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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第2幕

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第69話 王の沈黙

カシアン・ヴェルモントが謁見したのは、翌日の午後のことだった。


玉座の間ではない。アストレイオン王が自ら指定したのは、来客を極秘に迎えるための応接室だった。


窓から差し込む西日が、磨かれた石床を淡く照らしている。真紅の薔薇が一輪、窓辺の花瓶に活けられていた。アストレイオン王は椅子に腰掛けたまま、静かに紅茶へ口を付けた。


「久しいな、カシアン」


「陛下」


カシアンは膝をつき、頭を垂れる。その姿勢に以前の傲慢さはない。婚約破棄以降、ヴェルモント家が受けた打撃は決して小さくなかった。


「今日は何用だ」


アストレイオン王は穏やかだった。だが、その視線だけは相手を逃がさない。カシアンは静かに革鞄を開く。


「陛下へお見せしたい物があります」


机へ数冊の文献を置いた。古びた羊皮紙。ヴェルモント家当主だけが閲覧を許される書庫の写本だった。


アストレイオン王の瞳が、ほんのわずかに細められる。


「ヴェルモント公爵の書庫の資料か」


「はい」


カシアンは頷く。


「私はそこで、一人の女性について知りました」


一枚の紙を差し出す。そこには美しい女性の肖像。柔らかなミルクティー色の髪。静かな微笑み。


『エリシア』


その名が添えられていた。


部屋の空気が、静かに止まる。午後の光の中で、王は肖像を見つめたまま、何も言わない。その指先が、ほんの一瞬だけ止まった。


「そして」


カシアンは続けた。


「彼女には一人の息子がおりました」


もう一枚。そこに記された名。


『ルカリウス・レヴァイン』


「彼は吸血族と人間の間に生まれた混血です」


アストレイオン王は紙から視線を外さない。


「……続けろ」


静かな声だった。怒りも驚きもない。その静けさが、かえって異様だった。


「吸血族と人間の間には子は生まれない」


「それが、この国の常識です」


「しかし彼は存在している」


「この事実は、王家にとっても看過できない事態ではありませんか」


アストレイオン王はゆっくり息を吐いた。紅茶の湯気が、午後の光の中でゆらりと揺れた。


「それで。その情報と引き換えに、何を望む」


カシアンは迷わなかった。


「ヴェルモント家の名誉回復を──そして、ヴェルモント家を再び王家の盾としてお使いください」


アストレイオン王は静かに紅茶を置いた。


「なるほど」


文献を閉じる。その動作はあまりにも静かで、カシアンは思わず息を詰めた。


「資料は預かろう」


「……」


カシアンは瞬きをした。それだけだった。もっと驚くと思っていた。もっと問い質されると思っていた。それなのに王は、あまりにも冷静だった。


「陛下は……驚かれないのですね」


その問いに、アストレイオン王は初めてカシアンを正面から見た。


「驚く?」


静かな眼差し。金の瞳が、まっすぐカシアンを捉える。


「何に対してだ」


その一言だけで、カシアンの背筋が冷えた。


(知っていたのか)


アストレイオン王は、最初からすべてを知っていた。


「交渉については後日返答する」


「だが──朕に交換条件を持ち出すということは、お前にも答えてもらわねばならぬことがある」


「北境の魔物についてだ」


「……理解しておるな」


カシアンは息を飲んだ。


(まずい……)


「今日はもう下がれ」


「……御意」


カシアンは立ち上がる。一礼をし、応接室を後にした。扉が閉まる。静寂だけが残る。


西日が、少しずつ夕焼けに変わりゆく。王はしばらく文献を見つめていた。一冊の古びた書物に手が止まる。


(これは……)


