第43話 本来あったはずの未来
──ローゼリア、ルシエル八歳。エリオ七歳。
「大人になったら、王子様が迎えにきてくれるのよ」
ローゼリアは嬉しそうに婚約者の肖像画を抱きしめる。王宮の温室。硝子越しの陽光が白薔薇へ落ちていた。薔薇の甘い香りが、温かな空気に溶けている。
「リア、最近どこ行くにもそれ持ってるよね」
ルシエルが呆れたように笑う。その笑い方が、エリオとそっくりだった。
「本物の王子が目の前に二人もいるのに」
エリオが肩をすくめた。口元だけで笑っている。
「あなた達は弟だもの」
「私の王子様は年上で大人なのよ」
ローゼリアは胸を張る。まるで会ったことがあるかのように。
「はいはい、未来の婚約者様ね」
「リア、御伽話ほんと好きだよね」
「ルシエルもエリオもひどいわ!」
笑い声が、温室へ響いた。
青い瞳の少年。“未来の婚約者”。ローゼリアはその絵姿を、宝物みたいに抱えていた。白薔薇の香りが、あの頃の温室に満ちていた。
◇◇◇
──ローゼリア、ルカリウス十四歳。エリオ十三歳。
「次から次へと新しい婚約者の肖像が送られてくるの」
「もう……誰とも婚約なんてしたくないわ」
「僕のところにも沢山来てるよ。ほんと最悪」
エリオがため息をつく。白い息が、冬の空気に溶けた。
「ルシエルが死んで、婚約者も死んで……」
ローゼリアは俯いたまま呟く。あの日から、“未来”という言葉が怖くなった。
「私の傍にいると、みんな不幸になるの」
王宮裏庭。冬の風が、静かに木々を揺らしていた。ルシエルが死んでから、三人で過ごしていた時間は、少しずつ形を変えた。
ルシエルのいた場所へ、いつの間にかルカリウスが立っていた。
「俺はならない」
低く、短い声だった。ローゼリアが顔を上げる。冬の光の中に、銀色の髪が光っている。
「僕もならないから安心して」
エリオが優しく笑う。けれどその目だけは、どこか遠くを見ていた。
「これからは毎日、王宮へ来れる」
ルカリウスはまっすぐローゼリアを見た。
「王室騎士団の騎士の試験、受かった」
「ルカ兄すごいじゃん。最年少騎士だ!」
エリオが目を輝かせる。けれどルカリウスは、そんなことには興味がないみたいだった。視線はずっと、ローゼリアだけを向いていた。
「俺は強くなって、リアを守る」
「不幸だろうが運命だろうが、全部斬る」
その瞬間。胸の奥で、何かが静かに変わった気がした。
けれど──騎士となった日から、ルカリウスは私を“王女”と呼ぶようになった。以前みたいに名前を呼んでくれなくなった。触れる距離も、笑う回数も、少しずつ減っていった。規律が厳しいことくらい分かっている。それでも、その呼び方をされる度に、少しずつ距離が遠くなる気がした。
そして気づいた頃には。私たちの間には、もう簡単には越えられない壁が立っていた。
◇◇◇
現在──研究塔。
「王命とはいえ、婚約を承諾するとは思いませんでした」
責めているわけではない。けれど、その奥には理解しきれない痛みが滲んでいる。ローゼリアは小さく目を細めた。
「断って欲しかったのかしら?」
雨音が、観測室の硝子を静かに叩く。セラフィオンはすぐには答えなかった。ただ、ローゼリアの手首を包む指先だけが、わずかに力を失っていく。
「……断れば、あなたは楽になれましたか」
ローゼリアは息を止める。“楽”。その言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
「私は──」
言葉が続かなかった。楽になりたいのか、自分でも分からない。
ルカリウスを失いたくない。死なせたくない。触れていたい。あの熱を失うことが、怖い。けれど同時に。セラフィオンの青い瞳を見る度に、“本来あったかもしれない未来”が胸を掠める。
「……どちらにせよ、私はもう、誰の花嫁にもなれないわ」
右手首の薔薇が、熱を持つ。ローゼリアは静かに笑った。
「それでも婚約を維持したのは、“均衡”のためでしょう?」
「ええ。あなたとアストラ家の婚約は、もう個人の感情だけで破棄できるものではない」
セラフィオンは否定しない。淡々とした声だった。研究者として。アストラの人間として。そう言うしかなかった。けれど、その青い瞳だけは静かに揺れていた。
「ですが──そんな政治的な感情だけではないことは、あなたも気づいているのではないですか?」
「……私たちって、残酷ね」
ローゼリアが笑う。
「死んだ婚約者が生き返ったのに、今度は私が死ぬんだもの」
その瞬間。セラフィオンの呼吸が、わずかに止まった。雨音だけが、観測室へ落ちる。
「……リア」
いつもと同じ呼び方のはずなのに、今だけは違って聞こえる。ローゼリアの翡翠の瞳が、わずかに揺れた。セラフィオンは何かを言いかけて、そして静かに飲み込む。
(──今さら、何を言える)
セラフィオンは静かに目を伏せた。指先が、ローゼリアの手首をわずかに強く握る。言葉の代わりに、それだけが残った。
雨音が、観測室へ降り続けていた。




