第55話 知る者
王宮最奥。国王の執務室には重い沈黙が満ちていた。高い窓から差し込む午後の光が床へ長く伸び、二人の影を静かに切り取っている。
セラフィオンは机の前に立ったまま、アストレイオン王を見つめていた。王は書類から目を上げる。
「北境の件はどうだ」
「報告書です」
数枚にまとめた報告書と、一枚の肖像画を机へ置く。柔らかなミルクティー色の髪。静かな微笑み。そして左耳に揺れる紫色の耳飾り。
アストレイオン王の指先が止まった。ほんの一瞬。だがセラフィオンは見逃さない。
「……エリシアか」
「ご存知なのですか」
アストレイオン王はしばらく肖像画を見つめていた。どこか遠い昔を見るように。やがて静かに息を吐く。
「昔の知り合いだ」
それだけだった。だが、その一言だけで十分だった。この名を、アストレイオン王は知っている。知っていて、これ以上語らない。
「北境の王墓より耳飾りが発見されました」
「そしてルカリウス・レヴァインの部屋にも、対になる耳飾りがありました」
アストレイオン王は何も答えない。窓の外、光だけが静かに動く。沈黙が、答えだった。
「エリシアと北境の王墓に何の関係があるのですか」
長い沈黙。そして王は静かに答えた。
「……美しく、強い女だった」
質問への答えではなかった。それでも、その言葉には年月の重みがあった。セラフィオンはそれ以上追及しなかった。聞いても答えは返ってこない。そう理解したからだ。
「北境の件は引き続き調査を進めろ」
「だが今、お前が優先すべきは別にある」
机の上へ新たな書類が置かれる。赤い封蝋。王家の紋章。セラフィオンはそれを開いた。そこに記されていた文字を見て、わずかに目を細める。
「婚約の儀の日程が決まった」
「一ヶ月後だ」
セラフィオンの指先がわずかに止まった。
「……御意」
アストレイオン王はしばらく窓の外を見つめていた。
「ローゼリアを頼む」
それは命令ではなかった。父親としての願いだった。セラフィオンは無意識に小指へ視線を落とす。赤い薔薇。契約の証。本来なら婚約者である自分が、最も近くにいるはずだった。それなのに彼女の心が向く先を知っている。
「……必ず」
その時だった。コンコン──執務室の扉が叩かれる。
「国王陛下。ローゼリア王女殿下がお見えです」
アストレイオン王は小さく目を閉じた。
「入れ」
扉が開く。淡い桃色のドレスを纏ったローゼリアが姿を現した。ダマスクローズとアイリスの香りが、冷えた執務室の空気に静かに混じる。
「お父様」
柔らかく頭を下げる。そして室内にセラフィオンの姿を見つけ、小さく瞬きをした。
「フィオもいたのね」
「今しがた報告を終えたところです」
アストレイオン王は二人を見比べる。そしてゆっくりと口を開いた。
「ちょうど良い」
その声音に、ローゼリアはわずかに背筋を伸ばした。王は机の引き出しから一通の書類を取り出す。王家の封蝋。正式文書だった。
「正式に伝える」
「婚約の儀は一ヶ月後だ。ローゼリアの誕生日に婚姻の儀を行う」
一瞬、空気が止まる。ローゼリアの指先がわずかに強張った。膝の上で、静かに握り締められる。セラフィオンは無言のまま書類へ視線を向ける。一ヶ月後。先ほど一人で聞いた言葉が、今度は三人の空気に落ちた。
「……もう、そんなに近いのですね」
かろうじてそれだけを口にする。
「王家の婚約は本来なら一年前に儀を行う」
王は淡々と答えた。
「だが、ローゼリアの婚姻をこれ以上先延ばしにはできん」
ローゼリアは視線を落とした。窓から差し込む光が、床の上で静かに揺れている。婚約。結婚。一ヶ月後。そのどれもが、現実として胸に沈んでいく。
セラフィオンはそこに、政治とは別の意図を感じていた。王が婚姻を急ぐ理由。アストレイオン王が言葉を続ける。
「北境へ向かった王室騎士団も、その頃には帰還する予定だ」
ローゼリアの睫毛が揺れた。ほんのわずか。けれど確かに。翡翠の瞳に、光が宿る。アストレイオン王も気づいた。セラフィオンも気づいた。誰も口にしない。その光が何を意味するのか。沈黙だけが落ちる。
やがてアストレイオン王は静かに席を立った。
「準備を進めろ」
「御意」
セラフィオンが答える。ローゼリアも小さく頭を下げた。三人が同じ部屋にいる。けれど、それぞれが見ている未来は違っていた。
ローゼリアは北境を。アストレイオン王は王国を。そしてセラフィオンは──決して自分へ向かない翡翠の瞳を見ていた。
一ヶ月後。婚約の儀。そして──ルカリウスの帰還。




