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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第2幕

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第52話 優しい檻

「歩けますか」


「歩けるわ」


ローゼリアは一歩踏み出した途端、身体を傾けた。


「あっ」


倒れそうになった身体を、セラフィオンが支える。石造りの廊下。冷えた空気。触れた部分だけが、やけに温かかった。


「歩けないならしっかり掴まってください」


「今のは少し躓いただけよ」


「そうは見えませんでしたが」


セラフィオンは小さく息を吐いた。


「失礼します」


「え?」


次の瞬間、身体がふわりと浮く。ダマスクローズとアイリスの香りが近くなる。


「フィオ!?」


「暴れないでください」


「歩けるわ!」


「そうですか」


ローゼリアは諦めたように息を吐くと、セラフィオンの首に腕を回した。回廊をゆっくりと歩き進める。燭台の炎が、二人の影を揺らす。


「……意外だわ」


「何がですか」


「私を軽々と持ち上げるから。……案外力あるのね」


セラフィオンは一瞬だけ視線を落とした。


「軽すぎるんです」


その声音だけが、少し硬かった。ローゼリアは何も言わなかった。“軽い”という言葉の意味を、二人とも知っていた。


ローゼリアを抱えたまま歩きながら、セラフィオンは静かに考えていた。


(なぜ、あれがルカリウスの部屋に……)


紫の石の耳飾り。見間違えるはずがない。


(まさか……)


答えはまだ出ない。だが、胸の奥で何かが軋んでいた。



◇◇◇



ローゼリアの部屋に着くと、セラフィオンはゆっくりとローゼリアを降ろし寝台へ座らせた。薔薇模様の絨毯の上に片膝を立て、ローゼリアに目線の高さを合わせると、翡翠の瞳をまっすぐ見つめた。


「リア。あなたは自分が何故倒れたのか、理解していますか?」


「……わからないわ」


ローゼリアは首を横に振る。


「でも……人工血を飲んだ瞬間、目の前が白くなったの」


セラフィオンは目線を落とすと、少し考え込んだ。


「牙は出せますか」


「牙?」


ローゼリアは言われるまま唇を開くと、白い牙を覗かせた。


「あれ……?」


牙がいつもより短い。正確には、片方しか伸びていない。ローゼリアの表情が固まる。セラフィオンは静かに目を伏せた。


「……やはり」


「どういうこと?」


セラフィオンの視線が、ローゼリアの右手首へ落ちる。数日前より確実に濃くなった薔薇の痣。皮膚の下で、静かに根を広げている。


「人間化が進行しています……人工血はもう身体が受け付けません」


「だからだったのね……」


「吸血族の血でも同じです」


「ルカの血も……?」


セラフィオンの胸の奥が軋む。


「そうなります」


沈黙が落ちる中、セラフィオンは静かに指先を差し出した。小指の赤い薔薇がわずかに熱を持った気がした。


「私の血を吸ってみてください」


「え……?」


しばらく青い瞳を見つめた後、恐る恐る牙を指の根本へ刺す。そして──吸う。


「甘い……わ」


無意識に舌が、傷口をなぞる。久しぶりの生きた血だった。喉の奥で、熱がほどけていく。セラフィオンは動かない。視線を逸らさない。ローゼリアの唇が自分の指に触れている。その事実を、冷静なふりをしながら受け止めていた。


(──欲しい、と思った)


理性がすぐに塗り潰す。これは術式だ。観測だ。


(それでも)


「飲めますね」


声は穏やかだった。胸の奥は、穏やかではなかった。


「身体が楽になったわ。どうして……?」


「……私がアストラだからです」


ローゼリアはゆっくり顔を上げた。翡翠の瞳が、まっすぐこちらを見る。何も知らない瞳だった。それが、胸を締め付けた。


「……あなたはもう、半分、吸血族の身体ではありません」


一度言葉を切る。


「ルカリウスの血では、生きられません」


翡翠の瞳が揺れる。


「そんな……」


そこでセラフィオンの中で、何かが少しだけ崩れた。愛している。救いたい。けれど同時に──ルカリウスの名前しか出てこないこの女の声が、自分を苦しめる。


「死期を早めたくないのなら」


指先に残る血を見下ろす。赤い雫が、ゆっくりと指の腹を伝う。そしてもう一度、その指先をローゼリアの唇へ近づけた。触れる寸前で、止める。


「私の血を飲むしかありません」


逃げ道を与えない距離だった。命令でも懇願でもない。ただ事実だけを置く。けれどその近さは、意図的だった。指先を引こうとは思わない。ルカリウスのことしか見えていないこの女の、せめてこの瞬間だけでも一番近くにいたかった。


「あなたが決めてください」


「フィオ……」


翡翠の瞳が揺れる。セラフィオンはただ待っている。指先を引かない。


ローゼリアはゆっくりと目を閉じ、そして開いた。セラフィオンをまっすぐ見つめると、そっと唇を開き、指先に残る血を舌先で舐め取った。


セラフィオンの喉が、わずかに上下する。


その変化に気づかないまま、ローゼリアは血を飲み込んだ。肩から力が抜ける。頬にわずかに赤みが差す。先ほどまでの青白さが、嘘のように消えていた。


「どうやら、あなたの身体は私の血を受け入れるようです」


穏やかな声だった。けれど胸の奥だけが妙に熱を持っていた。長い時間をかけて確かめた答えに、やっと辿り着いたみたいに。


「それ……どういう……意味?」


「そのままの意味です」


セラフィオンは傷口を布で拭う。仕草は丁寧だった。


「少なくとも今のあなたは、私の血がないと生きられない」


ローゼリアは言葉を失った。セラフィオンの青い瞳は一度も逸れない。ローゼリアが無意識に唇を舐める。その仕草に、視線が一瞬だけ止まった。


「安心してください」


「私はいなくなりませんから」


その言葉は優しかった。けれどセラフィオンは知っていた。この優しさは、もう純粋ではない。救いたいという気持ちと、手放したくないという気持ちが、もう切り分けられなくなっている。


それでも口にしない。彼女が求めている名前は、最初から自分ではないのだから。

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