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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第3幕

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第72話 王女の休日

朝の柔らかな陽射しが、王城の回廊を照らしていた。磨かれた石床に光が伸び、柱の影が細く落ちている。窓から吹き込む初秋の風が、ローゼリアの赤い髪を揺らした。夏の終わりの、少しだけ乾いた風だった。


「リア」


後ろから聞き慣れた声がした。振り返ると、ルカリウスが歩いてくる。朝の光の中で、銀の髪が淡く輝いていた。


「ここにいたのか」


「少し庭を歩いていたの」


自然と二人は並んで歩き始めた。それだけで、周囲の空気が少しだけ甘くなる。歩幅が、いつの間にか合っている。


すれ違う侍女たちが小さく会釈をし、その後で声を潜める。


「またルカリウス卿と……」


「アストラ大公様と婚約したばかりなのに」


「護衛とはいえ、少し距離が近すぎるわ……」


聞こえないふりをしているだけで、二人の耳には届いていた。ローゼリアは歩調を崩さなかった。けれど、指先には、知らず力がこもっていた。


隣を歩いていたルカリウスが、ふいに足を止める。


「……リア」


「なあに? ルカ」


「たまには城から出るか」


ローゼリアは少しだけ困ったように笑った。


囁きから庇おうとしているのだろう。その不器用な優しさに気づかないふりをして、頷く。


「いいわね。久しぶりね」


ルカリウスは少し考え込む。そして、ぽつりと言った。


「城下へ行くか」


「城下町?」


「ああ。ここより静かだろう」


静かというより、誰も二人を知らない場所、という意味なのだろう。ローゼリアには、それが分かった。


「ふふっ。それ、デートのお誘い?」


「……そうなるのか?」


少し照れたように視線を逸らす姿に、ローゼリアは吹き出した。


「行く!」



◇◇◇



二人は簡単な変装だけをして王都へ降りた。


ルカリウスは黒い上着を羽織り、騎士団の紋章を隠している。ローゼリアも髪をまとめ、ドレスの上から深い黒色の外套を羽織った。フードの陰から覗く翡翠の瞳だけが、隠しきれずに輝いていた。


