第45話 拒まれた血
白い湯気が、ゆっくりと視界を曖昧に溶かしていく。浴槽の中で、ローゼリアは静かにルカリウスへもたれかかっていた。背後から回された腕が熱い。
離れていた時間を埋めるみたいに、ルカリウスは何度も髪へ触れ、肩へ口づけを落とす。その度に、胸の奥が甘く痺れた。
「もう……触りすぎよ」
「会えなかった分、足りない」
湯気越しに見える紫の瞳が、熱を孕んで揺れていた。ローゼリアは小さく笑う。
「飢えたような目をしているわ」
「お前に、飢えてる」
その言葉に、胸が小さく締め付けられた。ルカリウスは抱き締める力を少しだけ強めると、ローゼリアの肩へ顎を乗せた。呼吸が熱い。肌を撫でる吐息だけで、身体の奥が震える。
「……リア」
その声音だけで、自分が求められているのだと分かってしまう。ローゼリアはそっと振り返ると、濡れた銀髪へ指を絡めた。
「飲む?」
一瞬だけ。ルカリウスの瞳が揺れる。だがすぐに、苦しげに眉を寄せた。
「……今日はやめる」
「どうして?」
「お前、少し冷えてる」
ローゼリアは小さく息を呑む。気づかれている。けれどルカリウスは、まだ理由までは知らない。ローゼリアは微笑むと、そっとルカリウスの頬へ触れた。
「平気よ。雨で冷えただけだわ」
「そうは見えない」
「それでも。私がルカに血を与えたいの」
その言葉に、ルカリウスの呼吸がわずかに乱れる。欲しい。けれど奪いたくない。その矛盾に耐えるみたいに、ルカリウスはしばらく目を閉じていた。やがて諦めたように、ローゼリアの肩を抱き寄せる。
「……やばかったら言え」
唇が触れる。そのまま、熱が首筋へ落ちていく。牙が肌へ沈んだ瞬間、ぞくりと背筋が震えた。甘い痛みが、ゆっくり身体の奥へ広がっていく。吸われるたびに熱が抜けていく。それなのに、奥の方だけが逆に熱を増していく。自分の血で、この男に生きていてほしい。
ルカリウスは普段より浅く、慎重に血を飲む。まるで壊れ物へ触れるみたいに。やがて牙が離れ、傷口へ静かに唇が押し当てられた。
「……無茶するな」
ローゼリアはぼんやり笑った。視界が少し滲む。湯気のせいだろうか。身体が妙に重いのに、どこか軽い。けれど今は、この熱に浸かっていたかった。ルカリウスの胸へ額を預ける。鼓動が聞こえる。生きている音。
「……ルカに血を吸われるの、すき……」
そう零した瞬間、ルカリウスの紫の瞳が熱を孕んで細められる。
「煽ってる自覚あるか?」
「……ないわ」
「嘘だな」
ルカリウスは耳元にそっと唇を押し当てた。熱を鎮めるみたいな、優しい口づけだった。ローゼリアは目を細める。
「……そんなこと言われたら止まらなくなる」
ローゼリアは小さく笑った。湯気の中で見上げた紫の瞳は、相変わらず危うい熱を孕んでいる。けれど今だけは、その熱が心地よかった。ゆっくりと唇が重なる。会えなかった時間。触れられなかった寂しさ。それらを埋めるみたいに、二人はしばらく静かな熱へ浸っていた。
◇◇◇
湯浴みを終え、ローゼリアは薄い夜着へ袖を通す。
ルカリウスは服を着る気配もないまま、腰へタオルを巻いただけの姿で壁へ寄りかかっていた。濡れた銀髪からは、まだ水滴が肩を伝っている。
「髪、ちゃんと乾かして。服も」
「そのうち乾く」
「風邪を引くわ」
そう言いながら、棚の上に置かれていた小さな風魔石を手に取る。
「俺が風邪引いたことなんて一度でもあったか?」
「使いなさい」
差し出された緑色の魔石を、ルカリウスはしばらく見つめた。
「……俺に使えと?」
「当たり前でしょう」
数秒の沈黙のあと、ルカリウスは諦めたように魔石を受け取った。淡い風が銀髪と身体を撫で、残っていた水滴を消していく。
「これで満足か」
「ええ」
ルカリウスは小さく息を吐くと、再び背後からローゼリアを抱き寄せた。
「……このまま離れたくないな」
「監視が増えてるのよ?」
「知ってる」
「少しだけ、我慢して」
「……つらいな」
子供みたいな声音だった。ローゼリアは振り返ると、そっとルカリウスの頬へ触れる。
「またすぐに会えるようになるわ」
その言葉に、ルカリウスは眉を寄せた。“また”。今はその言葉だけで安心できない。そんな顔だった。ローゼリアは誤魔化すみたいに微笑むと、テーブルへ置かれた銀のトレイへ視線を向ける。
ミレイユが用意してくれた人工血のグラス。いつもの光景。いつもの夜。ローゼリアは何気なくグラスを手に取った。
「いつもの人工血か?」
「そうよ」
「この間みたいに俺の血じゃなくていいのか?」
「ルカの血は最高に良かったわ」
ローゼリアは小さく笑う。
「でも、人工血に身体が慣れてるだけよ。気にしないで」
「そういうものなのか?」
人工血を飲まないルカリウスは、不思議そうに首を傾げた。
喉が乾いていた。血を与えた後は、いつも少しだけ身体が怠くなる。だから、深く考えず口をつけた。赤い液体が喉を滑り落ちる。
──次の瞬間。ぞわり、と。全身の血が一気に逆流したかのような感覚が走った。
「……っ」
呼吸が止まる。喉が焼ける。身体の奥で、何かが拒絶している。
「リア?」
ルカリウスが眉を寄せる。ローゼリアは答えようとして、息を呑んだ。立っていられない。視界がぐらりと揺れる。手からグラスが滑り落ちた。甲高い音を立て、赤黒い液体が床へ飛び散る。
「……っ、ぁ……!」
膝から崩れ落ちる身体を、ルカリウスが咄嗟に抱き止めた。
「リア!?」
強く抱き締められる。けれど寒い。急速に身体の熱が抜け落ちていく。浅い呼吸の中で、ローゼリアはぼんやりと思う。
(……右手首が、熱い)
薄い薔薇の痣だけが、まるで脈打つみたいに熱を持っていた。まるで──異物を拒絶するように。
ルカリウスの声が遠ざかる。雨音だけが、やけに大きく響いていた。
ローゼリアの意識は、静かに闇へ沈んだ。




