第53話 紫の片割れ
北境に来てから、二週間が過ぎようとしていた。
王都からの連絡は定期的に届いている。ローゼリアが無事に目を覚ましたことも報告で知っていた。それでも、傍にいることはできない。その事実が、胸の奥を静かに焦がしていた。
北境での任務は思っていた以上に難航している。森に現れた魔物は討伐した。だが、それで終わりではなかった。むしろ状況は悪化している。魔物は確実に増え続けていた。根本的な原因は未だ不明。打開策として、ヴェルモント家の資金援助と王家の支援を受け、北境の町を囲む城壁の建設が始まった。
野営ではなく宿に滞在できているだけ、まだ恵まれているのかもしれない。ルカリウスは窓辺に立ち、遠く王都の方角を見つめた。空は晴れているのに、どこか重い。
手の中の銀のケースを開く。中には、ローゼリアの保存血。小さな結晶を口へ運ぶと、甘い熱が喉を落ちていった。思わず目を閉じる。だが、それだけだった。飢えは癒えない。
(……足りない)
あの甘い薔薇の香りが恋しい。柔らかな髪も。掌の上で感じる体温も。全部が足りなかった。
ルカリウスは無意識に右手の小指へ視線を落とす。そこに咲く赤い薔薇の痣。指先を鼻先へ近づける。匂いなどあるはずがない。それでも、ほんのわずかでも彼女を感じたかった。その時だった。
「ルカリウス司令官」
扉を叩く音と共に、バルトの声が響く。
「入れ」
「報告です。北境討伐西部隊が合流しました。レオンハルト司令官がお呼びです」
「わかった。すぐ向かう」
銀のケースを懐へ戻し、ルカリウスは部屋を後にした。
◇◇◇
北境守備隊本部は、町の中央に築かれた古い砦だった。厚い石壁に守られた建物の中では、兵たちが慌ただしく行き交っている。
作戦室には地図や報告書が広げられ、窓の外には建設途中の城壁が見えていた。到着したルカリウスへ、レオンハルトが開口一番告げる。
「一ヶ月以内に王室騎士団は王都へ帰還せよとの王命が下った」
室内の空気がわずかに張り詰めた。
「それまでに城壁の建設と町の守備体制、そして遺跡の調査を進める必要がある」
レオンハルトは地図の上へ指を置く。
「北境討伐西部隊と東部隊は、元の王室騎士団と北境守備隊の編成へ戻す」
「城壁の建設は一ヶ月では終わらないだろう。今後はバルトが指揮を執れ。我々は王都へ戻るまで全力で支援する」
「承知しました」
バルトが力強く頷く。それを確認してから、レオンハルトは別の地図を広げた。
「王宮が重視しているのは、こちらだ」
ルカリウスが顔を上げる。
「例の遺跡ですか」
「ああ」
レオンハルトは短く頷いた。
「王都から考古学者が派遣された」
「私とルカリウス、バルト、それに学者と騎士二名を連れて遺跡へ向かう」
ルカリウスはわずかに眉を寄せる。
「急ですね」
レオンハルトは一瞬だけ沈黙した。
「……王命だ」
それ以上は語らない。だが、何かを隠していることだけは伝わった。
◇◇◇
森の奥深く。巨大な岩壁と蔦に覆われた崖。崩れかけた石造りの入口が、薄暗い森の中に口を開いていた。湿った土と苔の匂いが、松明の煙に混じっている。
万が一に備え、騎士二名が入口の警備へ配置される。ルカリウス達は松明を手に、地下へと足を踏み入れた。
「前回来た時も思いましたが、不思議な雰囲気ですね」
バルトが周囲を見回しながら呟く。考古学者も同意するように頷いた。
「空気が違います」
「まるで墓ではなく、誰かが今も管理しているような――」
そこで言葉が止まった。全員の視線が、同じ場所へ向く。石棺だった。前回訪れた時には存在しなかったはずのものが、広間の中央に静かに鎮座している。
「……なんだ、あれは」
石棺の上には、白い花が一輪だけ供えられていた。まるで、つい先ほど誰かが訪れたかのように。花びらはまだ、枯れていない。
「前回来た時は何百年も放置された場所かと思ったが……」
バルトが息を呑む。
「誰かが管理しているのか?」
「確認しましょう」
考古学者が石棺へ近づく。慎重に蓋をずらすと、長い眠りから目覚めるように内部が姿を現した。そこにあったのは人間の頭蓋骨だった。
「この骨格は人間ですね」
考古学者は静かに観察を続ける。
「遺骨の状態、石碑、そして副葬品の特徴から見て……」
「おそらく我が国が建国される以前の王族でしょう」
「王族……」
バルトが息を呑む。その時だった。
「これは……?」
考古学者の視線が頭蓋骨の左耳で止まる。そこには紫色の石を嵌めた耳飾りが残されていた。長い年月を経ているはずなのに、不思議なほど輝きを失っていない。
「装飾品ですか」
バルトが身を乗り出す。考古学者は羽根で丁寧に砂埃を払い、手袋を嵌めた手で耳飾りを取り外した。
「王族の副葬品でしょう」
そう言いながら耳飾りを観察し、首を傾げる。
「ですが珍しい」
「何がだ」
レオンハルトが問う。
「通常、このような副葬品は対で納められます」
考古学者は耳飾りを掲げた。
「片方しか残っていません」
その瞬間。ルカリウスの視線が止まった。
松明の光を受けた銀細工が淡く輝く。花にも見える。欠けた月にも見える。どこか意味を持って作られた、不思議な意匠。胸の奥がざわついた。見覚えがある。忘れるはずがない。だが――あり得ない。
あれは母の形見だ。幼い頃から、ずっとそう思っていた。
(なぜ……)
視線が離せない。喉の奥がひどく乾く。
(なぜ、この片方を母が持っていたんだ?)
脳裏に浮かぶ。幼い頃から見慣れた肖像画。母の耳元で揺れていた紫の石。そして今、古代の王の遺骨から見つかった耳飾り。偶然で片付けるには、あまりにも出来過ぎていた。
初めて、自分の知らない母の姿がそこにある気がした。




