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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第3幕

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第74話 消えそうな温もり

「ふふ」


寝台の縁に腰かけたまま、ローゼリアは手首を炎の明かりにかざしていた。


紫水晶が、蝋燭の火を受けて淡く輝く。角度を変えるたび、石の奥で色が揺れた。深い紫。ルカリウスの瞳と同じ色。


「まだ見てるのか」


「だって綺麗なんだもの」


ルカリウスが呆れたように笑う気配がした。ローゼリアは振り返らないまま、もう一度手首をかざす。


城下で買ってもらってから、毎日手首で輝いている。湯浴みの時だけ外して、すぐにまた着ける。ミレイユには気づかれているだろうが、優しい笑顔を向けられただけで何も言われなかった。


「気に入ったならいい」


「とっても気に入ってるわ」


満足するまで眺めて、ようやく振り返る。そこでローゼリアは目を丸くした。


「……何それ」


ルカリウスが銀の盆を抱えていた。その上に、果物が山のように積まれている。葡萄。無花果。桃。西洋梨。どれも艶やかに熟れていた。


「食え」


「え?」


「全部だ」


「そんなに沢山、無理よ!」


ルカリウスは構わず盆を寝台の上へ置くと、その隣へ腰を下ろす。


「痩せすぎだ」


「そんなことないわ」


「その服の下を知ってる俺に誤魔化せると思うのか」


言葉に詰まった。ローゼリアは恥ずかしくなって視線を逸らす。痩せた理由を、この人は知らない。知られてはいけない。


「……吸血族はそんなに沢山食べないわ」


「そうだな」


ルカリウスは葡萄をひと粒つまむと、ローゼリアの唇へ押し当てた。


「それでも食え」


「ちょっと」


「ほら、口開けろ」


「……子供じゃないのよ」


言いながらも、断れなかった。仕方なく口を開ける。


葡萄が舌の上で潰れた瞬間、ローゼリアは動きを止めた。


甘い。驚くほど、甘い。


以前なら、血以外の食事にこれほど強く味を感じることはなかった。食感や香りが好みの食べ物は勿論ある。けれど、吸血族にとって食事は“食べられる”ものであって、“美味しいから食べる”ものではない。


それなのに今、口の中に果汁の甘さがはっきりと広がっている。


(果物がこんなに美味しかったなんて)


