第59話 前夜の隠し事
婚約の儀を翌日に控えた夜。王女宮は珍しく静かだった。夕方まで慌ただしく続いていた準備も終わり、侍女達も皆下がっている。
窓の外には月のない夜空。ローゼリアは一人、鏡台の前に座っていた。指先が自然と右手首へ伸びる。白い肌に咲く赤い薔薇。
初めて見た頃より、明らかに色が濃くなっていた。痣としてはまだ薄いとはいえ、花弁の輪郭もはっきりしている。まるで肌の奥で根を張っているようだった。
「……綺麗じゃない」
小さく呟く。誰にも聞こえない声だった。
コンコン。控えめなノックが響いた。
「入って」
扉が開く。現れたのはセラフィオンだった。青い瞳がローゼリアを見る。そして右手首へ落ちた。
「進行していますね」
「……見て見ぬふりもしてくれないのね」
「今さら誤魔化しても意味がありません」
ローゼリアは苦笑する。それもそうだ。セラフィオンの前では何一つ隠せない。彼だけが全てを知っている。
「フィオ」
ローゼリアは右手首を持ち上げた。
「お願いがあるの」
セラフィオンは何も言わない。ただ続きを待つ。ローゼリアは窓の外へ視線を向けた。
「明日……ルカが帰ってくるでしょう?」
胸が少しだけ痛んだ。会いたい。ずっと会いたかった。けれど──。
「知られたくないの」
右手首の痣を隠すように手首を握る。
「こんなものを見せて、心配させたくない」
「……術式で隠せます」
セラフィオンの落ち着いた声に、ローゼリアが目を瞬く。
「できるの?」
「一時的になら」
セラフィオンはローゼリアの近くへ歩み寄った。
「消すことはできません。見えなくするだけです」
「それで十分よ」
セラフィオンはローゼリアの右手を取る。懐から取り出した星詠みの盤を開くと、術式陣が淡く浮かび上がる。青白い光がゆっくりと薔薇を包み込んだ。花弁が霞んでいく。輪郭が薄れ、やがて何もなかったかのように消えた。
ローゼリアは目を見開き、瞬きをした。
「すごい」
「見えなくなるのは三日間だけです。それ以上は持ちません」
「十分よ。フィオありがとう」
痣の消えた右手首を見つめる。何もなくなったわけではない。ただ見えなくなっただけだ。それでも少しだけ安心した。明日、ルカリウスに会っても気付かれない。
消えた右手首をそっと撫でる。ふと、安心したタイミングでローゼリアの身体が揺れた。視界が滲む。
「リア」
肩を支えられる。息が苦しい。喉の奥が焼けるようだった。セラフィオンの表情が曇る。
「私の血を飲んでください」
ローゼリアは小さく頷いた。牙を出そうとする。けれど、何も出ない。もう一度口元に力を込める。それでも、出ない。ローゼリアの顔から血の気が引いた。
「……牙が……出ないわ」
吸血族の証。生まれた時から当たり前にあったもの。それがもう出せない。何度試しても牙は出なかった。
沈黙だけが落ちる。やがてセラフィオンは静かに息を吐くと、そっとローゼリアの頭を撫でた。いつもは冷たい彼の手が温かかった。それだけで、胸の奥が少し緩んだ。
「リア。大丈夫です」
ローゼリアはその声に顔を上げる。セラフィオンは牙を出すと自分の下唇を刺した。赤い血が滲む。
「フィオ?」
セラフィオンは答えない。ただ、頭を撫でていた手がそっとローゼリアの頬へ添えられた。距離が近づく。
ジュニパーベリーとホワイトティーの香り、そして冷たいシダー。唇と唇が触れそうな距離で止まる。零れた血だけが、静かにローゼリアの唇に落ちる。
ローゼリアはその血を舐めた。甘い。冷えていた身体の奥へ、熱がゆっくりと広がっていく。指先に温度が戻る。呼吸が落ち着く。
彼の血がなければ、今の自分は立っていられない。
ルカリウスを愛している。それは変わらない。なのに、セラフィオンがいなければ生きられない。その事実が、胸の奥で静かに絡み合っていた。
離れればよかった。血はもう十分なはずなのに、それでもできなかった。いつもの血なのに、甘すぎて涙が出そうになる。もう牙は出ない。吸血族として当たり前だったものが、一つずつ失われていく。
