第60話 白薔薇の朝
婚約の儀の朝。中央神殿前の白薔薇広場は、早朝から祝福の気配に包まれていた。
神殿へ続く白い大階段。その先には、天を突くような巨大な神殿が建っていた。広場を囲むように咲く白薔薇。王族席。主要貴族席。その外側には、婚約の儀を見届けようと集まった大勢の民衆。白い石畳の広場は、すでに人々の熱気で満たされていた。朝の光が白薔薇の花弁に落ち、広場全体が淡く輝いている。
祭壇の最上段ではアストレイオン王が静かに見守っていた。その隣には王妃の姿もある。ルシエルを失ってから、公の場へ姿を見せることはほとんどなかった。それでも今日はここにいる。王妃は涙を堪えるように微笑みながら、ローゼリアを見つめていた。
(お母様……)
神殿前に設けられた祭壇へ向かいながら、ローゼリアはゆっくりと歩く。微笑みながらも、視線は落ち着かない。広場へ続く大通りへ。人混みの向こうへ。無意識にルカリウスを探してしまう。そのたびに胸が騒ぐ。
今日のために急ぎ仕立てられた、白を基調としたアストラブルーのドレス。王族を示す金糸の刺繍。胸元には白薔薇を象った装飾。腰から裾へ流れるように咲く薔薇模様。裾へ向かうほど白は淡い青へ溶けていき、まるで白薔薇の庭園が夜明けの水を吸い上げたような意匠だった。
「よくお似合いです」
隣から落ち着いた声が響く。セラフィオンだった。白を基調とした礼装に深いアストラブルーの差し色。肩にはアストラ家を示す銀糸の刺繍。胸元には、ローゼリアのドレスと同じ白薔薇の紋様が控えめに刻まれている。そして襟元には夜空を閉じ込めたような青い宝石。ローゼリアの首元にも同じ色の石が輝いていた。誰が見ても対だと分かる婚約者の装いだった。
「フィオも素敵よ」
セラフィオンの腕にそっと手を添える。ふわっと香るジュニパーベリーの香りに、昨夜のことが鮮明に蘇る。温かな腕。優しい声。唇から零れた血。
“白薔薇の庭園の……私の王子様”
自分が何を口にしたのか。朝になって思い出すと顔が熱くなる。ちらりと隣を見る。セラフィオンは何も言わず、いつも通りの態度だった。聞こえていなかったのだろうか。けれど、隣に並ぶその姿は完璧な白薔薇の王子様そのものだった。朝の光がその黒髪を淡く縁取り、青い瞳が静かに前を見つめている。
「リア、どうかしましたか?」
「な、何でもないわ」
慌てて首を振る。セラフィオンは小さく微笑んだだけだった。
「リアー!」
元気な声が響く。エリオが大きく手を振る。
「声が大きいわ」
「だって退屈なんだもん」
「まだ始まってもいないでしょう」
「だからだよ」
エリオは楽しそうに笑う。懐中時計を開く。針を確かめるように。カチ、と小さな音が朝の空気に溶けた。
「もうすぐだね」
「何が?」
「全部」
意味深な返事に、ローゼリアは瞬きをした。
「まもなく婚約の儀を執り行います」
神官の声が白薔薇広場に響く。その時だった。
王都中に響き渡るラッパの音。広場がざわめく。民衆が一斉に振り返った。
「王室騎士団だ!」
「北境から戻ったぞ!」
白い石畳を馬蹄が鳴らす。王室騎士団の旗。黒い軍服。銀の鎧。歓声が波のように広場を揺らした。
先頭を駆けるのは団長レオンハルト。そして、そのすぐ後ろ。銀色の髪が陽光を反射した。誰よりも見慣れた姿。誰よりも会いたかった人。ローゼリアの呼吸が止まる。胸が大きく跳ねた。
「……ルカ」
気付けば名前が零れていた。届くはずもない距離だった。
