第63話 月が還る夜
月明かりが静かに降り注いでいた。王宮の裏庭。誰も来ない古木の下。出会った時と変わらない場所。
ルカリウスは目の前に立つローゼリアを見つめていた。雫に濡れた翡翠の瞳。月夜に光るルビーのような髪。守りたいと思った日のままの色だった。
「……私も、会いたかったわ」
小さく返された声に胸の奥が軋む。今すぐ抱き締めたい。けれど手を伸ばせば壊してしまいそうで。代わりに一粒の涙を指でそっと拭った。本当にここにいるのか、確かめるように。
「……痩せたな」
「気のせいよ」
「俺が気づかないとでも?」
細くなった腰を軽く摘まむ。ローゼリアがむっとした顔になる。その表情に笑いそうになる。ようやく帰ってきたのだと実感した。
「ルカの方こそ」
ローゼリアが唇を尖らせる。
「無茶したでしょう」
「してない」
「嘘。傷が増えてるわ」
ローゼリアが手の甲の傷に触れながら、小さくため息を吐いた。薬指には青い薔薇が鮮明に咲いていた。それを見たくなくて指先から視線を逸らす。ローゼリアの細い指先が胸元をなぞった。
「……ここも」
指が止まる。布の下に残る古い傷。触れられるだけで身体が熱くなる。服の下の傷の位置まで知っているのは、目の前の王女だけだった。
「心配したのよ」
ただ寂しかったと伝わる声だった。その一言が胸に突き刺さった。伝言も置き手紙も何も残さなかった。何も残さず、一ヶ月も危険な場所へ行っていた。雲が月を隠し、辺りが暗くなる。
「悪かった」
ローゼリアが少し驚いたように目を丸くした。
「謝るの?」
「ああ」
「珍しいわね」
ローゼリアがくすりと笑う。
「お前には……弱いみたいだ」
素直にそう告げる。ローゼリアは何かを言いたそうな顔をしながら、視線を逸らした。その翡翠の瞳を覗き込んだ瞬間、唇が動いた。暗闇に視界が慣れてきたタイミングだった。
「令嬢に囲まれてたの……嫌だったわ」
(──ずるいな)
そんな顔をされると弱い。今日はローゼリアもやけに素直だ。口角が上がりそうになるのを必死に堪える。
「興味ない」
「……妬いたわ」
「お前以外に興味ない」
ローゼリアが固まる。夜風が吹き抜け、赤い髪が揺れる。風で覗いた耳が赤く染まっていた。
「……ばか」
「そうだな」
ルカリウスは小さく笑った。
その瞬間、月が雲間から姿を現した。白い光が庭へ降り注ぐ。
ルカリウスの視線が、ふとローゼリアのドレスへ落ちた。胸の奥がざらりと軋んだ。セラフィオンと対で揃えられた青いドレス。抱き合うくらい近い距離で腕を絡め、挨拶をする姿。祝宴で見た光景が鮮明に浮かぶ。
「お前こそ……夫婦みたいだった」
口から零れ落ちた瞬間、自分でも子供じみていると思った。けれど止まらなかった。
「その色。気に入らない」
「え?」
ローゼリアが瞬きをする。
「フィオと同じ色だから?」
否定しなかった。それが答えだった。
「子供みたいだわ」
ローゼリアは眉を下げて少し呆れたように笑った。けれどルカリウスは視線を逸らさない。
「そうだな」
そのまま視線がゆっくりとドレスをなぞる。
「だから脱げ」
「え──?」
ルカリウスの指が肩の留め具へ触れた。ゆっくりと外れる。銀糸を纏った布が肩から滑り落ちた。
「ちょ、ちょっと……!」
ローゼリアが慌てて胸元を押さえる。
「静かにしろ」
「静かにできるわけないでしょう!ルカ!こんなところで……」
ドレスは足元へ落ちた。ローゼリアの肌に残されたのは薄いスリップだけだった。夜露を纏った白薔薇みたいに。月光が白い肌を透かしている。胸元の柔らかな線も。細い肩の線も。薄い腰の曲線も。ルカリウスの喉が鳴った。
「や……」
ローゼリアが身を縮める。胸元を隠すように腕で覆った。
「こんな姿……恥ずかしいわ……」
その声さえ甘く響く。ルカリウスは胸元を隠すローゼリアの腕へ手を添える。けれど無理にその手を下ろしたりはしなかった。それでも月光は容赦なく白い肌を照らしていた。目の前のその姿から目を逸らせなかった。月光の中に立つローゼリアは、あまりにも綺麗だった。
「……反則だろ」
掠れた声が落ちる。ローゼリアが困ったように睨む。
ルカリウスは深く息を吐く。そして肩から黒い外套を外した。ふわりと夜風が揺らす。そのままローゼリアを外套で包み込むと、その上から強く抱きしめた。
「ルカ……?」
「俺以外には見せるな」
ローゼリアの呼吸が止まる。ルカリウスはそのまま額を寄せた。ほんの少し顔を下げれば唇が触れる距離。けれど止まったまま動けない。今触れれば、最後まで終われなくなる。
「……ルカ」
甘い声で名前を呼ばれる。それだけで理性が軋んだ。ルカリウスは目を閉じる。そして小さく息を吐いた。
「これ以上は……無理だ」
次の瞬間。ローゼリアの身体がふわりと浮く。
「きゃっ」
軽々と抱き上げる。逃がさないように腕に力が入る。
「ル、ルカ……!」
「行くぞ」
「どこへ?」
「……部屋だ。これ以上、お前を見てるだけなのは無理だ」
「……わた……しも」
ローゼリアは赤くなった頬を、ルカリウスの胸に埋め首に腕を回した。ルカリウスはそれ以上何も言わなかった。ただ抱く腕だけが強くなる。
月光を背に、ローゼリアを抱き上げたまま歩き出す。
もう二度と離すつもりはなかった。




