第75話 答えのない問い
三日ごとに、この時間が来る。
セラフィオンは観測室の扉が開く音を聞きながら、書類を伏せた。乾いたインクと古い紙の匂いに、ダマスクローズが混ざる。彼女が来ると、この部屋の匂いが甘くなる。
「手を」
差し出した指先へ、ローゼリアが自分の右手を重ねた。まずは脈を確認する。
もう慣れた動作だった。塔の入口までミレイユだけを連れてやってくる。誰にも知られないように。そういう約束になっている。
銀のナイフを指先へ当てる。赤い雫が滲んだ。ローゼリアが唇を寄せる。
牙はもう出ない。だから舐め取るだけだ。初めて牙が出なくなったあの日だけは、こうではなかった。
喉が動くのを、セラフィオンは黙って見ていた。この瞬間だけは、いつも視線の置き場に困る。
指先の温度が、少しずつ移っていく。彼女の頬に色が戻り、翡翠の瞳から曇りが消えていく。
生きている。今日も。それを確認するための、三日ごとの儀式だった。
「……ありがとう」
「まだです」
布で傷口を拭い、星詠みの盤を開く。
「手首を」
ローゼリアが素直に右手首を差し出す。術式陣が淡く浮かび上がり、青白い光が肌を包んだ。
薄い薔薇の輪郭が、少しずつ霞んでいく。花弁が滲み、色が薄れ、やがて何もなかったかのように消えた。
(また、濃くなっている)
隠す前の一瞬に、いつも確認してしまう。前回より確実に色が深い。花弁の輪郭も、はっきりしてきた。だが、それは口にしない。
「三日です」
「知ってるわ」
「三日経ったら、また来てください」
「はい、はい」
笑って手首を引っ込める。この軽さに、何度救われただろう。
盤を閉じ、紅茶を淹れ始める。この時間だけは、二人とも何も語らない。湯の沸く音と、窓の外の風の音だけが観測室を満たす。
カップを差し出すと、ローゼリアは両手で受け取って、そっと息を吐いた。
「……ねえ、フィオ」
「なんでしょう」
「フィオって、魚は食べられる?」
指先が、一瞬だけ止まった。
「魚、ですか」
「ええ」
ローゼリアはカップを包んだまま、窓の外を見ている。何気ない口調だった。ただの世間話をするみたいに。
「私は魚食べられないの」
「存じています」
「吸血族はみんなそうでしょう?」
「……そうですね」
「でも、フィオはどうかしら」
視線が合わさる。セラフィオンはすぐに答えなかった。
紅茶の湯気が、二人の間でゆらりと揺れる。この質問が、どこから来たのか。それを考える時間が、わずかに必要だった。
「私はアストラですから……食べられますね」
「そうなの?」
翡翠の瞳が、少しだけ丸くなっていた。
「古い先祖が星から来た血ですから。この世界の吸血族とは、身体の構造が少し違います」
「……私がフィオの血だけを受け入れるのもそういうことよね」
納得したように頷く。それから、ふと視線を落とした。
「ルカが魚を食べてたの」
その言葉に、指先が止まった。
「城下町に行った時。魚の塩焼きを、普通に食べてたわ」
まだ何気ない口調のままだった。
「子供の頃、お母様がお好きだったからって」
紅茶を一口飲む。カップを置く音が、静かな観測室に響いた。
「不思議よね。ルカはアストラじゃないのに」
セラフィオンは動かなかった。
(気づいている)
(──いや、違う)
彼女は気づいていない。ただ、不思議に思っただけだ。答えを求めているわけでもないだろう。
言葉にすれば、一秒で終わる。あなたが愛している男は、人間の血を引いている。母は人間の王家の末裔だった。だから魚が食べられる。だから王族性を受け入れることができた。だから──世界に選ばれてしまった。
全部、今この場で言える。
(いや、言えるはずが、ない)
「……珍しいですね」
「そうよね」
ローゼリアは何も疑わなかった。ただ小さく笑って、また紅茶へ口をつける。
「体質かしら」
「……かもしれません」
観測室に、わずかな沈黙が落ちた。
風が窓を叩く音がする。夕暮れが近づいているのか、光がゆっくりと傾き始めていた。
セラフィオンは自分のカップへ視線を落とす。この沈黙が不自然だと、彼女は気づいているだろうか。
(気づかないでほしい)
そう願う自分が、ひどく卑怯に思えた。
(そういえば……人間神話に魚は“月の加護”と書かれていた。だとしたら──)
「エリオ王子殿下にも食べられるか聞いてみては?」
「エリオ?ふふ。そうね」
ローゼリアはわずかに首を傾げながら笑った。
「リア」
「なあに?」
「カシアン・ヴェルモントには、気をつけてください」
ローゼリアの動きが止まった。
「……ヴェルモント小侯爵?」
「彼は王都に滞在しています。王宮への出入りも許可されました」
「知ってるわ。名誉を取り戻すために、お父様と交渉しているんでしょう」
「ええ」
「フィオが心配することかしら」
首を傾げる。その反応が、危うかった。
彼女にとってカシアンは、もう終わった相手だ。北境の組織と通じ、婚約は白紙になり、処分も下された。それだけの男。
そうではないことを知っているのは、セラフィオンとエリオとアストレイオン王だけだった。
「もう婚約者でもないのよ?」
「だからこそです」
自分の声が、わずかに硬くなるのが分かった。
「あの男の波形が、以前とは違います」
「波形?」
「盤に映る揺らぎです。通常の感情の起伏では説明がつかない。まるで──」
言葉を選ぶように、一拍置いた。
「何かに、突き動かされているような」
ローゼリアはしばらく黙っていた。それから、小さく笑う。
「フィオって、心配性ね」
「……そうかもしれません」
「大丈夫よ。私、そんなに弱くないわ」
その言葉に、何も返せなかった。
弱くないはずがなかった。牙はもう出ない。血はアストラのものしか受け付けない。倒れる頻度も増えている。三日ごとにこの部屋へ来なければ、今の状態を保つことすらできない身体で。それでも彼女は笑う。いつもそうだった。
「……一人では出歩かないでください」
「はい、はい」
「本気で言っています」
「分かってるわ」
ローゼリアが立ち上がる。その時、ふと視線が止まった。
「あら」
セラフィオンの胸ポケット。銀のクリップが、深い青の宝石を光らせている。
「使ってくれてるのね」
「……ええ」
「本に挟むんじゃなかったの?」
「勿体なくて」
ローゼリアは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「似合ってるわ。やっぱり、フィオの色ね」
セラフィオンは答えなかった。ただ、無意識に胸ポケットへ手が伸びていた。
「じゃあ、また三日後にね」
「ええ」
扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。観測室に、静けさが戻った。
セラフィオンはしばらく動かなかった。テーブルの上には、飲みかけの紅茶が二つ。片方だけが、まだ湯気を上げている。
“……珍しいですね”
自分が口にした言葉が、耳の奥で反響していた。
嘘ではない。だが、真実でもない。あの言い方をすれば、彼女はそれ以上追及しないと分かっていた。分かった上で、そう答えた。
そして、エリオも魚を食べられると知れば違和感は消えるだろう。
胸ポケットへ手を当てる。星蒼石が、微かに熱を持っていた。
(あなたは、あと一歩なのに)
魚。母親。田舎での生活。ルカリウスの血の異常。全部、彼女の目の前に並んでいる。あと一つ、誰かが線を引くだけで繋がってしまう。
それを引かせないために、自分は真実の一部だけを語った。
「……それでいい」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
星詠みの盤が、静かに揺れている。
その揺れは、以前より確実に大きくなっていた。