セラフィオンが離れようとした。その裾を、ローゼリアは無意識に掴んだ。離れてしまえば、この温もりまで失われる気がした。指先に力が入る。
「……怖いわ」
気付けば零れていた。未来を変えたことも。死ぬことも。ルカリウスに知られることも。全部、怖かった。セラフィオンは何も言わない。ただ静かに髪を撫でた。
それだけで胸が苦しくなる。分かっていても、服を掴む指先を緩められなかった。
気づいたら自分から求めていた。唇と唇が触れる。ほんの一瞬だけのはずだった。けれど離れる理由が見つからなかった。そのまま下唇に吸い付くようにして血を飲み込んだ。
血を求めているのか、温もりを求めているのか、自分でもわからなくなっていた。セラフィオンも追わない。ただ拒まない。離れようとすれば離れられた。それなのに、どちらもそうしなかった。
「……二年のはずが、十三年かかりましたね」
その声だった。忘れたはずなのに。一度も忘れていなかった声。
(ああ──)
(白薔薇の庭園……この声)
セラフィオンの腕が背中を包む。子供をあやすように、ゆっくりと。ローゼリアは額を肩へ押し付けた。今だけは、一人で立っていたくなかった。
「白薔薇の庭園の……私の王子様」
セラフィオンの指先が、わずかに止まった。その理由を考える前に、意識がゆっくり沈んでいった。
明日になればルカリウスが帰ってくる。婚約の儀も始まる。それなのに胸の奥は静かに騒いでいた。
──まるで何かが終わる前の夜みたいに。
◇◇◇
ローゼリアの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
腕の中で目を閉じた横顔を見下ろしながら、セラフィオンはゆっくりと瞳を伏せた。
牙が出なくなった。人間化は確実に進んでいる。それでも彼女は生きなければならない。血が必要だ。だから唇から与えた。それが最も効率的だったから。ただ、それだけのはずだった。
(──それだけのはずだったのに)
唇が重なったあの瞬間、喉が鳴った。離すべきだと分かっている。それでも彼女が自分を求める、この一瞬だけは終わらせたくなかった。
ローゼリアが無意識に服を掴んだ瞬間。離れたくないと訴えるように身を寄せた瞬間。理性が軋んだ。腕の中にいるのは自分を見ていた幼い頃のローゼリアではない。彼女が待っているのは明日帰ってくる騎士だ。それを知っているからこそ、今だけは離したくなかった。
セラフィオンはそっと額をローゼリアの髪へ寄せた。ジュニパーベリーとダマスクローズの香りが混ざる。この温もりも。この時間も。明日になれば終わる。だからせめて今だけは。
眠る彼女を起こさぬよう、そっと背中を抱き寄せる。腕の中から聞こえる規則正しい寝息。泣き疲れた子供みたいに、自分の胸元へ額を預けたまま眠っている。
本当なら離れるべきだった。王女の寝室だ。夜が明ける前に退出するべきだった。それでも腕を解くことができない。少しでも離せば、この温もりが失われてしまいそうで。
セラフィオンはそっと柔らかな赤い髪を撫でる。
彼女は明日、自分を見ない。翡翠の瞳は婚約の儀の場で、北境から帰ってくる騎士を探すだろう。わかっているのに。今夜だけは、この時間を手放したくなかった。
白薔薇の庭園。その言葉だけで十分だった。二度と思い出されないと思っていた。忘れられたまま終わるはずだった。それなのに彼女は、最も弱った夜にだけその名を呼ぶ。──それでも十分だった。
「おやすみなさい。白薔薇の庭園のお姫様」
眠るローゼリアの耳元で囁く。届かないことはわかっている。届けば、彼女を困らせるだけだ。だからこの想いだけは、胸の奥へ沈める。
窓の外が少しずつ白み始める。夜が終わる。ローゼリアの睫毛が小さく震えた。セラフィオンは静かに目を閉じる。
あと少しだけ。あと少しだけ、このままで。




