第57話 白い花
遺跡から戻った夜。ルカリウスはほとんど眠ることができなかった。
目を閉じる度に思い出す。王墓。紫色の耳飾り。“片方しか残っていません”──考古学者の声。
母の形見と酷似した耳飾り。偶然だと言い聞かせようとしても、胸の奥の違和感は消えなかった。
エリシア。レヴァインの名を名乗れなかった女。自分を産み、十歳の時に死んだ女。それ以外は何も知らない。知ることができなかった。
翌朝。ルカリウスは一人で遺跡へ向かった。誰にも告げずに。
◇◇◇
森の奥は静かだった。鳥の声もない。風だけが木々を揺らしている。葉の擦れる音が、やけに遠い。
崖の奥に隠された遺跡へ足を踏み入れ、石段を降りる。冷たい空気が肺へ流れ込んだ。地の底の空気だった。光が届かない場所の、時間の止まった冷たさ。松明を手に持っていなければ、方向も分からなくなりそうだった。
やがて広間へ辿り着く。石棺は昨日と変わらず中央にあった。そして。
「……またか」
石棺の上には白い花が供えられていた。昨日とは違う花。つまり今も誰かが来ている。
ルカリウスは周囲へ視線を巡らせた。その時だった。
奥の通路から足音が聞こえる。ゆっくりと。杖を突く音。
やがて現れたのは、小柄な老婆だった。白髪。深い皺。曲がった背。吸血族は三十歳を超えると見た目が止まる。老いた姿をしているということは、人間だ。
老婆は花を抱えていた。そしてルカリウスを見た瞬間、その場で立ち止まる。杖を握る手が、震えた。
「そんな……」
「誰だ」
老婆は答えない。ただ呆然とルカリウスを見つめていた。やがて震える唇が動く。
「その輪郭……鼻筋に唇」
ルカリウスの胸がざわつく。
「何の話だ」
老婆はゆっくり首を振る。そして目尻に涙を浮かべた。
「ああ……本当に、よく似ておられる」
その声には懐かしさが滲んでいた。誰かを思い出す声だった。
「誰にだ」
老婆はしばらく沈黙した。やがて意を決したように口を開く。
「エリシア様にです」
ルカリウスの呼吸が止まった。
「……母を知っているのか」
老婆の瞳が大きく見開かれる。次の瞬間、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「……やはり」
「……あの方のお子だったのですね」
ルカリウスは何も言えなかった。遺跡の冷えた空気の中で、何かが静かに揺れた。母の名を、この場所で聞くとは思っていなかった。
「エリシア様は元気にされていますか?」
「十一年前に……死んだ」
「なんと……」
老婆は寂しげな表情を見せると、石棺へ歩み寄る。新しい白い花をそっと供え、手を合わせた。死んだ母に祈りを捧げてくれているようにも見えた。その手付きは慣れていた。何十年も繰り返してきたように。
「あなたが花を?」
老婆は石棺を見つめたまま、静かに頷いた。
「ええ」
皺だらけの指先が白い花弁を整える。
「毎月、欠かさず」
石棺へ視線を向ける。その横顔には深い祈りが刻まれていた。
「エリシア様も、よくここへ来られていました」
ルカリウスの瞳が揺れる。
「母が?」
「ええ」
老婆は微笑む。遠い昔を思い出すように。
「とても優しい方でした」
「けれど……いつも寂しそうでした」
知らない母の姿だった。ルカリウスは拳を握る。握り締めた指先が、冷えている。
「母は何者だった」
問いかける。老婆の笑みが消えた。そして静かに首を横へ振る。
「私に語れることではありません」
「ですが」
皺だらけの手が石棺へ触れた。
「ずっと待っておりました」
「いつか、あの方の血を引く方がここへ来る日を」
老婆の視線がルカリウスへ向く。
「耳飾りも見つかったのですね」
ルカリウスの眉が寄る。
「知っているのか」
老婆はゆっくり頷いた。
「ええ」
「本当なら、もっと早く見つかるはずだったのですが……」
「ですが、もう時間がありません」
ルカリウスの瞳が細くなる。
「どういう意味だ」
老婆は答えない。ただ石棺を見つめ続ける。長い沈黙。遺跡の空気が、わずかに重くなった気がした。
やがてルカリウスは低く問う。
「この墓は誰の墓だ」
老婆の肩がわずかに震えた。そしてゆっくりと顔を上げる。その瞳には、長い年月を抱えた者だけが持つ覚悟があった。
「それは──」
老婆が口を開いた、その時だった。
遺跡の奥深くから。ゴォォォン──
低い音が響いた。地の底から響く音。まるで何かが目覚めるような。石壁が微かに震え、足元から振動が伝わってくる。松明の炎が揺れる。ルカリウスは反射的に振り返る。
老婆の顔から血の気が引いていた。
「始まってしまった……」
「月が失われた時から恐れていたことが……」
「もう王家だけでは止められない」
ルカリウスは息を呑む。なぜそこで王家の名が出る。だが老婆はそれ以上語らない。ただ石棺を見つめたまま、小さく震えていた。まるで、これから起こる未来を知っているかのように。
供えられた白い花だけが、冷えた空気の中で静かに揺れている。
その予感だけが、遺跡の奥で静かに形を持ち始めていた。




