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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第2幕

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第67話 亀裂の予兆

北境から王都へ続く街道は、盛夏の陽光に満ちていた。


乾いた土の匂い。遠くに連なる山の稜線。揺れる草原。馬車の車輪が規則正しく石を叩く。カシアンは馬車の窓から外を見ていた。


王都へ向かう理由は明確だった。ヴェルモント家の立場を取り戻す。そのための交渉材料は揃っている。父の書庫から持ち出した資料。


エリシアという女。そして、その息子──ルカリウス・レヴァイン。吸血族と人間の間に生まれた、あり得ない存在。


(これだけあれば十分だ)


王は必ず耳を貸す。それだけを考えればいい。それだけのはずだった。ふいに胸の奥がざわつく。


理由は分からない。王都へ近付くにつれ、その違和感だけが少しずつ強くなっていく。


(……何だ)


馬車が大きく揺れた。指先が、膝の上で静かに動く。同時に、鋭い痛みが頭を貫く。カシアンは思わず額を押さえた。


そして視線を左手の薬指へと落とす。この指を見るたび、胸の奥がざわつく。


赤い薔薇。紫へ染まっていく花弁。


(……違う)


左手の薬指には何もない。


頭の奥で、誰かの悲鳴が響いた気がした。


翡翠色の瞳。そして──赤い雪。


「……誰だ」


映像は一瞬で消えた。呼吸だけが浅く残る。御者が振り返った。


「カシアン様?」


「……何でもない」


本当に何でもなかったのか、自分でも分からなかった。


(なぜだ)


自問する。何度目かも分からない問いだった。


婚約は白紙になった。王宮への出入りは制限された。北境の領地も一部を失った。それでも──ヴェルモント家は生きている。財力も、影響力も、まだ健在だ。


理性はそう告げている。なのに、胸の奥で何かが軋む。


(あの女を──)


消さなければ。


「……っ」


思考が、そこで止まる。


(今、何を考えた?)


カシアンは眉を寄せた。自分でも意味が分からなかった。


(おかしい)


幼い頃の父を思い出す。エリシア。その名前を母が口にするたび、父の顔は変わった。憎しみでも愛でもない、もっと歪んだ何か。あの表情の意味を、子供の頃は理解できなかった。


今なら、少しだけ分かるような気がした。


馬車が揺れる。カシアンは視線を窓から外して、膝の上の書類へ落とした。父の書庫から持ち出した資料だった。エリシアという女の記録。そしてその息子──ルカリウス・レヴァインへ繋がる糸。


(使える)


これがあれば王と交渉できる。失った立場も取り戻せる。


そうだ。自分が王都へ向かう理由は、それだけだ。


少なくとも、そう思っていた。



◇◇◇



王都に入ったのは、夕暮れ時だった。


石畳を打つ馬蹄の音。屋台の匂い。行き交う人々。北境とは違う、人間の密度がある。カシアンは馬車の中から王宮の尖塔を見上げた。


その時だった。街路を歩くひとつの人影が、視界に入った。


赤い髪。翡翠の瞳。見覚えのある後ろ姿だった。


(……ローゼリア)


名前を思い浮かべた瞬間だった。胸の奥で何かが、軋む。懐かしいような。憎いような。愛しいような。どれとも違う感情が、一度に押し寄せた。


侍女を連れて、王宮の外壁沿いを歩いている。距離がある。向こうはまだ気づいていない。カシアンは馬車の中から、ただその背を見ていた。


胸の奥で、何かが動いた。


手に入れたい。そうではない。消したい。そうでもない。ただ──触れてはいけないものを前にしたような息苦しさだけが、胸に残った。


(なぜだ)


また、同じ問いが浮かぶ。


ローゼリアの背が、人混みに消えていく。カシアンはその瞬間まで、視線を外せなかった。


馬車が動き出す。カシアンは膝の上の書類へ視線を戻した。指先が、資料の端を折り曲げる。


エリシア。ルカリウス・レヴァイン。吸血族と人間の混血。


これを王への交渉材料にする。それだけを考えていればいい。


(それだけを)


指先が、止まった。


折り曲げた資料の端に、小さな染みがついていた。赤い。自分の指先から滲んでいた。いつの間にか、爪が食い込んでいたらしい。


カシアンはしばらく血を見つめた。


何も分からない。何一つ理解できない。それでも指先だけは、小さく震えていた。


「……どうかしている」


そう呟いて資料を閉じた。



◇◇◇



王宮。セラフィオンの執務室。


「カシアン・ヴェルモントが王都に入りました」


影の男の声は平坦だった。


「時刻は?」


「日没前です」


「王宮への謁見申請は」


「明朝、正式に提出するものと思われます」


セラフィオンは星詠みの盤から視線を上げた。盤面の波形が、わずかに乱れている。カシアンが王都に入った直後から、微細な歪みが走っていた。


(やはり、ただの政治的な動きではない)


「彼が持っている情報は分かるか」


「北境の本邸から、相当量の資料を持ち出したようです。ヴェルモント当主の書庫から、との情報があります」


セラフィオンの指先が、机の上で静かに止まった。


ヴェルモント当主の書庫──ヴェルモント家が長年管理してきた文献。その中にエリシアに関する記録があることは、既に分かっていた。


(どこまで辿り着いている)


「ローゼリア王女殿下の動きは」


「本日、王宮外へ短時間出られています」


「珍しいな……。護衛は」


「護衛は最小限で、ルカリウス副団長は連れていないようです。内密な外出のようです」


「内密?」


(今の状況で外出など……彼女らしくない)


「調べますか」


セラフィオンは盤面へ視線を落とした。ローゼリアの波形は、穏やかだった。


「……いや、いい。戻った時刻だけ確認しておけ」


セラフィオンは立ち上がった。窓の外に、夜が深まっていく。月が出ている。戻ってきた月が、静かに王都を照らしていた。


カシアンがエリシアの情報を持っている。それを王への交渉材料にしようとしているなら、動きは読める。だが──それだけではない気がした。


盤面の波形が、また揺れた。


(この歪みは、情報の問題ではない)


セラフィオンは眉をわずかに寄せた。カシアンという男の波形を、以前に一度だけ観測したことがある。回帰前の婚約の儀の夜。あの時の波形と、今の波形は──似ていない。


魔力でもない。呪術でもない。もっと根源的な何かが、盤面を乱している。


(これは……感情ではない)


それはまるで──魂そのものに刻まれた傷が、疼いているようだった。


「カシアン・ヴェルモントの監視を強化しろ」


「御意」


影の男が消える。セラフィオンは盤面を見つめたまま、しばらく動かなかった。


ルカリウスは今夜、王宮にいる。ローゼリアも王宮にいる。カシアンは王都に入った。


三つの点が、同じ場所に集まり始めている。


(急ぐ必要がある)


何を急ぐのか、セラフィオンはまだ言葉にできなかった。ただ──盤面の波形だけが、静かに警告を発し続けていた。

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