第72話 王女の休日
朝の柔らかな陽射しが、王城の回廊を照らしていた。磨かれた石床に光が伸び、柱の影が細く落ちている。窓から吹き込む初秋の風が、ローゼリアの赤い髪を揺らした。夏の終わりの、少しだけ乾いた風だった。
「リア」
後ろから聞き慣れた声がした。振り返ると、ルカリウスが歩いてくる。朝の光の中で、銀の髪が淡く輝いていた。
「ここにいたのか」
「少し庭を歩いていたの」
自然と二人は並んで歩き始めた。それだけで、周囲の空気が少しだけ甘くなる。歩幅が、いつの間にか合っている。
すれ違う侍女たちが小さく会釈をし、その後で声を潜める。
「またルカリウス卿と……」
「アストラ大公様と婚約したばかりなのに」
「護衛とはいえ、少し距離が近すぎるわ……」
聞こえないふりをしているだけで、二人の耳には届いていた。ローゼリアは歩調を崩さなかった。けれど、指先には、知らず力がこもっていた。
隣を歩いていたルカリウスが、ふいに足を止める。
「……リア」
「なあに? ルカ」
「たまには城から出るか」
ローゼリアは少しだけ困ったように笑った。
囁きから庇おうとしているのだろう。その不器用な優しさに気づかないふりをして、頷く。
「いいわね。久しぶりね」
ルカリウスは少し考え込む。そして、ぽつりと言った。
「城下へ行くか」
「城下町?」
「ああ。ここより静かだろう」
静かというより、誰も二人を知らない場所、という意味なのだろう。ローゼリアには、それが分かった。
「ふふっ。それ、デートのお誘い?」
「……そうなるのか?」
少し照れたように視線を逸らす姿に、ローゼリアは吹き出した。
「行く!」
◇◇◇
二人は簡単な変装だけをして王都へ降りた。
ルカリウスは黒い上着を羽織り、騎士団の紋章を隠している。ローゼリアも髪をまとめ、ドレスの上から深い黒色の外套を羽織った。フードの陰から覗く翡翠の瞳だけが、隠しきれずに輝いていた。
王都は今日も賑わっていた。焼きたてのパンの香り。果物を売る声。子どもたちの笑い声。石畳を行き交う足音が、絶え間なく響いている。
城の静けさとは、まるで違う世界だった。
「わぁ……」
思わず声が零れる。目に映るものすべてが珍しくて、自然と足取りまで軽くなった。
「甘い香り……見て、ルカ。林檎飴!」
「食べたいのか?」
「うん!」
迷いなく答えると、ルカリウスは呆れたように口元を緩めた。
「王女らしくないな」
「今日は違うもの。今日は普通の女の子でいたいわ」
ルカリウスは何も言わなかった。ただ、紫色の瞳が、ほんの一瞬だけ翳った気がした。
ルカリウスは店主から林檎飴を受け取り、ローゼリアへ差し出す。飴の表面が、昼下がりの光を弾いて赤く輝いていた。
「ありがとう」
嬉しくなって、さっそく頬張る。城のことも、王女という立場も、今だけは遠く感じられた。
「香りがいいわ。こういう食べ物、見ているだけでも楽しいのね」
「そうだな」
そう言いながら、ルカリウスはローゼリアが手に持つ林檎飴にかじりついた。
「んもう」
頬を膨らませて睨むと、ルカリウスが小さく笑った。つられてローゼリアも笑う。二人の笑い声が、市場の喧騒へ溶けていった。
「人間の多く集まる場所は、いろいろな食べ物があるわね」
「そうだな」
「吸血族は、あまり多くのものを食べないから……」
物珍しさに誘われるまま、ローゼリアは露店を一つずつ覗き込んでいく。
その途中で、ふと足を止めた。
「あ、魚!城では見ないから珍しいわ」
「確かに、王都に戻ってきてからは食べてないな」
「え?ルカ、食べられるの?」
思わず目を丸くする。ルカリウスは、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「子どもの頃……田舎で暮らしてた時。母が魚好きで、よく釣って帰って一緒に食べたな」
そう言って、ルカリウスは串に刺さった魚の塩焼きを買った。煙と塩の匂いが、ふわりと立ちのぼる。
懐かしそうに魚を頬張る横顔に、ローゼリアの知らない時間が滲んでいた。
「食べるか?」
「私は魚、食べられないから……」
「そうなのか?」
「美味しく感じないし、身体も受け付けないもの」
ルカリウスは少し考えるように魚へ視線を落とした。
「……父や兄も同じだったな。母だけは好きだったが」
わずかに首を傾げたあと、何事もなかったように、もう一口かじった。
魚は古代、ノクティスがまだ魔物だった時代に、魔物を封じる儀式にも使われていたという。吸血族が魚を受け付けないのは、その名残なのだと、ローゼリアも幼い頃から聞かされてきた。
それなのに、ルカリウスはなぜ食べられるのだろう。
(人間化している今の私なら、もしかしたら食べられるかもしれないけど……)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。ローゼリアは笑顔のまま、それを飲み込む。
魚を食べるルカリウスを、そっと見つめた。
(でも──ルカは、どうして?)
