第66話 観測者の夜
研究塔に戻ったのは、深夜を過ぎてからだった。
木箱を机へ置く。燭台に火を灯す。それだけの動作が、やけに重かった。
観測室の窓から、月が見えた。戻ってきた月。何事もなかったかのように、薄い夜空に浮かんでいる。セラフィオンはしばらくそれを見つめてから、視線を机へ落とした。
棚から文献を引き出す。アストラ家に代々伝わる記録。通常の書庫には収められていない、当主だけが閲覧できる写本だった。
頁を捲る。インクの匂い。乾いた紙の感触。
『三柱の均衡』
その見出しで手が止まった。
世界の均衡は三つの血によって保たれる。
『第一の柱──アストラ、観測する者。星を読み、均衡を測る』
『第二の柱──ノクティス、宿す者。王族性を血に刻み、次代へ繋ぐ』
『第三の柱──ルミナス、照らす者。月の道を示し、時の流れを見守る』
それぞれの家紋に引き継がれる固有アイテムの絵図もここに貼られていた。
そこで、記述が終わっていた。
三柱。アストラ、ノクティス、ルミナス。この国の建国を支えた三つの血統。セラフィオンが幼い頃から叩き込まれてきた均衡の理だった。
(……これで、全てのはずだった)
だが何かが引っかかる。石碑の文言が、脳裏に蘇る。『王は再び選ばれる』王族性を持たない者が、それでも均衡を担う可能性。三柱だけでは、説明がつかない。
(星詠みの盤、血印、懐中時計──三柱には必ず固有アイテムが存在する)
(ならば、この耳飾りも……)
セラフィオンは頁を進めた。次の見出しは『耳飾りの記録』だった。
そこには一枚の絵図が貼られていた。紫色の石を嵌めた銀細工。花にも見え、欠けた月にも見える意匠。木箱の中にある耳飾りと、全く同じ形だった。
しかし、絵図の下には何も書かれていない。説明も。記述も。ただ余白だけが、不自然なほど広く空いていた。
(なぜ空白なのか)
セラフィオンは余白を指先でなぞった。羊皮紙の繊維が微かに毛羽立っている。削り取られているわけではない。最初から、ここには何も書かれていなかった。
意図的な空白。書かれなかった何か。
セラフィオンは視線を上げた。机の上の木箱が、燭台の光を静かに受けている。
気づいたら、手が動いていた。
木箱の蓋を開ける。二つの耳飾りを、そっと取り出す。セラフィオンは二つの耳飾りを文献の傍へ並べた。同じ意匠が描かれている以上、何らかの反応が起きる可能性は否定できない。
しかし、燭台の火では何も起きない。
文献と耳飾りを持ち窓辺へ歩く。雲がゆっくりと流れた。戻った月が観測室へ白い光を落とす。
その光は机の上を滑り、まるで導かれるように二つ並んだ耳飾りだけを照らした。紫の石の奥で、何かが目覚めるように淡く脈打つ。銀細工が、ごくわずかに震えた。
──チリン。
次の瞬間だった。余白に、光の文字が浮かび上がった。燭台の炎が揺れていないのに、文字だけが揺れながら現れる。セラフィオンは息を止めた。
『第四の柱──ヴァルディア、全ての血を繋ぐ者。受け皿』
『失われし右が還る時、封印は補われる』
『ただし、受け皿の者がその役を担う意思を示さなければならない』
「……第四の柱、ヴァルディア……」
声が、思っていたより小さく落ちた。
(ヴァルディア……聞いたことがない。だが“ヴァル”という語幹だけは、王族性を示す古語と一致する)
三柱ではなかった。最初から、四つだった。ただ──耳飾りが揃うまで、誰にも見えなかっただけだ。
セラフィオンは耳飾りから視線を離せなかった。紫の石が、燭台の光を静かに跳ね返している。たった今まで、ただの遺物だと思っていた。アストラの文献に絵図だけが残された、出自不明の副葬品。それが鍵だった。
(受け皿の者)
脳裏に、一つの名前が浮かぶ。
ルカリウス・レヴァイン。
満月の契約の夜、ルカリウスに“あなたの血には説明のつかない部分がある”と言った。あの時はまだ仮説だった。
だが今は違う。エリシアがこの耳飾りを持っていた理由。アストレイオン王がエリシアを知っている理由。ヴェルモント家が彼女を囲い込もうとした理由。レヴァイン子爵が命懸けで連れ出した理由。吸血族と人間の間には子が生まれないとされているのに、ルカリウスが生まれた理由。
──全部が、ここへ繋がる。
セラフィオンは目を閉じた。
もし、この記述が真実なら。エリシアは、自分の出自を知っていた可能性がある。だから耳飾りを持っていたのかもしれない。そしてルカリウスへ伝えなかった理由も──。
(なぜ伝えなかった)
伝えれば、ルカリウスは運命に巻き込まれる。受け皿の血を引く者として、封印に組み込まれる。吸血族と人間の間に生まれた、あり得ないはずの存在として、世界に知られる。
母親として、それを望まなかったのかもしれない。悩んだまま、答えを出せないまま、死んでしまったのかもしれない。
(エリシアは、どこまで知っていたのか)
答えは永遠に返ってこない。
セラフィオンは目を開けた。浮かび上がった文字はまだそこにある。耳飾りが傍にある限り、消えないのかもしれない。
「意思を示さなければならない」
その言葉の重さを、セラフィオンはしばらく受け止めた。
(受け皿は分かった。だが……“意思を示す”とは、何を意味する)
(そして……右だけが封印に関わるということなのか?)
ルカリウスはまだ何も知らない。自分が受け皿の血を引いているとも。耳飾りが封印に関わるとも。母が何者だったかとも。
(今は、まだ。言えない)
第四の柱が存在する確証は得た。だが、封印を補う代償までは記されていない。ルカリウスが知った時、何を選ぶか。その答えが怖いわけではないが──。
(ただ──)
ローゼリアの右手首に広がる薔薇の痣が、脳裏に浮かぶ。日に日に濃くなる赤。人間化は止まらない。彼女の時間は、確実に削れている。
その間にルカリウスへ真実を告げれば、ルカリウスは迷う。迷っている時間は、ローゼリアにはない。
(今は、リアだけを見ていればいい)
それが今、自分にできる唯一のことだった。
セラフィオンは耳飾りを木箱へ戻した。文字が、ゆっくりと消えていく。余白だけが残る。まるで最初から、何もなかったかのように。
燭台の炎が揺れる。夜明けが近い。窓の外で、空の端がわずかに白み始めていた。
星詠みの盤を取り出す。盤面の波形が、静かに揺れている。
均衡は、まだ完全ではない。耳飾りは揃った。しかし受け皿はまだ眠っている。封印の補完には、もう一つの意思が必要だ。
(ルカリウス・レヴァイン)
その名を、セラフィオンは静かに心の中で呼んだ。
あなたが知る時が来る。その時が来た時、自分は何を言えるだろう。
「大公」
影のような声が、扉の向こうから落ちた。アストラ家直属の諜報員だった。
「入れ」
扉が開く。影の男は一枚の書類を差し出した。
「ヴェルモント家の動きに新たな進展がありました」
セラフィオンは書類を受け取る。視線が文字を追う。そして、一行で止まった。
「カシアン・ヴェルモントが、王都へ向かっています」
燭台の炎が、ふっと揺れた。




