第74話 消えそうな温もり
「ふふ」
寝台の縁に腰かけたまま、ローゼリアは手首を炎の明かりにかざしていた。
紫水晶が、蝋燭の火を受けて淡く輝く。角度を変えるたび、石の奥で色が揺れた。深い紫。ルカリウスの瞳と同じ色。
「まだ見てるのか」
「だって綺麗なんだもの」
ルカリウスが呆れたように笑う気配がした。ローゼリアは振り返らないまま、もう一度手首をかざす。
城下で買ってもらってから、毎日手首で輝いている。湯浴みの時だけ外して、すぐにまた着ける。ミレイユには気づかれているだろうが、優しい笑顔を向けられただけで何も言われなかった。
「気に入ったならいい」
「とっても気に入ってるわ」
満足するまで眺めて、ようやく振り返る。そこでローゼリアは目を丸くした。
「……何それ」
ルカリウスが銀の盆を抱えていた。その上に、果物が山のように積まれている。葡萄。無花果。桃。西洋梨。どれも艶やかに熟れていた。
「食え」
「え?」
「全部だ」
「そんなに沢山、無理よ!」
ルカリウスは構わず盆を寝台の上へ置くと、その隣へ腰を下ろす。
「痩せすぎだ」
「そんなことないわ」
「その服の下を知ってる俺に誤魔化せると思うのか」
言葉に詰まった。ローゼリアは恥ずかしくなって視線を逸らす。痩せた理由を、この人は知らない。知られてはいけない。
「……吸血族はそんなに沢山食べないわ」
「そうだな」
ルカリウスは葡萄をひと粒つまむと、ローゼリアの唇へ押し当てた。
「それでも食え」
「ちょっと」
「ほら、口開けろ」
「……子供じゃないのよ」
言いながらも、断れなかった。仕方なく口を開ける。
葡萄が舌の上で潰れた瞬間、ローゼリアは動きを止めた。
甘い。驚くほど、甘い。
以前なら、血以外の食事にこれほど強く味を感じることはなかった。食感や香りが好みの食べ物は勿論ある。けれど、吸血族にとって食事は“食べられる”ものであって、“美味しいから食べる”ものではない。
それなのに今、口の中に果汁の甘さがはっきりと広がっている。
(果物がこんなに美味しかったなんて)
胸の奥が、静かに冷えた。人間化が進んでいる。その証拠が、こんな形で現れるなんて。
「どうだ」
ルカリウスが覗き込んでくる。紫の瞳が、期待するようにこちらを見ていた。
ローゼリアは笑った。
「……美味しいわ」
嘘ではなかった。ただ、その理由だけが違った。
「そうか」
ルカリウスの表情が、わずかに緩む。それだけで、胸が締め付けられた。
この人は、ただ自分を心配している。原因を知らないまま、できることを探して、果物を山ほど抱えてきた。それが可笑しくて、愛おしくて、痛かった。
「もっと食え」
「そんなに入らないわ」
「食べろ」
無花果を割って差し出される。断る隙もない。
「……ルカ」
「なんだ」
「太らせてどうするの」
「その方が抱き心地がいい」
「最低ね」
笑いながら、それでも受け取ってしまう。ルカリウスの手から食べる果物は、なぜか全部甘かった。
やがて桃を手に取ったところで、ルカリウスの動きが止まった。
「……汁が垂れる」
「あ……」
ローゼリアの唇の端から、桃の果汁が一筋こぼれていた。拭おうとした手を、掴まれる。
「ルカ?」
答えの代わりに、唇が重なった。
「んっ……」
果汁ごと、舐め取られる。舌先が唇の端をなぞり、そのまま口内へ入り込んだ。桃の甘さと、ルカリウスの熱が混ざる。
「……その顔」
「え?」
「やっと戻った」
離れた唇が、そう囁いた。
「ん……んっ」
もう一度、深く重なる。今度は逃がさないように。首の後ろへ手が回され、引き寄せられた。
呼吸が乱れる。指先から力が抜けていく。