ルカリウスは顔を上げた。まっすぐ。迷いなく。大勢の貴族の向こうから、ローゼリアだけを見つけ出す。
翡翠と紫。視線が重なった。ルカリウスの表情が崩れる。安堵したように。泣きそうなほど優しく。生きていてよかったとでも言うように。
けれど次の瞬間には消えた。騎士の顔へ戻る。それでもローゼリアは見逃さなかった。胸が熱くなる。会いたかった。たったそれだけで、泣きそうになるほど。
隣で、セラフィオンの気配がかすかに変わった気がした。何も言わない。ただ、視線だけが少し遠くなった。
「それでは婚約の儀を執り行います」
「ローゼリア・ヴァル・ノクティス。セラフィオン・ヴァル・アストラ」
神官の声に歓声が沸き起こる。二つのヴァルの名が重なる。その重みが、朝の空気に静かに沈んだ。
ローゼリアは一歩前へ出る。隣にはセラフィオン。白と青。二人の衣装は対になるように仕立てられていた。
広場の端では騎士達が整列している。その中でも、銀髪の騎士だけが嫌というほど目に入った。会えた。それだけで胸がいっぱいになる。なのに今、自分は別の男と婚約印を刻もうとしている。
「王族が婚約を結ぶ時、左手薬指に契約印を刻みます」
「印は婚約の証。契約が続く限り消えることはありません」
「では、互いの左手を重ね合わせてください」
ローゼリアは左手を差し出す。一瞬だけアストレイオン王を見る。王は黙って頷いた。それは命令ではなく、祝福に見えた。
神官が術式を展開する。金色の光が薬指に絡みつく。ローゼリアの白い指先。セラフィオンの長い指。二人の薬指に同時に光が落ちた。中心に青白い星が灯る。
ローゼリアの薬指には、青い薔薇が咲く。セラフィオンの薬指には赤い薔薇が咲く。契約した相手の色を受け継ぐように。右手の小指に刻まれた愛人契約の薔薇よりも、大きく鮮明な薔薇。
「無事婚約が結ばれました」
盛大な拍手と歓声が白薔薇広場を包む。その中でローゼリアは、最上段にいる王妃と目が合った。王妃は泣いていた。けれどそれは悲しみの涙ではない。失われた時間を取り戻すような、穏やかな涙だった。
ローゼリアの胸が小さく痛む。その時、腰へそっと支えるように手が添えられた。思わず顔を上げる。隣にはセラフィオンがいる。王と王妃へ一礼しながら、静かに微笑んでいた。その横顔はどこまでも穏やかで、まるで当然のようにローゼリアを支えていた。
ローゼリアは自分の左手を見下ろした。薬指に咲いた青い薔薇。アストラの色。婚約の証。回帰前に刻まれた緑の薔薇とは違う。息がしやすかった。なぜなのかはまだわからない。
「綺麗な青……」
思わず呟く。その時だった。隣にいたセラフィオンの気配がわずかに変わる。
「フィオ?」
顔を覗き込む。セラフィオンは何も答えない。ただ自分の薬指を見つめていた。そこに咲いていたのは赤い薔薇。ローゼリアの色。けれど。花弁の一枚だけが、わずかに色を違えていた。赤とも違う。紫にも見える。光の加減だろうか。ほんの一瞬そう見えただけで、次の瞬間には分からなくなった。
「どうしたの?」
ローゼリアが問いかける。セラフィオンは答えない。ただ薬指を見つめていた。その青い瞳が、一瞬だけ揺れる。初めて見る表情だった。驚愕。あるいは──恐怖にも似た何か。
「フィオ?」
呼びかけると、セラフィオンはようやく我に返ったように瞬きをした。
「……いえ」
静かに微笑む。けれどその笑みは、どこかぎこちなかった。そして袖口で薬指を隠した。
なぜか胸の奥がざわついた。──まるで、何かが静かに動き出したように。




