第68話 祝福と空白
「ねぇ、フィオ!目を閉じて」
いつものように血を与え、術式で右手首の痣を隠し終えた時だった。研究塔へ、夕暮れの風が吹き抜けていた。
「……何故ですか」
「いいから」
セラフィオンは一拍置いた。普段なら理由を求めるところだが、ローゼリアの声音がいつもと違った。有無を言わせない、けれど柔らかい声だった。
「……分かりました」
青い瞳が、静かに閉じられる。ローゼリアはセラフィオンの手を取った。指先が触れた瞬間、セラフィオンの呼吸がわずかに止まる。
「転ばないように引っ張るから」
「転ぶほど不器用ではありません」
「もう、黙って」
ローゼリアは笑いながら歩き出した。セラフィオンは目を閉じたまま、引かれるままに足を動かす。廊下を曲がる。階段を下りる。外の空気が頬に触れた。
夏の夜だった。湿った草の匂い。遠くで虫が鳴いている。
「もう少し」
「どこへ連れて行くつもりですか」
「もう少しって言ったでしょう」
やがて、足が止まった。
「いいわよ、開けて」
セラフィオンは目を開けた。
白い光が、視界に広がった。王城の奥にある温室だった。夏の夜風を取り込むよう設計されたその場所は、外よりもひんやりと涼しく、花々の甘い香りだけがゆるやかに漂っている。
「ここは……王族しか入れない場所では?」
「今日だけ、特別に許可をもらったのよ」
ローゼリアが隣で微笑んだ。
「お父様にどうしてもって頼んで」
その中央に、小さなテーブルが置かれていた。銀のティーセット。色とりどりの焼き菓子。大きなケーキ。そして、淡く赤い葡萄酒が注がれたワイングラスが人数分並んでいる。
「お誕生日おめでとう、研究者さん」
エリオが手を振った。懐中時計を指先でくるりと回しながら、にやりと笑っている。
ルカリウスが腕を組んだまま壁際に立っていた。表情は変わらないが、いつもより少し居心地が悪そうだった。
テーブルの傍ではミレイユが深く一礼する。
「準備が整っております、セラフィオン様」
セラフィオンは動けなかった。
「……誕生日」
「八月十二日でしょう」
ローゼリアが満面の笑みで赤いリボンの箱を差し出す。
「婚約の儀の書類に書いてあったから」
「……そんな部分を見ているとは思いませんでした」
「私とフィオって誕生日がちょうど半年違いなのね。二十四歳のお誕生日、おめでとう。フィオ」
ローゼリアは微笑んだ。セラフィオンは温室をゆっくりと見渡した。
「アストラでは、誕生日を祝うという習慣はありません」
「一度も?」
「はい。役目を継ぐ日として記録されるだけです」
ローゼリアの表情が曇る。
「じゃあ尚更よ」
そっと箱を押し付けた。
「生まれてきてくれた日なんだから」
その一言だけで、セラフィオンは何も言えなくなった。静かに箱を受け取る。胸の奥に、これまで知らなかった温度が、そっと灯る。
「……ありがとうございます」
その言葉が、思っていたより素直に出た。
「こっそり買いに行ったから、あとで一人で開けて」
ローゼリアは耳元に近づくと、小さな声で囁いた。
(外出は……これを買うためだったのか)
「ほらほら!今日は研究禁止!」
エリオが紅茶を注ぎながら笑う。
「研究者さんは今日くらい休憩しないと」
「エリオ王子殿下が言うと説得力ありませんね」
「失礼だなぁ」
笑い声が、温室へ響いた。
◇◇◇
テーブルを囲んで、しばらく経った。
ローゼリアはゆっくりと葡萄酒を口に運び、セラフィオンも勧められるまま静かにグラスを傾ける。エリオはいつものように紅茶を片手に楽しそうに話し続け、ルカリウスは相変わらず寡黙だったが、グラスだけは何度も空にしていた。
「ルカリウス様、お口に合いましたか」
ミレイユが新しい皿を差し出す。
「ああ」
短い返事だったが、ミレイユは満足そうに頷いた。
ローゼリアはセラフィオンの隣に座っていた。蝋燭の灯りが、薔薇の花弁を柔らかく照らしている。
「今まで誕生日を祝わないなんて……寂しくなかった?」
「寂しいとは思いませんでした。……その概念を持っていなかったので」
「今は?」
青い瞳がローゼリアを見た。
「……嬉しいものですね」
答えの途中で、ルカリウスが不意に口を開いた。
「そういえば。エリオの誕生日、七月だったよな」
エリオの手が、一瞬だけ止まった。
「……そうだっけ?」
「毎年盛大にやってただろ」
「うーん」
エリオは何事もなかったように紅茶を口へ運ぶ。
「……誕生日前には北境から戻って来た気がするが」
ルカリウスが怪訝そうな顔をする。
「あー、そんなこともあったっけ?」
「毎年あれだけ騒いでたのに、忘れるか?」
「忘れちゃうこともあるよ」
カチ。
懐中時計の音が響いた瞬間、ローゼリアの表情がわずかに強張った。七月という言葉に、何かを思い出そうとするように眉を寄せる。
隣でセラフィオンも静かに目を伏せた。星詠みの盤を持つ者だけが知る違和感。七月の波形が、不自然なほど静かだった。
「……エリオ」
ローゼリアが、思わずというように名前を呼ぶ。
「なあに?リア」
エリオはいつもと変わらない顔で振り返った。金の瞳が、穏やかに揺れている。
「……なんでもないわ」
ローゼリアは笑って誤魔化した。セラフィオンも、それ以上は口にしなかった。ルカリウスに聞かせるべき話ではない。
「まあ、僕も二十一歳になったからあと数ヶ月は同じ年だね」
「そうだな」
「ルカ兄の誕生日は二ヶ月後だね!」
「まあな」
ルカリウスはまだ釈然としない顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
エリオは懐中時計を指先でもてあそびながら、窓の外の月を見ている。セラフィオンは無意識に、懐の星詠みの盤へ触れた。
(七月の波形が、消えている)
それが何を意味するのか。セラフィオンには分かっていた。エリオは王になることを、時間の次元で拒絶している。
(どこまで見ているんだ、あなたは)
エリオが突然こちらを向いた。
「研究者さん。誕生日、どうだった?」
「……初めて、こういうものを知りました」
「気に入った?」
セラフィオンは温室を見回した。薔薇。月明かり。蝋燭の灯り。穏やかな笑い声。
「……はい」
その一言だけが、今夜の全てだった。
蝋燭の炎が、夏の夜風に揺れている。薔薇の香りが、温室に満ちていた。
セラフィオンは、目の前の光景を静かに見つめた。
ローゼリアの笑顔。静かにグラスを傾けるルカリウス。懐中時計を弄ぶエリオ。黙って皿を整えるミレイユ。この夜を、覚えておかなければならない。なぜか、そう思った。
その時だった。温室の扉が静かにノックされる。
ミレイユが扉へ向かい、小声で何かを聞いた。そして振り返る。その表情だけが、空気と違っていた。
「王女殿下」
「カシアン・ヴェルモント様が、陛下への謁見を申請されました」
温室の空気が、一瞬だけ変わった。
ローゼリアの指先が、グラスの上で止まる。ルカリウスの気配が鋭くなる。エリオだけが、懐中時計をくるりと回した。
「来ちゃったね」
エリオの声に、セラフィオンは一瞬だけ、赤いリボンの箱へ視線を落とした。今日という日を、もう少しだけ守っていたかった。だが静かに立ち上がる。
星詠みの盤が示した未来は、静かに動き始めていた。




