第50話 目覚める者たち
王女宮。ローゼリアが眠りについて六日が経っていた。
部屋の空気は甘く、重かった。ダマスクローズとホワイトムスク。誰も換えていないのに、香りだけが残り続けている。窓の外には薄い雲。光は届くのに、温度がない。
「セラフィオン様。今ちょうどエリオ王子殿下がいらしております。リア様はまだお眠りのままです」
「そうか」
「何かございましたら、すぐにお呼びください」
ミレイユは一礼して、静かに扉を閉めた。
部屋に入ると、エリオが寝台の横の椅子に腰掛けていた。膝には開いた本。だがページはしばらく捲られていないらしい。指先だけが無意識に懐中時計を弄んでいる。視線の先にいるのは、眠るローゼリアだった。
「あ、研究者さん」
セラフィオンの顔を見るなり、エリオは手を振る。明るい声だが、目だけが笑っていない。
セラフィオンは無言のまま頷き、寝台へ近づくとローゼリアの手首に手を添え脈を確認した。
「リア、もう六日も目を覚まさないね」
エリオは眠るローゼリアを見つめた。指先が懐中時計の縁を、ゆっくりと撫でる。
「研究者さんはさ、遺跡の紋章の話どう思う?」
「まだ仮説を辿っている段階です」
「この国はさ、アストラ家が一番古くからある家紋とされているけど。人間と魔物はアストラより前から存在してるよね」
「……私もその点が気になっていました」
「神話でルミナスはさ、人間を守るためにノクティスに国を任せてアストラに均衡を管理させた。じゃあさ、人間には何も役割を与えてないと思う?」
セラフィオンは答えない。答えることで、どこまで自分が知っているかを晒す。エリオも、それを分かった上で問いを投げている。
建国神話のその先の隠された神話。アストラだけが伝承することもあるように、ルミナスだけが伝承したことがあってもおかしくない。ノクティスも、さらに人間にも同じことが言える。
「人間は守られる側だった。未来を観測する者もいない。王族性も持たない」
「そう。じゃあ均衡はどうやって保つの?」
セラフィオンの脳裏に、北境で見つかった石碑が浮かぶ。王族性を持たぬ人間。それでも神が均衡を託したというなら──。
「……まさか」
エリオは答えない。ただ楽しそうに笑うだけだった。
「ヴァルの受け皿か……」
「……やっぱり君はそこに辿り着くんだね」
エリオは目を輝かせた。その笑顔に、甘さと鋭さが同時に宿る。
セラフィオンの瞳が細くなった。アストラだけが、世界の裏側を見ていると思っていた。だが、そうではなかったとしたら。
この線を繋いでしまうと、もうひとつの危険な点に行き着いてしまう。青、赤、金──その三つの血だけで均衡が保たれていたわけではないのだとしたら。
ローゼリアの持つ血印は本来、ノクティスの血を絶やさぬためのもの。王族性を、他者へ分け与えるための遺物だ。もちろん、それは誰にでも許されるものではない。
子を残せるなら、本来、他者へ王族性を分け与える必要はない。血印を使うということは、それでもなお相手を未来へ残すという選択だ。ローゼリアは、その覚悟をルカリウスへ向けているように見えた。それを、当の本人だけが知らない。
ローゼリアは禁忌を犯した。死者の未来を書き換えただけじゃない。死者を生き返らせた。
「……ノクティスの均衡が弱まっているのか」
(均衡が崩れ始めている)
「原因はそこだけじゃないかも?リアだけのせいじゃないかもね」
セラフィオンは顎先に指を添え、低く呟く。
「封印は、もっと前から弱まってたということか……。人間側にも何らかの封印の役目があった」
「うんうん。その調子」
セラフィオンは理解している。未来を知るものは、答えを導くことはできても、答えを与えることはできないということを。
「アストラとルミナスは面倒だよね」
懐中時計をくるりと回す。カチ、と小さな音が甘い空気に沈む。
「見なくていいものまで見えてしまうもんね」
「研究者さん。未来って、変えられると思う?」
「未来は観測できても確定はしないはずです」
「ふーん」
エリオがにやりと笑う。
「じゃあさ、観測した未来で大切な人が死ぬとしても?それでも見過ごす?」
セラフィオンは答えない。エリオは懐中時計を指で弾きながら首を傾げた。
「大切な人を殺さなきゃいけない未来なら?」
「何が言いたいんですか」
「別に〜。ただ確認したかっただけ」
エリオは立ち上がり、少しだけ間を置いた。
「ねぇ、研究者さん。僕と取引しない?」
「取引ですか」
「うん」
眠るローゼリアへ、もう一度視線を落とす。その目だけが、一瞬だけ柔らかくなった。
「僕は王になりたくない。だから君の協力が必要なんだ」
「ルミナスが王になるということが、アストラが王になってはならないのと同じくらいの意味を持つことを、君ならわかるよね」
セラフィオンは数秒だけ沈黙した。
「何かを見たんですね」
エリオは肩をすくめた。
「さあ?」
「でもね、研究者さんは肝心なところを見落としてる」
「……何をですか」
「見えた未来が全部だと思わない方がいいよ」
エリオは振り返らず歩き出す。
「点はもう揃ってるよね。あとは繋ぐだけでしょ」
「どこまで知っているんですか」
「ルカ兄は、君が思ってる死に方はしてないよ」
エリオは足を止め、金の瞳で青い瞳をまっすぐ貫いた。セラフィオンは動けなかった。
「研究者さんなら辿り着けるでしょ?」
エリオはそれだけ言って、扉へ向かった。ベルガモットの香りが、少しずつ遠ざかる。
脳裏に、あの日の光景が焼き付いている。胸を貫かれたルカリウス。毒矢を握る自分の手。あれは確かに見た未来だ。
(違うというのか)
エリオは未来を知っている。少なくとも、自分より多く。
(何を見落としている)
セラフィオンの指先が無意識に石碑の写しへ伸びた。
『王は再び選ばれる』
北境の遺跡。ヴェルモント家。出自不明の女。ルカリウス。そして回帰。点は確かに揃い始めている。まだ線だけが繋がりきらない。
「う……ん」
二人の動きが止まる。
「……リア?」
扉に手をかけたエリオが振り返り、目を見開く。セラフィオンも寝台へ歩み寄った。
「リア」
長い睫毛が震える。翡翠の瞳がゆっくりと開いた。六日分の沈黙が、その瞳の中にあった。
「……ルカは?」
目覚めて最初の言葉だった。迷いなく呼ばれたその名に、セラフィオンの胸の奥が静かに軋んだ。六日ぶりに目を覚ましたというのに、ローゼリアが最初に探したのは自分ではなかった。
「……北境へ向かいました」
その答えを口にするまで、一瞬だけ時間がかかった。




