第73話 言えない答え
研究塔の扉が叩かれたのは、夕暮れ時だった。
「大公」
セラフィオンは書類から顔を上げる。その声だけで、誰なのかはすぐに分かった。
「入ってください」
扉が開く。黒い騎士服のままのルカリウスが立っていた。任務帰りだろう。前髪が少し乱れている。
「耳飾りの件だ」
前置きはなかった。セラフィオンは静かに書類を伏せる。いずれ聞かれることは分かっていた。むしろ、今まで何も聞かれなかったことの方が不思議なくらいだった。
「どうぞ、座ってください」
「立ったままでいい」
ルカリウスは扉の前から動かない。紫の瞳がまっすぐこちらを見ている。警戒しているのではない。答えを待っている目だった。
「調査はどこまで進んだ」
セラフィオンは一拍置いた。
「……いくつか、分かったことがあります」
「聞かせろ」
窓の外で、夕陽が沈んでいく。観測室の壁に、二人の影が長く伸びていた。
「あなたの母上──エリシアが持っていた耳飾りは、北境の王墓から発見されたものと対になっています。それは既にご存知の通りです」
「それは知っている」
「あなたの母上が、建国以前の人間の王家に関わる血を引いていた可能性があります」
ルカリウスの表情は変わらない。だが、指先がわずかに動いた。
「可能性?」
「まだ、全ての記録が揃っていません」
「だが、お前は何か知っている」
セラフィオンは目を伏せた。
言えることと、言えないことがある。エリシア・ヴァルディア。人間の王家の末裔。その息子であるルカリウスが“受け皿”として封印を担う血を継いでいること。そして──二つの耳飾りが揃えば、彼の人生が世界のものになること。
全部、言葉にできる。今この場で。だが──
“ローゼリアには時間がない”
アストレイオン王の言葉が、脳裏で反響する。
真実を告げれば、ルカリウスは動く。北境へ戻るかもしれない。母の過去を追うかもしれない。封印について調べ始めるかもしれない。そのどれもが、ローゼリアの傍から彼を引き離す。
残された時間が、あまりにも短いのに。
「……これ以上は、まだ断定できません」
ルカリウスの目が、静かに細くなる。
「嘘だな」
セラフィオンは答えなかった。
「お前は、確証がないことを口にする男じゃない」
「……」
「知ってるんだろう」
一歩、ルカリウスが前へ出た。
「母が何者だったのか。俺が何なのか」
その言葉に、伏せていた書類へ置いた指先が、わずかに強張った。
(気づいている)
自分が何かを隠されていること。それだけではない。ルカリウス自身、既に何かを感じ取っている。北境の遺跡で覚えた懐かしさ。石碑に触れた時の脈動。母の牙を見たことがないという記憶。
全部が、彼の中で繋がりかけている。
「ですが、今ここで中途半端に告げれば、あなたを誤った場所へ導くことになる」
「だから黙っていろと?」
「少しだけ、待ってください」
「どれくらいだ」
その問いには、答えられなかった。
ローゼリアに残された時間を思えば、長く待たせることなどできない。けれど、真実を告げれば、彼は必ず動く。
「……確証を得るまでです」
「それはいつだ」
「分かりません」
ルカリウスの表情が冷える。
「都合のいい話だな」
「承知しています」
アストレイオン王の名を出すつもりはなかった。責任を分散させるのは、卑怯だと思った。
ルカリウスは長い間、黙っていた。やがて、その手がゆっくりと拳を作った。
「お前は……リアのことも、そうやって隠してるのか」
セラフィオンの呼吸が、一瞬止まった。
「……何のことでしょう」
「とぼけるな」
ルカリウスの声が、初めて熱を帯びた。
「リアの痩せ方がおかしい。俺が北境にいる間、何があった」
「王女殿下は、少し体調を崩されていただけです」
「そんな話は聞いてない」
靴音がやけに響いた。一歩、また近づく。
「何を隠してる」
セラフィオンは動かなかった。視線は逸らさない。
言えるはずがなかった。ローゼリアがルカリウスには“知られたくない”と頼んだから。術式で痣を隠したのも、彼女の望みだったから。
(彼女は、ルカリウスには知られたくないと言った)
(彼女の願いを、私が破るわけにはいかない)
「……何も、隠していません」
嘘の重さが、喉に沈んだ。
ルカリウスはしばらくセラフィオンを見つめていた。紫の瞳の奥で、何かが揺れている。怒りではない。もっと別の何か──不安に近い色だった。
「……そうか」
やがて、視線を外した。
「なら、いい」
背を向ける。扉に手をかけたところで、一度だけ止まった。
「セラフィオン」
初めて名前で呼ばれた。
「リアに何かあったら」
振り返らないまま、告げる。
「俺は、お前を許さない」
扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。セラフィオンはしばらく動けなかった。
窓の外では、夕陽が完全に沈んでいた。観測室に、夜が満ちていく。星詠みの盤だけが、机の上で静かに光っていた。
「……許さなくて、結構です」
誰もいない部屋に、そう零した。
胸ポケットの星蒼石を握る。いつもより熱を帯びた感触だけが、確かな答えだった。
(今は、リアだけを見ていればいい)
(だが──本当に、それでいいのか)
ルカリウスの最後の言葉が、消えなかった。
“リアに何かあったら、俺はお前を許さない”
もし、真実を告げていたら。もし、あの男が母の血を知っていたら。何かが変わっていたのだろうか。
セラフィオンは星詠みの盤へ視線を落とした。波形は、静かに脈打っている。
未来は、まだ定まっていない。
どの選択が、どの未来へ繋がるのか。もう観測者である自分にも見えなくなっていた。




