第58話 失われた月
王宮最奥。誰もいない執務室に静寂が落ちていた。
窓の外に広がる夜空は暗い。本来なら満月が浮かんでいるはずの場所には、何もない。その空を見上げながら、アストレイオン王は一人立っていた。
机の上には古い羊皮紙が広げられている。王家にのみ伝わる禁書。代々の王が受け継いできた記録だった。
アストレイオン王は静かに頁を捲る。そこに描かれていたのは、ひとつの儀式。王と王妃。そして満月。血で描かれた円環。その中央に刻まれた古い文字。
『月の楔』
アストレイオン王は目を伏せる。
「時間がない……」
誰にも聞こえない独白だった。失われた月は自然現象ではない。封印が弱まっている証。だからこそ婚姻を急がなければならない。
本来ならば一年かけて行う儀式。だが、もう待てない。アストレイオン王は机の上の肖像画へ視線を落とした。若き日の王妃。そして幼いローゼリアとルシエル。
「すまない」
父としてではなく、王としての謝罪だった。その時だった。
コンコン。扉が叩かれる。
「国王陛下。アストラ大公が謁見されたいと」
「通せ」
しばらくして、扉が開いた。セラフィオンが静かに一礼する。アストレイオン王は羊皮紙を裏返し、視線を上げた。
「何用だ」
「北境から追加報告です」
セラフィオンは一枚の報告書を差し出した。アストレイオン王はそれを受け取り、文字を追う。そして止まる。
『遺跡内部で異常振動を確認』
『周期的な魔力波動を観測』
『封印術式との類似性あり』
長い沈黙。やがて王は報告書を閉じた。
「やはりか」
「ご存知なのですか」
アストレイオン王は答えない。代わりに窓の外を見る。月のない夜空。
「封印が、弱まり続けている」
独り言のような声だった。セラフィオンは一拍置いてから、静かに口を開く。
「国王陛下」
「なんだ」
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ローゼリア王女殿下の婚姻を急がれる理由は、本当に政治だけですか」
アストレイオン王の視線が、窓の外からセラフィオンへ移る。
「何が言いたい」
「血印です」
執務室の空気が変わる。
「王族性の維持と婚姻の時期。偶然にしては出来すぎています」
セラフィオンは続ける。
「そして何より」
青い瞳がまっすぐ王を射抜く。
「ローゼリア王女殿下は、ご自身の持つ血印について知らなさすぎる」
一呼吸置き、セラフィオンは静かに続ける。
「王族性の維持。婚姻の時期。失われた月。そして我がアストラ家が代々王族の婚姻に関わる理由。全てが偶然とは思えません」
「……そこまで辿り着いたか」
長い沈黙の後だった。アストレイオン王は小さく息を吐く。
「お前は幼い頃から勘が良すぎるな」
「ならば教えてください」
セラフィオンは一歩も引かない。
「ローゼリア王女殿下は何を知らされていないのですか」
アストレイオン王はしばらく窓の外を見ていた。失われた月。誰よりも見慣れたはずの夜空。やがて、静かに口を開いた。
「……お前は」
「ローゼリアを愛しているのか」
セラフィオンは答えなかった。否定も肯定もしない。アストレイオン王は小さく息を吐く。
「そうか」
視線を窓の外へ戻す。
「お前が死んでいないことなど、ずっと知っておった」
セラフィオンの指先が、わずかに強張った。
「……陛下」
「アストラの掟も知っている」
「王家を守るためなら己の人生すら差し出す。アストラの者は代々そうしてきた」
アストレイオン王は振り返らない。
「お前も、そのつもりだったのだろう」
「だがな、アストラ大公。……いや、セラフィオン」
アストレイオン王が初めて振り返る。
「お前は一つだけ間違えている」
「……何を」
「アストラは王家を守る。だが、王家はアストラを守らぬわけではない」
セラフィオンは返す言葉を失った。指先が無意識に握り込まれる。
「だからこそ、お前には同じ道を歩ませたくなかった。ローゼリアも同じだ」
アストレイオン王は言葉を切った。窓の外では、月のない夜空だけが広がっている。
「だが、ローゼリアは禁忌を使った」
その言葉だけが重かった。
「未来を変えた代償は、いずれ支払わねばならぬ」
セラフィオンは無意識に拳を握る。ローゼリアの右手首に広がる薔薇の痣。日に日に濃くなる赤。それが意味するものを、彼は誰より理解していた。
「だから婚姻を急ぐのですか」
「……それも理由の一つだ」
その言葉に、セラフィオンの胸がわずかに軋んだ。
「だがな」
アストレイオン王はゆっくりと振り返った。金の瞳に映るのは、娘でも婚約でもない。もっと大きな何かだった。
「私が最も恐れているのは、ローゼリアの死ではない」
「では何を」
アストレイオン王はしばらく黙っていた。ただ、失われた月があるはずの場所を見つめる。そしてようやく唇を開いた。
「この国の終わりだ」
◇◇◇
王の執務室を出ると、回廊の先に見覚えのあるキャラメル色の髪が見えた。
「研究者さん!」
エリオは嬉しそうな笑顔を向けると、ひらひらと手を振った。
「……エリオ王子殿下」
「国王陛下と話してきたんでしょ?」
セラフィオンは足を止めた。
「聞いていたのですか」
「まさか」
エリオは手を添え、大げさに首を横に振った。
「でも、だいたい想像はつくよ」
金の瞳が細められた。
「婚姻の儀のこと?」
セラフィオンは答えない。エリオは小さく笑った。
「やっぱりね」
そして窓の外を見た。月はない。あるはずの場所だけが、ぽっかりと空いている。
「研究者さん」
懐中時計を指先で回しながら、エリオは呟く。
「どうして国王陛下は僕を王にしたがると思う?」
セラフィオンは答えなかった。エリオはくるりと懐中時計を回す。カチ。時計が閉じる。
「簡単だよ」
金の瞳が月のない夜空を見上げた。
「リアが禁忌を使ったから」
セラフィオンの視線がわずかに鋭くなる。
「国王陛下は気付いてる。気付いてないわけないよね」
エリオは肩をすくめた。
「だって、あの人は王だもん」
「そして、ノクティスの血を引く王族は、もう他にいない。王はいつだって最悪を考える。次がいないのなら……ってね」
「研究者さん」
エリオが振り返る。
「ルカ兄のこと、まだ繋がってないの?」
「……何の話ですか」
エリオは答えない。ただ、懐中時計を指で弾く。
「僕ならそっちを先に調べるかな」
「国の終わりより、ずっと近くに答えがあるから」




