第46話 眠る王女
「リア……!」
ルカリウスが崩れ落ちるローゼリアの身体を抱き締める。
「リア!」
「おい、目を開けろ」
「リア」
肩を揺する。返事がない。呼吸はある。それなのに妙に静かで。さっきまで笑っていたはずの顔が、まるで別人みたいだった。
「誰か来い! 医務官を呼べ!」
扉が勢いよく開き、駆け込んできたミレイユは、状況を見ると顔色を変えた。
「嘘……」
「ルカリウス様、リア様を寝台へ!」
珍しく強い声だった。けれど、ミレイユの指先が震えていた。ルカリウスは迷わずローゼリアを抱き上げる。腕の中の軽さに、胸の奥が嫌な音を立てた。つい先ほどまで、自分の腕の中で笑っていたはずなのに。
「リア……」
呼びかけても返事はない。ルカリウスは慎重に寝台へ運び、壊れ物を扱うようにローゼリアを横たえた。
赤い髪が薄紅色の寝具へ広がる。閉じられた瞳。色を失った唇。雨音だけが窓の外から低く落ちていた。ルカリウスは床へ視線を落とす。割れたグラス。飛び散った人工血。
「……あれを飲んだ直後だ」
「ルカリウス様、今はとにかく急いでください」
ミレイユはすでに扉へ向かっていた。
「医務官を呼びます。それとセラフィオン様も」
セラフィオンの名を聞いた瞬間、ルカリウスの拳がわずかに握られた。けれど今は、それしかない。
「頼む」
「お任せください」
ミレイユは扉を開いた。
「誰か! 医務官を!」
廊下の護衛騎士達が即座に動き出す。その瞬間、ミレイユが振り返った。
「ルカリウス様、今すぐお部屋をお出ください」
「……」
「今ここで見つかれば、リア様のお立場まで危うくなります」
ルカリウスは歯を食いしばった。寝台のローゼリアを見る。白い頬。閉じられた瞳。震える指先で頬に触れる。冷たい。それなのに、息だけはある。
「……死ぬな」
雨音に溶けた声だった。それ以上の言葉が出てこない。出せない。ローゼリアの頬から指先を離すと、ルカリウスはゆっくりと立ち上がった。振り返らなかった。振り返れば、動けなくなる気がした。
「私がお守りします」
その言葉を背に受け、ルカリウスは夜の雨の中へ消えた。
◇◇◇
廊下を走る足音。雨は強くなっていた。
先に部屋へ到着したのはセラフィオンだった。扉を開いた瞬間、足がわずかに止まった。空気が違うとすぐに分かった。寝台には青白い顔で横たわるローゼリア。呼吸はあるが弱い。甘い部屋の空気に、冷えた緊張だけが混じっていた。
セラフィオンは無言のまま寝台へ歩み寄り、ローゼリアの手首へ触れた。
(……王族性が乱れている)
脈ではない。血流でもない。もっと奥にある何かが、不自然に軋んでいた。視線が床へ落ちる。飛び散った人工血。割れたグラス。
(人工血を飲んだのか)
その時、医務官が駆け込んできた。セラフィオンは診察の邪魔にならぬよう、静かに身を引いた。
「失礼いたします!」
脈。瞳孔。呼吸。一通り確認した後、医務官は安堵したように息を吐く。
「命に別状はありません」
ミレイユの肩から、わずかに力が抜けた。
「ですが原因が分かりません。ひどく衰弱しています」
「安静にしていれば、目を覚まされるかと」
医務官は薬を処方し、一礼すると退室した。静寂が落ちた。雨音だけが、変わらず窓を叩いている。
セラフィオンは寝台へ歩み寄ると、医務官の処方した薬瓶を手に取り、中身を確認した。
「ただの衰弱ではない」
「人工血を飲まれた直後に倒れられました。原因は分かるのですか?」
セラフィオンはその問いに答えないまま、静かにローゼリアを見下ろした。眠る顔だった。いつもより無防備で、それだけが胸に刺さった。
「医務官では対処できない」
ミレイユの前で行うべきか、一瞬だけ迷った。だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。懐から小さな銀のナイフを取り出すと、迷いなく自分の指先へ刃を当てた。赤い雫が静かに滲む。
セラフィオンはローゼリアの顎へそっと指を添え、唇をわずかに開かせる。一滴。そしてもう一滴。赤い雫が、色を失った唇へ落ちた。
しばらくして。乱れていた呼吸が、わずかに落ち着く。青白かった頬にもわずかな色が戻った。
(やはりか)
問題は人工血そのものではない。禁忌の代償が、ここまで進んでいるとは思わなかった。
「セラフィオン様……」
ミレイユの声が、息を詰めるように小さくなる。
「リア様は助かったのですか」
「応急処置だ」
ミレイユが安堵の息を漏らす。けれどセラフィオンは笑わなかった。視線はローゼリアから離れない。
セラフィオンはローゼリアの手首へ視線を落とす。薄く咲き始めた薔薇。ミレイユもつられるように視線を向ける。けれど何も言わない。セラフィオンが沈黙している以上、それ以上踏み込むべきではないと分かっていた。
「当面は問題ない」
「医務官の処方した薬も、そのまま与えて問題ない」
青い瞳は、薄く咲き始めた薔薇の痣を見つめている。どれだけ正確に術式を組んでも、この痣だけは、止められない。
「……リア」
ただその名を呼んだ。それだけだった。
(間に合ってくれ)
初めてだった。観測ではなく、願ったのは。
雨は、まだ止まなかった。