「……エリシア」


その名だけが、誰もいない部屋へ落ちた。彼女は最後まで秘密を守り抜いた。それでも。運命は再び、その名を引きずり出した。


アストレイオン王は机の引き出しから、一枚の封書を取り出した。


「研究塔へ」


控えていた近衛騎士が一歩前へ出る。


「アストラ大公を、ただちにここへ」


「はっ」


騎士が部屋を出て行く。アストレイオン王は再び窓の外を見た。王都は今日も穏やかだった。だが、その静けさは長く続かない。


窓辺の真紅の薔薇が、風もないのに小さく揺れた。


「……動かねば」


低い独白だけが、誰にも届かず部屋へ落ちた。



◇◇◇



「陛下。お呼びでしょうか」


「座れ」


アストレイオン王は応接室でワインのグラスを静かに傾けていた。窓の外の光が月光へと、すっかり変わっていた。窓辺の花瓶には、いつの間にか白薔薇が一輪、静かに活けられていた。


「大公。お前も飲むか」


「……頂戴いたします」


セラフィオンは差し出されたグラスを受け取り、小さく口を付ける。


(陛下が酒を勧めるなど……珍しい)


しばらく沈黙だけが流れた。やがてアストレイオン王が静かに口を開く。


「カシアン・ヴェルモントが来た」


「存じております」


「何を持ってきたと思う」


「……ルカリウス・レヴァインの母、エリシアに関する記録でしょう」


アストレイオン王の手が止まる。グラスが、静かに机へ戻された。


「……流石だな」


「では聞こう」


王は真っ直ぐセラフィオンを見る。


「お前は今、どこまで知っている」


セラフィオンは短く息を整えた。


「エリシアが遺した耳飾りは、月光によって封印された文献を開く鍵でした」


「そこで第四の柱──ヴァルディアの存在を確認しております」


「受け皿となる血」


「そして、その血を継ぐ者がルカリウス・レヴァインであることも」


部屋が静まり返る。窓の外では夜風が木々を揺らしていた。


アストレイオン王は最後まで口を挟まなかった。やがて小さく頷く。


「……ヴァルディア。その名を知る者は、もう誰もいないと思っていた」


「エリシアの名は──エリシア・ヴァルディア」


セラフィオンはわずかに目を細めた。


(やはり)


王は静かにワインを揺らす。


「エリシアも、全てを知っていたわけではない」


「……私も同じだ」


「誰一人、真実の全貌には辿り着けなかった」


「だが、その真実はルカリウスの人生そのものを縛る」


「だから彼女は、最後まで秘密を守ることを選んだ」


「私も、エリシアの秘密を守ると約束した」


セラフィオンは静かに目を伏せる。


「……だから陛下は、今まで何も──」


「言えなかった」


王は短く答えた。その言葉の奥に、何年分もの時間が沈んでいた。セラフィオンはそれ以上問わなかった。


やがて王は、ふと思い出したように問い掛ける。


「教えてくれ」


「今、アストラは誰を王として観測している」


セラフィオンは一瞬だけ沈黙した。そして迷いなく答える。


「星は既に、次代の王を示しております」


王は静かに目を閉じた。


「そうか」


「もう世界は、王を選んだか」


その言葉だけが、重く部屋へ落ちる。王はゆっくりとグラスを置き、机の上に置かれていた一冊の古びた書物を静かに手に取った。


「これは……?」


「ヴェルモント家の文献に紛れていた」


「元はエリシアが受け継いだ、人間側の神話だ」


「朕も長らく失われたものと思っていた」


「……そんな貴重なものを、私に託していただけるのですか」


「動かねばならない時が来た」


「ここから先は、王命ではない」


セラフィオンが顔を上げる。


アストレイオン王の顔から、王としての威厳がわずかに薄れた。金の瞳の奥の疲労。それでも、揺れない眼差し。


「一人の父として頼む」


「ローゼリアを救ってくれ」


セラフィオンは静かに立ち上がる。


「……必ず」


少しだけ間を置いて続けた。


「ですが」


「ルカリウス・レヴァインにも、真実をお伝えすべきではありませんか」


王はゆっくり首を横へ振る。


「まだ早い」


そして、窓の外を見つめながら静かに呟いた。


「ローゼリアには時間がない。……もう、長くはない」


(……知っていたのか)


夜風が、再び木々を揺らした。白薔薇の淡い香りが、静かに部屋へ広がっていく。


「……あの子は、生まれた時から王女として生きてきた」


「だから、一人の娘として生きる時間を、取り戻してやりたい」


セラフィオンは何も答えなかった。


それは王命ではない。一人の父親の願いだった。

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