(……自分だけ違うことに、気づいていないのかしら)
問いは口には出さなかった。ただ、小さな棘のように胸へ残った。
◇◇◇
夕焼けが王都を茜色へ染めていた。石畳も、家々の壁も、行き交う人々も、みんな同じ色に染まっていく。
ふと一軒の露店の前で足を止めた。
紫水晶の小さな飾りがついたブレスレットが、夕陽を受けて美しく輝いている。
「綺麗……」
思わず見つめた。
(ルカの瞳みたい)
手に取ろうとして、そっと戻した。欲しいと口にすることが、なぜだか躊躇われた。
「どうした?」
隣から声をかけられ、ローゼリアは振り返る。
「ううん」
「なんでもないわ」
「そうか」
ルカリウスはそれ以上聞かなかった。けれど歩き出す直前、その視線が一瞬だけブレスレットへ向けられた。
夕暮れの街を、二人で並んで歩く。
手と手が自然に触れ合う。どちらからともなく、指を絡めた。王女でも、護衛騎士でもない。ただ、恋人として。
その先を、老夫婦がゆっくりと歩いていた。仲睦まじそうに手を繋ぎ、顔を見合わせて笑っている。皺の刻まれた手が、しっかりと繋がれていた。
「ああいう夫婦、素敵ね」
「そうだな」
「毎日少しずつ歳を重ねて。同じ景色を見て。そういう人生も、幸せなのかもしれないわ」
「幸せ、か。……俺には分からない」
ローゼリアは眉を下げて口元だけで微笑んだ。ルカリウスの傍にずっといたからこそ、その言葉が少しだけ寂しく聞こえた。
「吸血族は老いないから……老いるというのは、どういう気持ちなのかしら」
ルカリウスはしばらく黙っていた。老夫婦の背中を見つめながら、答えを探しているようだった。
「リアがおばあさんになっても、たぶん今と同じように隣を歩いてる」
「それ、私がおばあさんになる前提なのね」
「お前が聞いたんだろう」
思わず笑い声が零れた。けれど、その言葉が胸の奥へ刺さったことには、気づかせなかった。
老いていく未来を手に入れたとしても、その日まで生きられるとは限らない。
茜色の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
「リア」
不意に腕を引かれる。
「え?」
振り向いた時には、細い手首に何かが触れていた。
先ほど見ていた、ルカリウスの瞳と同じ色をしたブレスレット。紫水晶が、夕陽を受けて淡く輝いている。
「ルカ……これ……」
ローゼリアはブレスレットへ触れ、それから嬉しさを隠しきれないままルカリウスを見上げた。
「ありがとう」
「ああ」
「この日を一生忘れないわ」
“一生”。口にした言葉の重さが、胸へ落ちていく。自分の一生が、どれほど短いかを知りながら。
「大袈裟だな」
照れ隠しのように視線を逸らす横顔が、たまらなく愛しく思えた。
ローゼリアは繋いだ手を離すと、そっと背伸びをした。
唇を、重ね合わせる。
茜色の光の中で、二人の影がひとつに溶けていく。その手首で、紫水晶が静かに揺れていた。




