第44話 雨に溶ける熱
雨音が、ざわついた心を静かに掻き消していく。この湿った空気が、今は妙に心地よかった。薔薇の甘い香りに包まれた部屋で、ローゼリアは窓の外をぼんやりと眺めていた。
ルカリウスに会えない。護衛騎士を外されたわけではない。それなのに会えないのは、きっと裏で“会わせないため”に動いている者がいるからだ。
「リア様、湯浴みの準備が整いました。お手伝いいたします」
「自分でできるわ。ひとりにして」
ミレイユは着替えとタオル、人工血の入ったグラスを銀のトレイへ整えると、一礼して部屋を出ていく。扉が閉まったあと、ローゼリアはそっと右手首へ触れた。
(まだ……人に気づかれるほどではないけれど)
なるべく見られないようにしなければ。薄い薔薇の痣を左手で覆った、その時だった。
──コツ、と。微かな音が、バルコニーから響く。
「え……?」
慌てて扉を開けた瞬間。雨の匂いに混じって、湿ったベチバーの香りがした。その奥で、体温に溶けたアンバーが微かに甘い。濡れた銀髪。雨粒を纏った紫の瞳。雨の夜に、この人が現れるとは思っていなかった。
「ルカ……!」
王女宮の三階まで外壁を伝って来られる騎士など、ルカリウスくらいだろう。会えないと思っていた。もう今夜は、声すら聞けないのだと。ローゼリアは、吸い寄せられるみたいにルカリウスへ抱きついた。
「……もう、会えないのかと思った」
「……会えないのは、思った以上に堪えるな」
ルカリウスは目を細め、濡れた額をローゼリアの肩へ寄せる。雨の冷たさが肩越しに伝わってくる。それなのに、触れている部分だけがやけに熱かった。ローゼリアはそっと銀の髪へ指を通した。次の瞬間、その手首をルカリウスが掴む。そのまま引き寄せられ、唇が重なった。深く触れる前に、呼吸を確かめるみたいな口づけ。
「ルカ……濡れてるわ」
「お前も濡れたな」
笑う声が近い。それだけで胸が苦しい。
「ちょうど今、湯浴みをしようと思っていたの」
「……そうか」
ローゼリアはわずかに視線を揺らしたあと、微笑む。
「ルカ……一緒に入る?」
その瞬間。ルカリウスの視線が、ふと右手首へ落ちた。ローゼリアは反射的に、その手を隠す。
(まだ……気づかれないわよね)
胸の奥が、微かにざわついた。けれどルカリウスは何も言わない。ただ静かに濡れた外套を脱ぎ捨てる。
鍛えられた身体が、金の燭台に揺れる蝋燭の火へ静かに照らし出された。水滴が肩を伝い、燭台の光を弾いて落ちる。雨音だけが、王女宮へ深く降り続いていた。
◇◇◇
奥の浴室へ続く扉が静かに閉じられる。白い湯気が薄闇の中へゆるやかに広がっていた。磨かれた白大理石の浴槽。その縁には金の燭台が並び、揺れる蝋燭の火が水面へ淡く滲んでいる。雨音は遠い。ここだけ、世界から切り離されたみたいだった。
ローゼリアはゆっくりと肩からドレスを滑らせる。薄い布が足元へ落ちる音を、ルカリウスは黙ったまま見つめていた。その視線が熱い。触れられる前から、肌が熱を持っていく。
「……そんなに見ないで」
ルカリウスの紫の瞳が細められる。
「それは無理だな」
ローゼリアが笑う。
「少しくらい我慢できないの?」
「……今は無理だ」
ルカリウスは濡れた黒衣を脱ぎ捨てると、ゆっくりローゼリアへ歩み寄る。指先が肩へ触れる。それだけで、肌が熱を持った。雨を纏っていたはずなのに、腰へ回された掌は驚くほど熱かった。腰を引き寄せられる。距離がなくなる。ローゼリアは安心したように、ルカリウスの胸へ額を預けた。自分と同じくらい鼓動が速い。
「……本当に来てくれたのね」
「止められなかった」
その一言が、胸の奥へまっすぐ落ちた。銀髪から滴る水滴が、ローゼリアの肩を滑り落ちる。ルカリウスは目を伏せると、吸い寄せられるように首筋へ顔を埋めた。甘い薔薇の香り。その奥で脈打つ血の匂い。喉が熱を持つ。
「ルカ……?」
「……駄目だ」
「この匂い……溺れる」
ローゼリアの肩が微かに震える。ルカリウスは抱き締める腕へ力を込めた。
「おかしくなりそうだ」
その言葉に、胸の奥が甘く締め付けられる。ローゼリアはそっとルカリウスの頬へ触れた。
「私もよ」
ローゼリアは静かに背伸びをすると、自分からルカリウスへ唇を重ねた。今度は深く。熱を分け合うみたいに。唇が重なる度に、呼吸が乱れる。ルカリウスの指先が背中を撫でるたびに、力が抜けていく。触れられているだけなのに、身体の奥が熱く疼いた。
「……リア」
騎士ではなく。護衛でもなく。ただ、自分だけを求める声だった。ルカリウスはローゼリアを抱き上げると、そのまま静かに浴槽へ足を踏み入れた。
白い湯が静かに波打つ。熱い湯気が、二人の輪郭を曖昧に溶かしていく。
まるで、この世界から隠れるみたいに。




