第47話 雨の出陣
ローゼリアが昏睡状態に陥ったという噂は、瞬く間に宮殿中へ広がっていた。もちろん公式には発表されていない。王女は過労による静養中。それが表向きの説明だった。
だが、人の口に戸は立てられない。王女宮へ出入りする医務官の数。深夜まで灯りの消えない部屋。厳重になった警備。それらを見れば、誰もが異変を察する。
そして今もなお。眠る王女は目を覚ましていなかった。
◇◇◇
月輪の間では、変わらず月の消失についての評議が続けられていた。高い天井。円形に並ぶ席。窓の外では、重たい雲が空を覆っている。
評議の温度がいつもと違うのは、王室騎士団の上層が集結命令を受けたことだった。王と王族、王室騎士団上層部、宰相、そして主要貴族達が顔を揃えている。
いつもの静かな評議とは違い、張り詰めた空気だけが月輪の間を満たしていた。
「月が消えたタイミングで、北境の魔物が増殖しております」
報告を受けた北境守備隊長バルト・グレイヴェルが頭を下げた。室内に小さなどよめきが走る。
「既に辺境の村が二つ襲撃されています」
「北境森林地帯にて、大型種を確認」
「大型種だと?」
王室騎士団長レオンハルトが眉を寄せる。長年騎士団を率いてきた男ですら、動揺を隠せていなかった。
「大型種は建国以前に絶滅したはずだ」
「はい。私も当初は誤認かと思いました」
バルトは緊張した面持ちで続ける。
「しかし生存者の証言が一致しております」
「特徴は」
アストレイオン王の声が響いた。バルトは一瞬だけ躊躇い、やがて口を開く。
「赤い角を持つ個体です」
その瞬間だった。アストレイオン王の指先が、わずかに止まる。レオンハルトの表情が強張った。だが誰も何も言わない。
ただ、窓の外を見ていたセラフィオンだけが静かに視線を上げた。
「……赤い角?」
宰相が思わず声を漏らした。バルトは頷いた。
「加えて牙も確認されています」
その一言で、室内の空気が変わった。赤い角と牙。その特徴を知らぬ者は、この場にはいない。
「馬鹿な……」
貴族の一人が顔を青ざめさせる。
「大型種は滅んだはずだ」
「報告に誤りはありません」
バルトはきっぱりと言い切った。
「既に複数の目撃情報があります」
アストレイオン王はしばらく沈黙していた。やがて静かに口を開く。
「……月が消えた直後か」
誰も答えない緊迫した空気の中、セラフィオンだけが別のことを考えていた。
月が消えた。ローゼリアが倒れた。そして角持ちの魔族が現れた。青い瞳が、ゆっくりと細められる。
(始まったのか)
誰にも聞こえないほど小さく。観測者だけが、その言葉を胸の内で呟いた。アストレイオン王は静かに腕を組んだ。
「原因は」
「不明です」
バルトは俯いたまま答える。貴族たちが議論を始めた。セラフィオンは何も言わなかった。青い瞳だけが、窓の外へ向けられている。
「王女殿下のご容体は?」
不意に一人の貴族が口を開いた。アストレイオン王は表情ひとつ変えなかった。
「静養中だ」
短い返答だった。貴族達もそれ以上は追及しなかった。だが誰も信じてはいない。王女宮から漂う不穏な空気は、既に隠しきれなくなっていた。
やがて話題は再び北境へ戻る。
「北境の被害範囲が広すぎます」
レオンハルトが地図を広げる。
「西側の渓谷地帯と東側の森林地帯。発生地点が離れています」
「一団では対処が遅れるか」
アストレイオン王が低く呟く。レオンハルトは頷いた。
「二手に分かれるべきかと。西側は私が率います」
レオンハルトの視線が動く。
「東側は、副団長ルカリウス・レヴァインが適任でしょう」
室内が静まり返った。反対する者はいない。アストレイオン王はしばらく沈黙した。
「レオンハルト・グランディア」
レオンハルトが片膝をついた。
「北境討伐西部隊、司令官を命じる」
「御意」
「ルカリウス・レヴァイン」
列席していたルカリウスが片膝をつく。
「北境討伐東部隊、司令官を命じる」
「御意」
胸の奥が軋んだ。ローゼリアは眠っている。まだ目を覚ましていない。それなのに、今、王都を離れろと言うのか。拳がわずかに握られる。だが騎士である以上、拒否はできない。
「異論がある者はおるか」
異論は出なかった。アストレイオン王は静かに頷く。
「ならば決定とする」
出陣は翌朝に決まった。評議を終えた人々が去ったあとも、雨は降り続いていた。人々が席を立つ中、ルカリウスは無言のまま出口へ向かった。
その背へ、静かな視線が向けられる。セラフィオンだった。青い瞳が、去っていくルカリウスの背を見つめている。ルカリウスは足を止めない。振り返りもしない。
今、ローゼリアの傍に残れるのはセラフィオンだけだ。
◇◇◇
翌朝。
王室騎士団が整列する中、ルカリウスは一人だけ視線を上げ王女宮の方向を見つめた。あの場所で、ローゼリアは今も眠っている。
会いたかった。せめて、もう一度だけ顔を見たかった。視線を王女宮から引き剥がすのに、思った以上の時間がかかった。
ルカリウスは静かに目を閉じる。その時だった。
「ルカリウス」
呼び止めたのはセラフィオンだった。ルカリウスが振り返る。青い瞳が静かにこちらを見ていた。雨に濡れても、その目だけは揺れない。
「何だ」
セラフィオンは無言で小さな銀のケースを差し出した。
「預かっていたものです」
ルカリウスは眉を寄せる。ケースを開く。中には赤い結晶のような小さな錠剤が数粒収められていた。
「これは」
「王女殿下の血から作った保存血です」
その言葉に、ルカリウスの指先が止まる。
「……リアの?」
自分が知らないところで。ローゼリアはそこまで考えていたのか。会えなくなった時のために。自分が飢えないように。錠剤のひとつに指先が触れる。冷たい。けれど確かに、ローゼリアの温度がそこにあった。
「人工血より遥かに効果は高い」
「緊急時のみ使用してください」
ルカリウスはしばらく何も言わなかった。やがてケースを握り締める。
「……リアは助かるんだろうな」
問いというより、願いに近い声だった。セラフィオンは一瞬だけ目を伏せる。雨が、二人の間を静かに落ちていく。だが次に顔を上げた時、その青い瞳には迷いがなかった。
「助けます」
セラフィオンは王女宮の方角へ視線を向けた。短い沈黙の後、静かにルカリウスを見る。
「必ず」
「……頼んだ」
馬が動き出す。討伐部隊が王都を離れていく。雨音だけが、二人の間を満たしていた。やがてルカリウスの背中が雨の向こうへ消える。セラフィオンは動かない。ただ、その背中が完全に見えなくなるまで、立っていた。
雨は、まだ止まない。
眠る王女だけが、その別れを知らないまま。




