第62話 裏庭の約束
祝宴場は華やかな光と音楽に満ちていた。
金の燭台。磨き上げられた大理石。色とりどりのドレスを纏った貴族達。婚約を終えた王女と、その婚約者である大公へ、誰もが視線を向けていた。
祝宴のために着替えたドレスは、婚約の儀の白を基調とした装いとはまるで違っていた。夜空を溶かしたような深いアストラブルー。肩から胸元へ流れるように銀糸で星々が刺繍され、その間を縫うように小さな魔石が散りばめられている。歩くたび光を受けて瞬き、まるで夜空そのものを纏っているようだった。
隣を歩くセラフィオンもまた、同じ色を纏っていた。深い青の礼装。銀糸で描かれた星座。肩から裾へ流れるように配された星紋。胸元にはアストラ家の紋章を象った銀細工が輝いている。まるで夜空と、その中で最も明るく輝く星のように。二人が並ぶだけで、一対の意匠だと分かった。
「美男美女で本当にお似合いですわ」
「まるで運命で結ばれたお二人のよう」
そんな囁きが聞こえるたびに、ローゼリアは曖昧に微笑んだ。
「改めてお祝い申し上げます」
「ありがとう」
王女として。未来の大公妃として。完璧に。けれど胸の奥だけは落ち着かなかった。視線が何度も探してしまう。人混みの向こう。誰よりも見慣れた姿を。
広間の向こう側にはルカリウス。帰還した時の黒い軍服ではなかった。深い黒を基調とした礼装。肩には王室騎士団を示す銀の刺繍。胸元には勲章。少し長めの前髪が後ろに流されている。見慣れない装いなのに、不思議なくらい似合っていた。
帰還した英雄を一目見ようとする令嬢達がルカリウスを取り囲んでいた。不機嫌そうな顔をしているのに、誰一人離れようとはしない。燭台の光が銀髪に反射している。一ヶ月ぶりに帰ってきた姿だった。
目が合う。その瞬間だけ、心臓が大きく跳ねる。けれど次の瞬間には逸らされた。
「アストラ大公、ぜひ研究塔のお話を」
「北境の件について大公のお考えをお聞かせ願いたい」
高位貴族達が次々と集まり、セラフィオンを取り囲む。ローゼリアは邪魔にならないよう少し下がる。
その瞬間だった。不意に手首を掴まれた。
(──え?)
驚いて振り返る。銀色の髪が夜の灯りを反射した。
「ルカ」
答えはなかった。ただ、その手だけが強かった。逃がさないとでも言うように。セラフィオンは目尻を下げて微笑んだまま、掴まれた腕を見ても何も言わなかった。まるで最初から、その結末を知っていたかのように。
「ちょっ、待ちなさい!」
抗議する声も聞いていない。腕を掴んだまま、人混みを抜けていく。祝宴の光が遠ざかる。長い回廊を横切り、誰もいない通路へ。
やがて夜風の吹くバルコニーへ辿り着く。そこでようやく手が離された。
冷えた夜気が頬を撫でる。遠くから祝宴の音楽だけが漏れてくる。
「何を考えているの!」
ルカリウスは答えない。夜風が銀髪を揺らしていた。
「手紙も言付けもなく、一ヶ月も消えて……今さら何よ」
その言葉に答えないまま、低く息を吐く。ルカリウスの眉がわずかに動いた。
「随分仲が良さそうだったな」
「何がよ」
棘のある声音だった。胸の奥で何かが弾ける。気付けば言い返していた。
「あなたこそ。恋人のところへ行けばいいでしょう」
ルカリウスが固まる。
「……何?」
「もしかしたら、さっき囲まれていた中にいたのかしら」
「何の話だ?」
「見たの。女の人の肖像があったわ」
ローゼリアは視線を逸らした。
「あなたの部屋」
「勝手に入ったのか」
「だって……会えないから」
少しだけ声が弱くなる。
「あなたを少しでも……感じたかったんだもの」
顔が熱い。ルカリウスも一瞬だけ言葉を失っていた。
「綺麗な人だったわ」
「恋人がいたなんて知らなかったわ」
自分が言い出したのに、気づいたら涙が溢れそうになっていた。
「母だ」
「……え?」
「母親だ」
ローゼリアは涙ぐんだまま、思考が止まる。
「……そう」
消えたくなった。ルカリウスが珍しく肩を震わせる。笑っている。
「笑わないで」
「笑っていない」
絶対嘘だった。ルカリウスの指先が零れそうな涙を拭う。その仕草がやけに優しくて、余計に悔しかった。睨みつける。涙目のまま。
その時だった。夜風が吹く。二人は同時に空を見上げた。
月。薄い青を残した夜空の向こう。失われていたはずの月が、静かに浮かんでいた。
「え、月──?」
言葉が消える。戻るはずのなかった月。世界が少しだけ形を変え始めている。そんな予感だけが胸を過った。
「行くぞ」
「どこへ?」
「秘密の場所だ」
「え、ここから行くつもり?」
「ああ」
次の瞬間。身体がふわりと浮いた。当然のように抱き上げられる。
「え?ルカ!」
「ちょっと!ここ二階よ!」
「ちゃんと捕まってろ」
そう言うと、ルカリウスは躊躇なく手すりへ足を掛けた。
「ちょっと待っ──」
「きゃぁ!!」
風が吹く。景色が落ちる。銀髪の騎士は夜を駆けた。月光を切り裂くように。王宮の庭園へ。柔らかい芝へ着地する。抱きしめられたままの身体が震えていた。
「降ろして!」
「嫌だ」
「降ろしてってば!」
「離したくない」
その一言に胸が詰まる。怒っていたはずなのに。文句を言いたかったはずなのに。言葉が続かなかった。
ルカリウスは前を向いたまま歩き出す。まるで一ヶ月分の距離を埋めるように。
王宮の裏庭へ。誰も来ない場所。月光だけが照らしている。
一本の古い樹木。十一年前、双子の弟を失った少女と母を失った少年が出会った場所。
ルカリウスはようやくローゼリアを降ろした。足が芝に触れる。夜露が足首に触れて冷たい。
月明かりが静かに降り注ぐ。誰もいない。聞こえるのは風の音と、遠くから届く祝宴の音楽だけだった。
ローゼリアが何かを言おうと口を開く。けれど、その前に。ルカリウスの手が伸びた。頬に触れる。失くしていないことを確認するように。一ヶ月前と同じ温度を確かめるように。
紫の瞳が揺れていた。怒っているようにも。泣きそうにも見える。
「覚えてるか」
「……え?」
「不幸だろうが運命だろうが」
紫の瞳がまっすぐローゼリアを映す。
「全部斬るって言っただろ」
ローゼリアが息を呑む。十四歳の冬。この樹の下で聞いた言葉だった。
「だから」
額が触れそうな距離まで近づく。
「勝手に一人で泣くな」
その言葉を聞いた瞬間。堪えていた涙が、一粒だけ零れ落ちた。
「リア、会いたかった」
低く落ちた声に呼吸が止まる。その一言には離れていた全ての夜が詰まっていた。




