第64話 月下の紋章
騎士棟の、ルカリウスの私室。扉が閉まる音が静かに響いた。
ルカリウスはローゼリアをゆっくりと寝台へ下ろす。月光が窓から差し込み、黒い寝具の上へ淡く影を落としていた。
外套に包まれたままのローゼリアを見下ろし、ルカリウスは深く息を吐く。そして次の瞬間、その身体を強く抱き締めた。
「ルカ……?」
答えはない。ただ、肩口へ顔を埋める。ダマスクローズの香り。甘い体温。一ヶ月ぶりの温もり。ようやく帰ってきたのだと実感する。
「身体は……大丈夫なのか」
「もう平気よ」
「何が原因だったんだ?」
「体力不足だっただけよ」
「そんな倒れ方じゃなかった」
ローゼリアが視線を逸らす。
「ちゃんと治療したわ。……フィオにも診てもらったし」
その名を聞いて眉がわずかに動く。けれど今は嫉妬よりも別の感情が勝っていた。
「本当に平気なんだな」
「ええ」
ルカリウスはローゼリアを包んでいた外套へ手を掛けた。前より細くなったローゼリアの身体を見つめる。頬へ触れる。少し細くなった輪郭。以前より軽い身体。平気だと言われても信じられない。
「そうは見えない」
「ルカがいなかったからよ」
ローゼリアが少しだけ笑った。
「だからほんの少しだけ痩せただけよ」
その言葉に胸が締め付けられる。北境へ向かった朝。何も言わずに去った自分。離れている間も、この笑顔だけを思い出していた。
「……ルカ」
「なんだ」
「早く、噛んで」
甘えるようなその声に、理性が削られる。
「本当に……身体は大丈夫なのか」
ローゼリアはルカリウスの首に腕を回すと、自分の首筋に顔を引き寄せた。
「はやく」
ローゼリアの首筋には自分の噛み痕がうっすらと残っていた。消えていない。一ヶ月離れていたのに。まるで自分を待っていた証みたいに。その痕に指先が触れる。喉が鳴った。
「まだ残ってるのか」
もう我慢できなかった。そっと首筋へ唇を寄せる。残った痕をなぞるように舌先が触れ、そして牙を沈めた。
「んっ……」
血を吸われたまま、ローゼリアはルカリウスのボタンをゆっくり外していく。一つ、二つ。ルカリウスは牙を抜く。血が唇に残る。甘い。今夜は特に。一ヶ月ぶりだから甘い。──そういうことにしておきたかった。
「脱がすのが……勿体ないわね」
「似合ってるから……」
ローゼリアはボタンを三つ外したところで手を止め、ルカリウスの後ろに流した前髪に触れた。
「髪……だいぶ伸びたのね」
「北境の任務に追われていたからな」
銀髪を指先で梳く。祝宴のために後ろへ流された前髪。ローゼリアは少しだけ眉を寄せる。
「似合ってるけど……もうその髪型はしちゃだめよ」
ルカリウスが片眉を上げた。
「なんでだ」
「……顔がよく見えるから」
「それの何がだめなんだ?」
耳まで赤く染めながら、小さく呟く。
「他の人に見せないで」
「それは命令か?」
ついからかうような口調になる。
「……お願いよ」
ルカリウスは小さく息を吐いた。北境の魔物より厄介だ。そんな顔をされると勝てる気がしない。
「ずるいな」
呟くようにそう言って、そっと顎を掬う。唇を塞ぐように重ねた。ローゼリアの甘い熱が伝わってくる。息が重なる。
薄い布越しに浮かぶ細い腰の曲線。自分で脱がせておきながら、視線の置き場に困る。
「……ルカ?」
不安そうに名前を呼ばれる。それだけでもう無理だった。
「リア」
呼ぶ声が掠れる。ローゼリアの肩紐を掴んで止まる。
「今日は優しくするつもりだった」
「ルカになら何されても怖くないわ」
悪戯そうに微笑むその笑顔。その瞬間、最後の理性が途切れた。