「んっ……ルカ、まだ果物が……」
「後でいい」
盆が寝台の端へ押しやられる音がした。次の瞬間には、背中が寝具へ沈んでいた。
見上げると、紫の瞳がすぐそこにあった。蝋燭の火を映して、揺れている。
「……食べさせてくれるんじゃなかったの?」
「食べたくなった」
ルカリウスの指先が、夜着の合わせへ触れる。ゆっくりと、確かめるように。
「ルカ……」
「痩せたな」
「……もう」
「本当に、どこも悪くないのか」
その問いに、ローゼリアは一瞬だけ答えられなかった。嘘をつくのは、慣れているはずだった。
「平気よ」
そう言って、自分から腕を回した。
「ルカが心配しすぎなの」
「……そうか」
信じたわけではないだろう。それでも、ルカリウスはそれ以上聞かなかった。代わりに、唇が首筋へ落ちる。
「……っ」
肌に触れた瞬間、身体の奥が熱を持った。
ルカリウスの手が、腰の輪郭をなぞっていく。壊れ物に触れるみたいに、丁寧に。それなのに、その丁寧さが余計に息を乱した。
「リア」
名前を呼ばれるたび、何かが溶けていく。
夜着がはだけていく。冷えた夜気が肌へ触れて、すぐに彼の体温がそれを上書きした。
「触れるたびに思う」
「お前が、消えそうで怖い」
ローゼリアの呼吸が、止まった。
(気づいて……いるの?)
いや。違う。この人はただ、感じているだけだ。理由も知らないまま、本能で。だからこそ、怖かった。
「……消えないわ」
嘘だった。それでも、そう答えるしかなかった。
「ここにいるでしょう」
指先を絡める。小指の薔薇が、微かに熱を持った。その熱を確かめるように、ルカリウスが強く握り返してくる。
「……ああ」
もう、言葉はなかった。
蝋燭の火が揺れる。影が重なり、ひとつになる。呼吸が混ざり、体温が溶け合っていく。
ローゼリアは目を閉じた。
今だけは。今この瞬間だけは、何も考えたくなかった。
◇◇◇
どれくらい経っただろう。
ルカリウスの寝息が、規則正しく聞こえていた。
ローゼリアはそっと身を起こす。腕が緩んだのを確かめてから、静かに寝台を抜け出した。
窓辺へ歩く。月明かりが、床へ白く落ちていた。
右手首を持ち上げる。
術式で隠された薔薇。何もないはずの、白い肌。それなのに──熱がある。
指先で触れると、皮膚の下で何かが脈打っているのが分かった。
(濃くなってる)
見えなくても、分かる。日ごとに、確実に。
ローゼリアは左手で右手首を包み込んだ。
(あと、半年もない)
窓の外を見上げる。月は、静かに空にあった。婚約の儀の日に戻ってきた月。何事もなかったかのように、また満ちようとしている。
背後で、寝返りを打つ音がした。ローゼリアは振り返る。
ルカリウスは眠っていた。無防備な寝顔。昼間の鋭さが、今はどこにもない。その姿を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
(言えない)
(絶対に、言えない)
この人は、自分のために何度も命を懸けてきた。北境へ行き、魔物を斬り、傷を増やして帰ってきた。それでもまだ、私のために果物を山ほど抱えてくる。
そんな人に、余命の話などできるはずがなかった。
ローゼリアは静かに寝台へ戻る。ルカリウスの隣へ身を横たえ、その胸元へ額を寄せた。
鼓動が聞こえる。生きている音。
「……ルカ」
眠るルカリウスへ、そっと囁いた。
「ごめんね」
返事はない。ただ、無意識にだろうか。ルカリウスの腕が、ローゼリアの身体を引き寄せた。
その温もりの中で、ローゼリアは目を閉じる。
隠された薔薇だけが、月明かりの届かない場所で、静かに熱を持ち続けていた。