王都は今日も賑わっていた。焼きたてのパンの香り。果物を売る声。子どもたちの笑い声。石畳を行き交う足音が、絶え間なく響いている。


城の静けさとは、まるで違う世界だった。


「わぁ……」


思わず声が零れる。目に映るものすべてが珍しくて、自然と足取りまで軽くなった。


「甘い香り……見て、ルカ。林檎飴!」


「食べたいのか?」


「うん!」


迷いなく答えると、ルカリウスは呆れたように口元を緩めた。


「王女らしくないな」


「今日は違うもの。今日は普通の女の子でいたいわ」


ルカリウスは何も言わなかった。ただ、紫色の瞳が、ほんの一瞬だけ翳(かげ)った気がした。


ルカリウスは店主から林檎飴を受け取り、ローゼリアへ差し出す。飴の表面が、昼下がりの光を弾いて赤く輝いていた。


「ありがとう」


嬉しくなって、さっそく頬張る。城のことも、王女という立場も、今だけは遠く感じられた。


「香りがいいわ。こういう食べ物、見ているだけでも楽しいのね」


「そうだな」


そう言いながら、ルカリウスはローゼリアが手に持つ林檎飴にかじりついた。


「んもう」


頬を膨らませて睨むと、ルカリウスが小さく笑った。つられてローゼリアも笑う。二人の笑い声が、市場の喧騒へ溶けていった。


「人間の多く集まる場所は、いろいろな食べ物があるわね」


「そうだな」


「吸血族は、あまり多くのものを食べないから……」


物珍しさに誘われるまま、ローゼリアは露店を一つずつ覗き込んでいく。


その途中で、ふと足を止めた。


「あ、魚!城では見ないから珍しいわ」


「確かに、王都に戻ってきてからは食べてないな」


「え?ルカ、食べられるの?」


思わず目を丸くする。ルカリウスは、遠い記憶を辿るように目を細めた。


「子どもの頃……田舎で暮らしてた時。母が魚好きで、よく釣って帰って一緒に食べたな」


そう言って、ルカリウスは串に刺さった魚の塩焼きを買った。煙と塩の匂いが、ふわりと立ちのぼる。


懐かしそうに魚を頬張る横顔に、ローゼリアの知らない時間が滲んでいた。


「食べるか?」


「私は魚、食べられないから……」


「そうなのか?」


「美味しく感じないし、身体も受け付けないもの」


ルカリウスは少し考えるように魚へ視線を落とした。


「……父や兄も同じだったな。母だけは好きだったが」


わずかに首を傾げたあと、何事もなかったように、もう一口かじった。


魚は古代、ノクティスがまだ魔物だった時代に、魔物を封じる儀式にも使われていたという。吸血族が魚を受け付けないのは、その名残なのだと、ローゼリアも幼い頃から聞かされてきた。


それなのに、ルカリウスはなぜ食べられるのだろう。


(人間化している今の私なら、もしかしたら食べられるかもしれないけど……)


その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。ローゼリアは笑顔のまま、それを飲み込む。


魚を食べるルカリウスを、そっと見つめた。


(でも──ルカは、どうして?)


(……自分だけ違うことに、気づいていないのかしら)


問いは口には出さなかった。ただ、小さな棘のように胸へ残った。



◇◇◇



夕焼けが王都を茜色へ染めていた。石畳も、家々の壁も、行き交う人々も、みんな同じ色に染まっていく。


ふと一軒の露店の前で足を止めた。


紫水晶の小さな飾りがついたブレスレットが、夕陽を受けて美しく輝いている。


「綺麗……」


思わず見つめた。


(ルカの瞳みたい)


手に取ろうとして、そっと戻した。欲しいと口にすることが、なぜだか躊躇われた。


「どうした?」


隣から声をかけられ、ローゼリアは振り返る。


「ううん」


「なんでもないわ」


「そうか」


ルカリウスはそれ以上聞かなかった。けれど歩き出す直前、その視線が一瞬だけブレスレットへ向けられた。


夕暮れの街を、二人で並んで歩く。


手と手が自然に触れ合う。どちらからともなく、指を絡めた。王女でも、護衛騎士でもない。ただ、恋人として。


その先を、老夫婦がゆっくりと歩いていた。仲睦まじそうに手を繋ぎ、顔を見合わせて笑っている。皺の刻まれた手が、しっかりと繋がれていた。


「ああいう夫婦、素敵ね」


「そうだな」


「毎日少しずつ歳を重ねて。同じ景色を見て。そういう人生も、幸せなのかもしれないわ」


「幸せ、か。……俺には分からない」


ローゼリアは眉を下げて口元だけで微笑んだ。ルカリウスの傍にずっといたからこそ、その言葉が少しだけ寂しく聞こえた。


「吸血族は老いないから……老いるというのは、どういう気持ちなのかしら」


ルカリウスはしばらく黙っていた。老夫婦の背中を見つめながら、答えを探しているようだった。


「リアがおばあさんになっても、たぶん今と同じように隣を歩いてる」


「それ、私がおばあさんになる前提なのね」


「お前が聞いたんだろう」


思わず笑い声が零れた。けれど、その言葉が胸の奥へ刺さったことには、気づかせなかった。


老いていく未来を手に入れたとしても、その日まで生きられるとは限らない。


茜色の光が、二人の影を長く伸ばしていた。


「リア」


不意に腕を引かれる。


「え?」


振り向いた時には、細い手首に何かが触れていた。


先ほど見ていた、ルカリウスの瞳と同じ色をしたブレスレット。紫水晶が、夕陽を受けて淡く輝いている。


「ルカ……これ……」


ローゼリアはブレスレットへ触れ、それから嬉しさを隠しきれないままルカリウスを見上げた。


「ありがとう」


「ああ」


「この日を一生忘れないわ」


“一生”。口にした言葉の重さが、胸へ落ちていく。自分の一生が、どれほど短いかを知りながら。


「大袈裟だな」


照れ隠しのように視線を逸らす横顔が、たまらなく愛しく思えた。


ローゼリアは繋いだ手を離すと、そっと背伸びをした。


唇を、重ね合わせる。


茜色の光の中で、二人の影がひとつに溶けていく。その手首で、紫水晶が静かに揺れていた。

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