第56話 必要な温度
婚約の儀の日程を告げられてから、数日が過ぎた。
王女宮の窓から見える夜空は暗い。満月が失われて以来、夜は以前より深い闇を抱えるようになっていた。星だけが冷たく瞬いている。温度のない光だった。
ローゼリアは窓辺に立ったまま、無意識に右手首へ触れた。赤い薔薇の痣。薄くなることはない。むしろ少しずつ濃くなっている気がした。
婚約の儀まで数週間。その後は婚姻の儀。未来は決まっているはずなのに、どこか現実味がなかった。
窓の向こうを見つめる。北境は見えない。それでも視線は自然とその方角へ向かっていた。
「……ルカ」
小さく零した名は、夜に溶けて消えた。
その瞬間だった。ふらり、と身体が揺れる。視界が霞む。胸の奥から力が抜けていく感覚。ローゼリアは咄嗟に窓枠へ手をついた。
「っ……」
息が浅い。呼吸を整えようとしても上手くいかない。膝から力が抜ける。そのまま崩れ落ちそうになった時、慌ただしい足音が廊下から聞こえた。
◇◇◇
「リア」
聞き慣れた声だった。
ローゼリアが目を開くと、そこにはセラフィオンの姿があった。寝台へ運ばれていたらしい。部屋にはミレイユと侍女達の姿もあったが、セラフィオンが小さく手を振ると全員が退室していく。扉が閉まる。静寂だけが残った。
「また倒れたのね」
ローゼリアが苦く笑う。セラフィオンは答えなかった。代わりに寝台の傍らへ腰を下ろす。青い瞳が静かにローゼリアを見つめていた。
「最近、頻度が増えています」
「婚約の儀が決まったからですか」
「関係ないわ」
反射的に返す。だが説得力はなかった。セラフィオンは追及しない。ただ小さく息を吐いた。
「手を」
差し出された右手。ローゼリアは一瞬だけ迷う。だが結局、素直にその手を取った。
「牙はまだ出せますか?」
「たぶん……」
セラフィオンは指先を差し出した。ローゼリアの喉がわずかに鳴った。自分でも気付かないほど小さな音だった。だがセラフィオンは気付いていた。
「飲んでください」
ローゼリアは静かに頷く。唇を寄せる。短くなった牙が覗く。以前より明らかに短い。それでもまだ消えてはいない。牙が指先へ触れる。皮膚をわずかに破り、温かな血が口内へ流れ込んできた。
甘い。人工血とは比べものにならない。喉を通った瞬間、身体の奥へ熱が広がっていく。凍えていた場所へ火が灯るようだった。ローゼリアは目を閉じる。思わず力が抜けた。身体が楽になる。呼吸が整う。心臓の鼓動が落ち着いていく。
セラフィオンは動かない。ローゼリアの唇が自分の指に触れている。その重さを、静かに受け止めていた。
「もう十分です」
ローゼリアはゆっくりと顔を上げる。牙を離す。唇の端に残った血を舌で拭うと、ようやく現実へ引き戻された気がした。
「……ありがとう」
セラフィオンは傷口へ布を当てながら視線を伏せた。
「礼を言われることではありません」
どこか疲れているようにも聞こえる声だった。ローゼリアは首を傾げた。
「フィオ?」
「なんでもありません」
その返答は少しだけ早すぎた気がした。
部屋に沈黙が落ちる。窓の外では風が木々を揺らしている。ローゼリアは自分の掌を見る。先ほどまで冷えていた指先が温かい。
「本当に不思議ね」
「何がですか」
「あなたの血だけなの」
ローゼリアは静かに笑う。
「人工血も駄目。吸血族の血も人間の血も駄目。でも、フィオの血だけは身体が受け入れる」
セラフィオンは返事をしなかった。返せなかった。
必要だから。生きるためだから。理由はわかっている。それでも、彼女が自分を必要としている事実だけが、胸に残った。痛みに近い温度で。
「フィオ?」
呼ばれて我に返る。青い瞳がわずかに細められた。
「……だから無理はしないでください」
ローゼリアは小さく頷く。その素直な仕草に、セラフィオンは目を伏せた。
「また明日来ます」
立ち上がりながら告げる。ローゼリアは微笑んだ。
「ええ。待ってるわ」
その一言が胸に刺さる。セラフィオンは一瞬だけ目を閉じた。そして寝台へ戻る。
「フィオ?」
不思議そうな声。答えずに前髪をそっと払い、額へ唇を落とした。触れるだけの短い口づけ。祝福にも似た。祈りにも似た。
「あなたはもっと、自分を大事にするべきです」
ローゼリアは目を瞬いた。その意味を理解する前に、セラフィオンとの距離は離れていた。
「おやすみなさい、リア」
「……おやすみ、フィオ」
静かに扉が閉まる。廊下へ出たセラフィオンは歩みを止めた。血を与えた指先へ視線を落とす。傷だけが残っている。温もりは、もうない。それでも──まだ残っている気がした。指先ではなく、もっと奥の場所に。
「……困ったな」
誰にも聞こえない声だった。
救いたいだけだった。守りたいだけだった。そう思っていたはずなのに。いつからか、その笑顔を失いたくないと思っている。
遠くで鐘の音が鳴る。婚約の儀まで、あと数週間。満月のない夜は、どこまでも静かだった。