肩紐を引き下ろす。もう一度唇を重ねた。今度は深く。舌をゆっくりと押し込んでいく。ローゼリアはそれに答えるように舌を絡めてきた。息が混ざる。甘くて熱い。
「……もう、無理だ」
「わたし……も」
ルカリウスの指先がゆっくりとローゼリアの身体をなぞっていく。確かめるように。一ヶ月ぶりに触れる輪郭を、もう一度覚え直すみたいに。ローゼリアの指先が残りのボタンを外していく。そして露わになった上半身の古い傷を指先でなぞる。
「新しい傷は……手だけなのね」
「ああ」
ローゼリアは古い傷にそっと唇を寄せた。
「無事でよかった」
小さな呟きが落ちる。そのまま、唇が身体中の傷を這うようになぞっていく。触れるたびに、息が止まりそうになる。
「それを言うのは俺の方だ」
額へ口づける。瞼へ。頬へ。首筋へ。鎖骨へ。ひとつずつ。失くしていないことを確かめるみたいに。ローゼリアの息が乱れるたびに、胸の奥で何かが締まった。
「──無事でよかった」
「あ……っ」
息が乱れる。ローゼリアの爪が背中に食い込む。細い腰を引き寄せ、深く沈んでいく。ダマスクローズとホワイトムスクが甘くほどけ、バニラが香る。体温が重なり、境界が曖昧になっていく。身体はすぐに思い出した。
「もう……離さない」
指先が絡み合う。同じ温度になるまで、何度でも。
ローゼリアの左手薬指には大きな青い薔薇。右手小指には小さな青い薔薇。そして右手小指にもう一つ並ぶ、自分が刻んだ小さな紫の薔薇。
契約。王族。婚約。王位継承。面倒なものばかりだ。守りたいものひとつ守るだけで、どうしてこんなにも遠回りをしなければならないのか。
ルカリウスはローゼリアの髪へ顔を埋めた。ダマスクローズの香りが胸を満たす。
「……どこにも行くな」
「どこにも行かないわ」
唇が重なる。月光の下で、互いの熱だけが確かだった。
◇◇◇
気づいたらまた夜になっていた。一ヶ月分を取り戻すように、何度も身体を繋いだ。婚約の儀を済ませた安心感に包まれたのか、厳重だったローゼリアの護衛体制も元の緩さを取り戻していた。
「あなたと部屋に籠ると時間の感覚がおかしくなるわ」
ルカリウスはその言葉に無言のまま笑った。
「ドレス……ミレイユに持って来てもらわないと着るものがないわ」
「とりあえず俺のを着ておけ」
「大きい……わ。けど、ルカの匂いがする」
ローゼリアは服を抱きしめるように羽織ると、匂いを吸い込んだ。その仕草がやけに可愛くて、ルカリウスは目を逸らした。
「あ、ルカ。お母様の肖像もう一度見せてほしい」
ルカリウスは机へ歩み寄ると、木箱を手に取り、ローゼリアに渡した。
「よく見ると……鼻筋と口元がルカそっくりね」
「そういえば同じことを言われたな」
「誰に?」
「北境で会った老婆にだ」
「え、北境にお母様の知り合いがいたの?」
「知り合いかは分からないが」
ルカリウスは眉を寄せる。
「……母を知っている口ぶりだった」
「ふーん?」
「この耳飾りもお母様から受け継いだもの?」
「ああ」
「綺麗……。アメジストに似てるけど、魔石なのかしら」
ローゼリアが耳飾りを月明かりへかざす。銀細工の奥で、何かが淡く光った気がした。
「……ルカ」
「どうした」
「これ」
ローゼリアの声が少しだけ固くなる。月明かりに照らされて、紋章が浮かび上がっていた。
「この紋章……」
それは北境で見た墓石に刻まれていた紋章だった。そして、その紋章を見た瞬間。ルカリウスは初めて、母の遺品に違和感を覚えた。
温もりの残る部屋に、静かな緊張だけが満ちた。