胸の奥が、静かに冷えた。人間化が進んでいる。その証拠が、こんな形で現れるなんて。


「どうだ」


ルカリウスが覗き込んでくる。紫の瞳が、期待するようにこちらを見ていた。


ローゼリアは笑った。


「……美味しいわ」


嘘ではなかった。ただ、その理由だけが違った。


「そうか」


ルカリウスの表情が、わずかに緩む。それだけで、胸が締め付けられた。


この人は、ただ自分を心配している。原因を知らないまま、できることを探して、果物を山ほど抱えてきた。それが可笑しくて、愛おしくて、痛かった。


「もっと食え」


「そんなに入らないわ」


「食べろ」


無花果を割って差し出される。断る隙もない。


「……ルカ」


「なんだ」


「太らせてどうするの」


「その方が抱き心地がいい」


「最低ね」


笑いながら、それでも受け取ってしまう。ルカリウスの手から食べる果物は、なぜか全部甘かった。


やがて桃を手に取ったところで、ルカリウスの動きが止まった。


「……汁が垂れる」


「あ……」


ローゼリアの唇の端から、桃の果汁が一筋こぼれていた。拭おうとした手を、掴まれる。


「ルカ?」


答えの代わりに、唇が重なった。


「んっ……」


果汁ごと、舐め取られる。舌先が唇の端をなぞり、そのまま口内へ入り込んだ。桃の甘さと、ルカリウスの熱が混ざる。


「……その顔」


「え?」


「やっと戻った」


離れた唇が、そう囁いた。


「ん……んっ」


もう一度、深く重なる。今度は逃がさないように。首の後ろへ手が回され、引き寄せられた。


呼吸が乱れる。指先から力が抜けていく。


「んっ……ルカ、まだ果物が……」


「後でいい」


盆が寝台の端へ押しやられる音がした。次の瞬間には、背中が寝具へ沈んでいた。


見上げると、紫の瞳がすぐそこにあった。蝋燭の火を映して、揺れている。


「……食べさせてくれるんじゃなかったの?」


「食べたくなった」


ルカリウスの指先が、夜着の合わせへ触れる。ゆっくりと、確かめるように。


「ルカ……」


「痩せたな」


「……もう」


「本当に、どこも悪くないのか」


その問いに、ローゼリアは一瞬だけ答えられなかった。嘘をつくのは、慣れているはずだった。


「平気よ」


そう言って、自分から腕を回した。


「ルカが心配しすぎなの」


「……そうか」


信じたわけではないだろう。それでも、ルカリウスはそれ以上聞かなかった。代わりに、唇が首筋へ落ちる。


「……っ」


肌に触れた瞬間、身体の奥が熱を持った。


ルカリウスの手が、腰の輪郭をなぞっていく。壊れ物に触れるみたいに、丁寧に。それなのに、その丁寧さが余計に息を乱した。


「リア」


名前を呼ばれるたび、何かが溶けていく。


夜着がはだけていく。冷えた夜気が肌へ触れて、すぐに彼の体温がそれを上書きした。


「触れるたびに思う」


「お前が、消えそうで怖い」


ローゼリアの呼吸が、止まった。


(気づいて……いるの?)


いや。違う。この人はただ、感じているだけだ。理由も知らないまま、本能で。だからこそ、怖かった。


「……消えないわ」


嘘だった。それでも、そう答えるしかなかった。


「ここにいるでしょう」


指先を絡める。小指の薔薇が、微かに熱を持った。その熱を確かめるように、ルカリウスが強く握り返してくる。


「……ああ」


もう、言葉はなかった。


蝋燭の火が揺れる。影が重なり、ひとつになる。呼吸が混ざり、体温が溶け合っていく。


ローゼリアは目を閉じた。


今だけは。今この瞬間だけは、何も考えたくなかった。



◇◇◇



どれくらい経っただろう。


ルカリウスの寝息が、規則正しく聞こえていた。


ローゼリアはそっと身を起こす。腕が緩んだのを確かめてから、静かに寝台を抜け出した。


窓辺へ歩く。月明かりが、床へ白く落ちていた。


右手首を持ち上げる。


術式で隠された薔薇。何もないはずの、白い肌。それなのに──熱がある。


指先で触れると、皮膚の下で何かが脈打っているのが分かった。


(濃くなってる)


見えなくても、分かる。日ごとに、確実に。


ローゼリアは左手で右手首を包み込んだ。


(あと、半年もない)


窓の外を見上げる。月は、静かに空にあった。婚約の儀の日に戻ってきた月。何事もなかったかのように、また満ちようとしている。


背後で、寝返りを打つ音がした。ローゼリアは振り返る。


ルカリウスは眠っていた。無防備な寝顔。昼間の鋭さが、今はどこにもない。その姿を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。


(言えない)


(絶対に、言えない)


この人は、自分のために何度も命を懸けてきた。北境へ行き、魔物を斬り、傷を増やして帰ってきた。それでもまだ、私のために果物を山ほど抱えてくる。


そんな人に、余命の話などできるはずがなかった。


ローゼリアは静かに寝台へ戻る。ルカリウスの隣へ身を横たえ、その胸元へ額を寄せた。


鼓動が聞こえる。生きている音。


「……ルカ」


眠るルカリウスへ、そっと囁いた。


「ごめんね」


返事はない。ただ、無意識にだろうか。ルカリウスの腕が、ローゼリアの身体を引き寄せた。


その温もりの中で、ローゼリアは目を閉じる。


隠された薔薇だけが、月明かりの届かない場所で、静かに熱を持ち続けていた。

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