第61話 紫の花弁
──その印を見た瞬間、全てを理解した。
花弁の一枚だけが紫に染まっている。見間違いではない。婚約印は偽らない。古い文献にのみ記された王族婚約の秘儀。王族の血統を守るため、婚約の薔薇は花嫁となる者の純潔を映す。そして、その色が意味するものをセラフィオンは知っていた。
回帰前、婚約の薔薇を刻んだのは自分ではなく、カシアン・ヴェルモントだった。彼もまた、この印を見たはずだった。そして知った。ローゼリアが既にルカリウスと結ばれていたことを。
(──すでにもう選んでいたのか)
広場の端。整列した騎士達の中で、ルカリウスだけは祭壇から目を逸らさなかった。婚約印が刻まれた瞬間。その紫の瞳が、わずかに揺れる。気づいていない。気づくはずもない。今この瞬間、自分だけが見てしまったものに。
“ルカ兄は、君が思ってる死に方はしてないよ”
エリオの声が脳裏に蘇る。
(……そういうことか)
歓声が白薔薇広場を揺らしていた。民衆は婚約の成立を祝福し、貴族達は拍手を送る。白薔薇の花弁が風に舞う。その中心で、ローゼリアは薬指に咲いた青い薔薇を見つめていた。ただ綺麗だと笑っている。その笑顔を見た瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。
──血の匂い。崩れ落ちる銀髪。王都を染めた赤い雪。自分が握っていた毒矢。
ルカリウスを殺そうとした。それは消えない事実だ。王家の均衡を保つため。未来を守るため。そう信じていた。星詠みの盤で未来を先回りし、毒矢を構えた。
けれど、あの日。ルカリウスはローゼリアに向けられた矢で死んだ。自分なら彼女に矢など絶対に向けない。
ルカリウスが反逆者だと噂を広めたのもヴェルモント家の傘下の者だった。カシアンにとってルカリウスは邪魔だった。けれどカシアンが狙ったのはローゼリア。ルカリウスではなくローゼリアを殺そうとした。そして、ルカリウスは彼女を庇って死んだ。
(心を手に入れられないから、殺そうとしたのか)
自分だって彼女を手に入れたい。けれど、生きているだけで──。
ローゼリアは印の意味を知らない。そして、知らなくていい。
セラフィオンは静かに目を閉じた。星を詠むことには慣れていた。未来を知ることにも。けれど人の想いだけは、観測では届かない。
「……つらいものなのだな」
声にならないほど小さな呟きだった。
祭壇の下。銀髪の騎士が立っている。ルカリウスは何も知らない。婚約印の意味も。紫の花弁も。今、自分が辿り着いた真実も。ただ一人、ローゼリアだけを見ている。その視線は驚くほどまっすぐだった。迷いも計算もなく、少しだけ羨ましいと思った。
視線の先でエリオが笑っていた。懐中時計を指先で回しながら。唇だけが動く。
(お・か・え・り)
セラフィオンは少し呆れたように息を吐いた。いつもは何とも思わないエリオの軽さに、今は少しだけ救われた気がした。
だが、終わったわけではない。カシアンの執着は異常だった。北境の魔物の件も、まだ説明がつかない。繋がっていない点は多い。だからこそ──今はまだ動けない。
(今はまだ言えない)
ローゼリアにも。ルカリウスにも。そして──自分自身にも。
ふと胸騒ぎがした。セラフィオンは反射的に懐の星詠みの盤へ手を伸ばす。盤面の星々が揺れていた。あり得ない。婚約の儀程度で起こる変動ではない。
(……何だ?)
歓声はまだ続いている。白薔薇広場では誰も気づいていない。いや。エリオだけは知っていたはずだ。
視線を向けると、エリオは大きなあくびをひとつしてから、何でもないことのように空を指差した。
セラフィオンは眉を寄せる。そして、その先を見上げ言葉を失った。
空に月があった。ずっと失われていたはずの月。夜空から消えたまま、誰も見上げなくなった月。
それが今。何事もなかったかのように、薄い青空の中へ浮かんでいる。
(……なぜだ)
星詠みの盤がかすかに震える。月が消えたのは一時的なものだ。だが、まだ戻るはずではなかった。
(婚約の儀が引き金になったのか)
「フィオ、行きましょう」
腕を引かれた。振り返ると、ローゼリアが不思議そうにこちらを見ている。
「この後は祝宴場でしたね」
何も知らない笑顔。セラフィオンは一瞬だけ空を見上げる。そこには変わらず月が浮かんでいた。
──何かが、長い眠りから目を覚ましたようだった。




