第51話 残された香り
「北境……?」
ローゼリアは身体を起こそうとするが、力が入らない。シーツを掴む指先が、情けないほど頼りなかった。
「魔物が現れ、討伐部隊が結成されました」
セラフィオンの淡々とした口調に、ローゼリアは瞬きをした。
「魔物……?」
幼い頃に聞かされた話だった。絵本の中の存在。この世界にはもういないはずの何か。その名を現実の声で聞いたとき、胸の奥だけが子供みたいに怯えた。
「そんな……」
翡翠の瞳が揺れる。
「もう存在しないはずじゃ……」
誰も、すぐには答えなかった。その沈黙だけで十分だった。
赤い雪の夜と──消えた月。
脳裏に焼き付いた、あの日の光景。禁忌を犯した代償。右手首を掴む。薔薇の痣が微かに熱を持っていた。
(まさか……)
(私が未来を変えたから……?)
無意識に右手首へ視線が落ちる。その仕草を見て、エリオが小さく肩をすくめた。
「はいはい、そこで全部自分のせいだって顔しない」
呆れたように笑う。けれど、声音だけはいつもより柔らかい。
「リアは昔からそうなんだから」
「リアはひとまず自分の身体のことだけ考えて」
金の瞳が、わずかに細くなる。
「魔物はルカ兄が、政治は研究者さんと僕がなんとかするからさ」
「……あなたは休んでいてください」
セラフィオンはそれだけ言った。いつもの声音なのに、どこか遠い。その表情に、なぜか胸が締め付けられた。
◇◇◇
セラフィオンとエリオが部屋を去り、ローゼリアは医務官からの治療を受けた。
「しばらく安静は必要ですが、通常の生活は問題ないでしょう」
医務官はそう告げると、薬瓶をミレイユに渡し部屋を後にした。甘い香りの部屋に、静寂が戻る。
「ねぇ、ミレイユ」
「どうされました?」
「少しだけ、行きたいところがあるの」
「そんなお身体でどちらへ」
「騎士棟へ」
ミレイユは一瞬だけ目を細めた。それ以上は聞かない。ただ、静かにローゼリアの腕を支えた。
「ルカリウス様は北境へ行かれています」
「わかってる。それでも」
廊下に出ると、冷えた石の空気が頬を撫でた。六日ぶりの外気だった。身体はまだ重い。足取りは覚束ない。それでも、足は自然と騎士棟へ向かっていた。傍にいて欲しい。その気持ちだけが、足を動かしていた。
「ミレイユ、ありがとう。帰りはひとりで戻れるから、待たなくていいわ」
ミレイユは一瞬不安そうな表情を浮かべた。それでも、静かに頷いた。
ゆっくりと扉を押し開ける。
ベチバー。冷えたウッド。わずかに甘いアンバー。ルカリウスの匂いが、ひやりとした空気の中に残っていた。ローゼリアは動かないまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。目を閉じる。あの視線も、声も、匂いも、指先も。今は何もかもが恋しかった。
寝台に腰を下ろすと、指先で寝具をなぞった。まだ、ルカリウスの形が残っている気がした。
「ルカ……会いたいわ」
返事はない。それでも、この部屋には彼の気配が染み付いている。
ローゼリアはそのまま身を横たえた。頬が寝具に触れる。ベチバーの香りが、静かに肺の奥へ落ちていく。ルカリウスの匂いに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。目を閉じれば、彼を近くに感じることができる気がしたから。
しばらくして、ローゼリアは目を開けた。
(私への置き手紙くらいないのかしら)
ルカリウスが置き手紙を書く男ではないのはわかっている。それでも、探したかった。
寝台から起き上がり、机へ歩み寄る。王室騎士団の封蝋が押された封筒。北境の魔物調査に関する書類。広げられた地図。生き残るための部屋の、生き残るための書類たち。
その中で、机の隅にだけ異質なものがあった。手のひらに収まるほどの、古びた木箱。無造作に置かれているのに、そこだけ空気が違う気がした。
(ごめんなさい、ルカ)
そっと木箱の蓋を開く。
中にはルカリウスの瞳と同じ色をした石のついた耳飾りがひとつ。紫色の石を抱くように銀細工が伸びている。不思議な意匠だった。花にも見えたし、欠けた月にも見えた。そして、折り畳まれた一枚の古びた肖像画。
ルカリウスが装飾品をつけているところなど、一度も見たことがない。耳たぶに穴さえ開いていない。それなのに、この耳飾りだけを大切に持っている。胸騒ぎとともに、血が引き寄せられるような感覚があった。
ローゼリアは肖像を手に取る。そこにはひとりの美しい女性が描かれていた。柔らかなミルクティー色の髪。吸血族にしては、どこか人間めいた柔らかさがあった。年齢は自分よりいくつか年上に見える。
静かな微笑み。左耳には──この耳飾り。
(こういう人が好みなのかしら……)
指先が、わずかに強くなる。
(誰……?)
(ルカの……好きな人?)
そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
部屋にはまだルカリウスの匂いだけが残っている。
肖像画を見つめているうちに、急に視界が揺れた。
「あれ……?」
足に力が入らない。ローゼリアはその場にしゃがみ込んだ。その時だった。
「ここにいましたか」
静かな靴音と同時に届く、澄んだ声。ジュニパーベリーの冷えた香り。
「フィオ……」
「……目を覚ましたばかりだというのに」
「まだひとりで歩くのは無理です」
セラフィオンはローゼリアの手を取り立たせると、そっと肩を支えた。ローゼリアは慌てて肖像画を木箱へ戻した。セラフィオンの視線が、その木箱に落ちる。ほんの一瞬だけ、その動きが止まった。
「……どうかしたの?」
「いえ」
セラフィオンは視線を逸らした。だがその表情だけは、珍しく固かった。




