、自分を守ろうとする。それなのに、誰も本当の理由は教えてくれない。
ローゼリアはそれ以上何も言わず、ルカリウスの隣を歩き出した。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。
◇◇◇
回廊の角を曲がった先で、カシアンは足を止めた。
誰もいない廊下。窓の外には、夕焼けが広がっている。
手のひらを、静かに見つめた。触れてもいないのに、まだ熱かった。
(なぜだ)
さっきの、あの一瞬。ローゼリアの右手首に触れようとした瞬間、確かに何かを感じた。彼女の中の、何か。以前とは違う何か。
薔薇の香りの奥に、以前にはなかった匂いが混じっていた。甘く、懐かしく、どうしても離せなくなる匂いだった。
(……人間らしくなった、だと?)
自分の口から出た言葉なのに、意味が分からなかった。なぜあんなことを言ったのか。考えるより先に、言葉が零れていた。
胸の奥で、知らない鼓動が鳴っていた。自分のものではない、誰かの鼓動。
カシアンは目を閉じる。頭の奥で、また何かが疼いた。赤い薔薇。紫の花弁。翡翠色の瞳。断片だけが、脈絡もなく浮かんでは消える。
「もうすぐだ」
気づけば、そう呟いていた。
何が“もうすぐ”なのか、自分でも分からなかった。それでも、確信だけがあった。何かが近づいている。何かが終わろうとしている。
窓の外を見る。夕陽が沈んでいく。その時だった。
窓辺に伸びた自分の影が、ほんの一瞬だけ、身体より遅れて動いた。
「……っ」
反射的に振り返る。だが、影は既に元の位置に戻っていた。何事もなかったかのように。
カシアンはしばらく、その影を見つめていた。
見間違いだ。そう自分に言い聞かせる。それでも胸の奥では、知らない鼓動が鳴り続けていた。




